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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑲ 1848年~1870年の世界(中)

1848年〜1870年の【図解】世界史のまとめ。今回は(上)(中)(下)のうちの()です。


ーさて、ヨーロッパで「クリミア戦争」という、あまり聞き慣れていないかもしれない大戦争が起きていたころ、アジアはどんな感じだったんだろうか。


そのへんで()はおしまいにしていたよね。

はい。
ちょうど1853年10年に始まった戦争は、1856年3月まで続く...と参考書に書いてあります。
その間にアメリカ合衆国が日本と琉球王国に「開国」を迫るんでしたよね。


ーそうだったね。
 ちなみにその間のアジアでほかに何が起きていたのか調べてくれないかな。


...えーっと、中国では「太平天国の乱」というのが起きていますね。


ーそうだね、ちょうどその時期だ。

    「太平天国」というのはね、キリスト教の影響を受けた教祖が、伝統的な中国の価値観や清(しん)の支配を否定し、「みんなが平等に暮らせる中国」をめざしておこした反乱だ。


なんだかフランス革命みたいな話ですねえ


ーだよね。しかも反乱は中国南部の広範囲におよび、清が鎮圧することが不可能なほどしっかりとした政府を樹立する。
    首都は現在の南京(なんきん)に置かれ、「天京」(てんけい)と呼ばれた。

キリスト教の影響を受けたってところが面白いですね。

ーここにも世界の地域を超えたつながりが反映されているよね。


この時代からは、地球儀をくるくる回すように世界史を見ていくことがますます必要になってくる。




    さて、当時、中国の港町のいくつかはアヘン戦争後に結ばれた条約(注:南京条約)によって開かれていた。

    反乱勢力の動きが広まる一方で、イギリス、フランス、ロシアなど、ウィーン体制崩壊後のゴタゴタやクリミア戦争に忙殺されていたヨーロッパ諸国は介入しようにも戦力を割くことができる状況ではなかったんだ。

    唯一ロシアだけは、クリミア戦争直前に日本との貿易を求めて長崎に国書を渡しにやってきているけどね(注:プチャーチン)。戦争が始まると、それどころではなくなっちゃう。


プチャーチンってはじめて聞きました。


―そうだね、ペリーのほうが有名だよね。


ペリーが日本を開国するのは、まさにこのタイミングだったんですか。

ーそうだよ。
 アメリカ合衆国大統領(注:フィルモア)は東インド艦隊を派遣。大西洋からインド洋を通り、香港(ホンコン)→琉球王国→日本の順番に寄港したんだ。

あれ? 太平洋を横断してやって来たんじゃないですか?

―イメージ的にはそうかもしれないけど、実際には大西洋からアフリカの南端まわりでやって来たんだよね。


 日本はオランダ(注:別段風説書(今年、吉川弘文館から集成が出版されました(吉川弘文館『オランダ別段風説書集成』)))や、漂流中にアメリカ船に救出され渡米し英語をマスターした後帰国した元漁師(注:ジョン万次郎)からの情報から、かなり詳しい情報を事前に把握していたため、「青天の霹靂(へきれき)」というわけではなかったのだ。


なお、ジョン万次郎はゴールドラッシュも体験している。



太平天国の乱が大変なときですね。

ーその通り。本当はもう少し多くの艦船を用意して日本を脅かそうと考えていたようだけれど、かなわなかった。

 占領された南京にいるアメリカ人を救う任務が生じてしまったからだ(注:三谷博『ペリー来航』を参照のこと)。


    で、結果として翌年、こんどは3隻増えて7隻の艦隊(注:当時の絵では8隻が描かれているが、実際には7隻)で再来航した黒船艦隊が迫る中、日米の間に結ばれた条約(注:日米和親条約)では、武力が行使されることなく(大砲を使っちゃダメだという命令を受けていた)、「貿易抜きの開国」が定められることになった。


えっ、貿易は抜きなんですか!?


ーあくまで主眼は、漂流船の救助に置かれていたんだよ。

    その後、琉球王国の場合は日本と違い自由貿易も認めさせているのとは大違いだ(注:琉米修好条約。その翌年にはフランスも自由貿易を認めさせている琉仏修好条約)。

    

日本は「開国」ということになったわけですけど、それに対するヨーロッパ諸国の反応は?

ークリミア戦争に忙しいイギリス(注:日米和親条約と同年にロシア船の入港を防ぐために日本との間に協約(原文はこちら(日本政治・国際関係データベース)を参照)は結んでいる)、フランスロシア(注:一歩遅れてロシアも日露和親条約を結び、長崎も開港させた)は、東アジアにおけるアメリカ合衆国の「割り込み」に対して静観するしかなかった。

    前の時期に中国が結んだ条約と比較しても、日本はよりソフトな内容で済んだと言えるね。


だって「貿易」抜きなんですもんね。


ーうん。さらに条約を結んだ翌年には、海外情報翻訳のための機関(注:洋学所)が設立され、さらに西洋式の海軍建設のための研究所(注:長崎海軍伝習所)も建てられている。勝海舟が軍事を学んだのは後者においてだ。


   お隣の中国が同様に西洋風の軍事技術の吸収に励むのはアロー戦争の後のこと(注:1860年代の洋務運動)だから、日本の瞬発力がそれに先んじていたのは間違いない。

    日米和親条約の翌年に、タイに対して自由な貿易を求める条約(注:ボウリング条約)が結ばれたことを考えても、やっぱり日本の状況はちょっと異質だ。



ところでクリミア戦争が終わったら、この状況はどう変わるんでしょうか?

ー敗北したロシアは南下をあきらめ、ユーラシア大陸の中央部へと矛先を変えるよ。

    現在のウズベキスタンのあるあたり(中央アジア)のウズベク人の国への進出を始めるんだ。

    それを嫌がったのがイギリスだ。中央アジアを押さえられてしまうと、がっちり統治しているインド北方が危険にさらされてしまうからね。

    イギリスはなんとしてでもインドを守りたい。


    ちょうどその頃、インドの西隣のイランを統治していたのはカージャール朝ペルシアだった。

    このペルシアの統治は、すでにロシアとイギリスの介入によって脅かされており(すでに前の時代にロシアとの間に不平等なトルコマンチャーイ条約、イギリスとの間に防衛同盟条約が結ばれていた)、1848年には民衆による大規模な反乱(注:バーブ教徒の反乱)が起きている状態だった。


余談だが、この聞き慣れない「バーブ教」の教祖の墓はなんとイスラエルのハイファという港町にある。反乱は鎮圧されたものの、この墓のあるイスラエルなどに追放された人々の「バハーイー教」の信仰へと形を変え、現在も影響力を持ち続けているのだ。

 

   ロシア支援の下、ペルシアがインド西北のアフガニスタン王国(注:ドゥッラーニー朝)の西部を攻撃(1856〜1857年)すると、イギリスはこれを押し戻してアフガニスタン西部だけでなく、ペルシア湾岸地域を占領。
    戦後の条約(1857年)によりイランとアフガニスタンの国境線を確定してしまった。


なんだかアジアもにわかに慌ただしくなってきましたね。

ーヨーロッパの進出が強まれば強まるほど、進出される側のアジアだってだまっちゃいない。

    まず中国(清)では、自由貿易をさらに拡大しようとしたイギリスが戦争を起こす。
    フランスを誘って...


クリミア戦争のときと同じコンビですよね。

―そう、するどい。

 イギリスとフランスはここでも行動をともにしているんだ。

 2国は中国を共同で攻撃。
 圧倒的な軍事力に対して、中国の人々は1860年に至るまで戦い続けた。最終的に不平等な条約が結ばれて、2年後にはイギリス軍司令官(注:ゴードン)が中国人を率いて太平天国の乱を鎮圧するに至った。


    このアロー戦争と同時並行する形で、インドではイギリスに対するインド大反乱が、ベトナム(注:阮朝)ではフランスとの間に防衛のための戦争を戦った。結果的にインドはイギリスによる直接支配を受けることとなり(注:ムガル帝国の滅亡)、ベトナムもフランスによって自由貿易が認めさせられることになった。


    日本が大規模な戦乱を経験することなく貿易を認める条約(注:日米修好通商条約)をアメリカ合衆国と締結できたのは、西アジア〜中央アジア〜南アジア〜東南アジア〜中国の間の大混乱に、ヨーロッパ諸国が心血を注いでいたためとも考えられるのだ(注:ただし同時期の朝鮮は、日本とは対照的に強硬な排外政策をとっており、それがその後の分かれ道となっていく)。
    しかし日本へのアメリカの介入は、その後ピタッと止まることになる。


どうしてです?

ー今度はアメリカ合衆国の“国内”で大戦争が起きるんだよ。
なんと62万人もの戦死者を出したんだ。

その多さは第一次世界大戦の11万、第二次世界大戦の32万の死者と比べても歴然だ。


そんなに...でもどうして戦争に?

―奴隷制を認める方針だった北部アメリカと、奴隷制を認めない立場を取っていた南部アメリカとの対立がエスカレートし、南部アメリカが「アメリカ連合国」という別の国として独立宣言しちゃった。

    それを認めない北部アメリカ中心の「アメリカ合衆国」が、「アメリカ連合国」との間に近代兵器をガンガン投入して本気で戦争しまくった結果、それほどの死者を出すとんでもない戦争に突入してしまったんだ。


うわあ、大変。だから日本にくる余裕なんてなくなったんだ、と。

ーそう。

    この南北戦争は、「アメリカ合衆国は2つの国に分裂したわけではなく、あくまで「内戦」に過ぎない」という立場から、「アメリカ合衆国の歴史教科書」では「内戦(the Civil War)」と呼ばれる。

    アメリカ合衆国はクリミア戦争中に南のメキシコに介入していたんだけど、南北戦争が始まると、今度はヨーロッパ諸国がメキシコにちょっかいを出すようになる。

 最終的にフランスがメキシコを直接統治(注:メキシコ帝国)することに。しかし南北戦争が終わるとフランス統治は崩壊。新しく共和国になったメキシコは、先住民の大統領(注:フアレス)が就任することとなった。


あらら、フランスにメキシコを占領していた時期があったなんて。 


―もう一つ、この時期に東アジア方面に来なくなっていた国があるけどわかる?


うーん...。

ー先ほどのアロー戦争のときに、ちゃっかり東アジアで領土を増やしていた国があってね。


ロシアでは?

―正解!

    イギリス・フランスと中国(清)との間の仲介をするという役を買って出て、その代償に沿海州(注:日本海沿岸)の広い土地をゲットしたんだ。


ついに日本海にまで到達しちゃったんですね。ヨーロッパ発祥なのに。

ーいつの間に?っていう感じだね(笑)

    でもこの直後のロシア国内は結構大変になっていた。クリミア戦争に負けたのは、自国の近代化が甘かったからだ...と猛省した皇帝(注:アレクサンドル2世)が「大改革」を実行。農奴を貴族領主から解放してあげようとしたんだ。しかしそのことに貴族領主が猛反発! 大変な騒乱に発展していたんだよ(注:一月蜂起(ポーランド問題))。


    まあ、そんなわけでアメリカもロシアも日本に来なくなったけど、その代わり日本では「貿易を許す条約」(注:日米修好通商条約)を結ぶときに必要なはずの天皇の許可が得られていない!と主張する反対派と、「現実的に考えて、条約を結ぶのは世界の情勢を見るに避けられない」とする賛成派との間に、大きな亀裂が生まれ、それがやがて大きな渦となって日本列島を包み込むようになっていった。

    しかし、この時期にはすでに日本からの使節や留学生が、公的あるいは秘密裏(注:伊藤博文、井上馨、新島襄、寺島宗則、森有礼、陸奥宗光など枚挙にいとまがない)にアメリカやヨーロッパに渡っていたため、かなり現実的な認識のできる人は政権内に存在していた。


そろそろ江戸幕府が滅亡するころですよね。

ーそうだね。1867年に滅亡するから、あとちょっとだ。


    その頃のアジアを見ると、①アロー戦争(1856〜60年)や②インド大反乱(1857年)、③太平天国の乱(1851〜64年)も終わって、アジア各地の騒乱がひと段落したころ。

 ヨーロッパ諸国の「戦乱の中心」は、ヨーロッパ自体へと戻っていくことになる。また、アメリカ合衆国は南北戦争(1861〜65年)からの復興期に当たるね。


なるほど! つまり、日本でしれっと政権が倒れた理由って...

続く




このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊