7.4.1 ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化の開花 世界史の教科書を最初から最後まで
モンゴル帝国が13世紀に領土を広げ、その支配が14世紀にゆるむと、中央アジア西部から西アジアはティムール朝の支配エリアとなった。
しかし、ウズベク人の侵攻を受け、ティムール朝は1507年に滅亡。
そうこうしているうちに、オスマン帝国、インド南部のヒンドゥー教を保護した王国(ヴィジャヤナガル王国)、東南アジアのイスラーム教徒の国々などによって、インド洋の貿易が活発化。
そこに、ポルトガル王国というヨーロッパ勢力も参入したことで、物流はますます拡大した。
インドもこうした情勢の変動と無縁ではない。
その頃、滅亡したトルコ系のティムール朝から、ティムールの子孫であるバーブルという男が、トルコ系のウズベク人の攻撃を避け、アフガニスタンのカーブルを中心に“再起”を図っていた。
かつてティムール朝の都が置かれていた、中央アジアのサマルカンドに戻るのはもはや難しいー。
ピンチに陥ったバーブルが着目したのは、北インドのデリーだった。
当時、アフガン人(パシュトゥーン人)がロディー朝というイスラーム教の政権を建てていた都市だ。
バーブルは騎馬遊牧民を率いて北インドに侵入、迎え撃ったロディー朝を倒し、デリーを占領。
1526年にデリーに政権を建てることに成功した。
しかし、初代君主バーブル(在位1526〜30年)は北インド支配に乗り気だったわけではない。
実質的に支配に本腰を入れたのは3代目のアクバル(在位1556〜1605年)だ。
なにせインドには、多数のヒンドゥー教などインド古来の宗教を保護する勢力が各地にうようよいる。
アクバルは強大な軍事力を背景に、インド各地の国々をおさえ、その支配階層にランク(官位)を与え、それに応じて維持するべき騎兵と騎馬の数を指定することにした。
これをマンサブダール制というよ。
同時に、全国的な土地の測量をおこなって、ガッチリ徴税。
中央集権的なトップダウンによる支配制度を確立した。
なお、首都はデリーではなく、その南東アグラに移した(当時のアグラにはまだ「タージ=マハル」は建てられていない)。
アクバルは、イスラーム教徒が多数派ではないインドの実情を理解し、むりやり改宗させたりといったことをせず、逆にどうすれば衝突せずに済むかどうかを工夫したことでも有名だ。
たとえばイスラーム教では、異教徒に対して人頭税(ジズヤ)をとることになっているけれど、アクバルはこれを廃止(人頭税を廃止)。
自身もヒンドゥー教徒を妻にとって、インドのヒンドゥー教支配層を安心させた。
また、イスラーム教の影響を受けて、ヒンドゥー教の中にもじわじわと改革運動が始まっていた。
バーブルがインドにやって来る前から活動していたのはカビール(1440〜1518年頃)だ。
彼はカースト制度の最底辺のさらに下に位置づけられた「不可触民」への差別を批判し、“人類みな強大”をうったえ、人々の心をぐっとつかんだ。
さらにカビールの思想は、インド北西部のパンジャーブ地方でナーナク(1469〜1539年)がひらいたシク教へとつながる。
シク教では、愛と献身(神様や他人のために自分の身を捧げること)によって、この世をつくった神様とともに生きれば、カーストによる差別なんてアホらしくなる。
みんなで一緒に働き、ごはんを食べ、お祈りし、聖なる歌を歌い、幸せに暮らそうじゃないかと呼びかけたのだ。
だからシク教徒には、宗教に関係なく “ごはんを誰にでもふるまう” という慣わしがある。
ナーナクのようにシク教の指導者をグルといい、その後の歴代グル自身も“立派な聖者”として信仰を集めていく。総本山はパンジャーブ地方のアムリットサルというところにあって、聖典『グル=グラント=サーヒブ』自体も、信仰の対象となっている。
シク教徒はその後17世紀以降、厳しい弾圧に立ち向かう中で、屈強な兵士を擁することで知られるように。イギリスに降伏した後は、イギリス軍の一団として世界中に派遣された。
日本人にとっても「インド人のイメージ」が、「ターバンにヒゲをはやしたシク教徒」のイメージとダブるのも、その名残だ。
さて、ムガル帝国の君主や支配層が中央アジアからやってきたことは、インドに新たな文化が持ち込まれるきっかけとなる。
中央アジアでは、歴史的に「イラン人の文化」がもっとも洗練された文化とされており、トルコ系の騎馬遊牧民たちにとっても、「イラン人の文化」は “憧れ”であり、“お手本”となるスタイル。
だから支配層たちの用いていた公用語も、イランのペルシア語だった。
そのペルシア語が、インドの地方語と混ざることで生まれていったのが、「ウルドゥー語」という新しい言語だ。
現在パキスタンの国語となっているね。
絵画の世界でも、イランの細密画(ミニアチュール)がインド古来のスタイルやモチーフと融合。イランやインド各地からアーティストが招かれ、ムガル絵画とよばれるジャンルに発展した。
たいてい「象」が描かれていて、カレー屋さんに飾ってあることが多いよ(笑)
また建築物としては、なんといってもタージ=マハルが有名だ。
宮殿のようにも見えるけど、実はこれ、第5代君主のシャー=ジャハーン(都はデリーに遷都し「レッドフォート」を建設)が亡くなった王妃ムムターズ=マハルのために建設した巨大なお墓。
白い大理石で建設され、そこに浮き彫りや透し彫りといった超絶技巧や、宝石のはめ込まれた壁は圧巻だ。
一見西アジアの建築のようだけれど、随所にインドならではのモチーフが混ぜられており、インド=イスラーム建築の代表例だよ。
これだけ壮大な建造物を建設することができたのは、ムガル帝国が西方のサファヴィー朝やオスマン帝国と盛んに貿易をしていたから。
特に西部のグジャラートというところの商人が貿易で活躍して富を蓄えているよ(現在のインドにおけるリライアンス・グループという財閥も、グジャラート発祥だ)。
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貿易で栄えていた国家は、南インドにもあった。
1336年に建国されたヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国だ。
インド北部がイスラーム教徒の政権であったときにも、南部でヒンドゥー教を守り続けた。
軍事力を高めるために、インド洋交易を通じて西アジアから大量の軍馬を輸入していたんだ。
ハンピはアクセスが悪いけど個人的には超オススメだ
しかし17世紀に入ると抗争に破れて衰退し、それ以降南インド各地では、各地方に武装勢力が自立する状況となっていく。
ただ、貿易は依然として活況のまま。
南インドで豊富にとれる綿花と、綿糸を編み色鮮やかに染色された手織りの綿織物は、その高い技術力から、世界各地の “憧れの的” であり続けたんだ。