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新科目「歴史総合」を読む 2-2-8. 「大衆」の出現とその動向

■国民国家・資本主義の進展と「大衆」の出現

サブ・クエスチョン
「国民国家」と「資本主義」の進展は、両立可能なのだろうか?

 歴史総合における「国際秩序の変化や大衆化」の章は、おおむね1910年代〜1950年代を扱う。

 ここでちょっとおさらいをし、その上で改めてこの時代を見る視点を、大づかみで見通していきたい。 


 18世紀末〜19世紀にかけて、欧米諸国や日本では、旧来の身分制度が解体され、国民国家づくりが始動していったことはすでにみてきた通りである。
 国民国家づくりの始期は、国によっても差があるし、それ以前の歴史的な過程を踏まえたものでもあった。
 しかし、程度の差こそあれ、どの国においても、封建的な身分制度を解体し、「国民」というまとまりをつくろうとする方向性(ベクトル)は共通しているといえよう




 


 新科目「歴史総合」では、日本がヨーロッパにならった国民国家形成を始動するようになった直接的なきっかけを、18世紀後半以降盛んになった欧米諸国のアジア・太平洋進出であるととらえている。

 これを《近代化のベクトル①》と呼ぶことにしたい。


日本の欧米諸国との接触は、ペリーの「黒船」来航(1853)が最初であったわけではない。安永7(1778)年には、北海道の厚岸にロシア商人が通商要求し、翌年、松前藩の役人が通商拒否を伝えている。この図は初の日露会談を描いたロシア人の絵図である(パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/パベル・レベデフ=ラストチキン#/media/ファイル:Russians_meeting_Japanese_in_Akkeshi_1779.jpg。実際は着色されている)。




 一方、国民国家の形成と並行して、産業革命によって駆動された工業化が、資本主義経済を成長させていった。

 すこしむずかしくいえば、それまで存在した共同体や職能的・地縁的特権組織を解体し、バラバラな存在である個人を析出する過程であり、機械を用いた商品生産が、賃金を受け取る非熟練労働者によって大量に生産されるようになっていくことである。

 こちらを《近代化のベクトル②》と呼ぶことにしよう。






 19世紀に出現した国民国家群は、相互に対等な権限を持つ主権国家と認め合うことで発展した。ヨーロッパに起源をもつ主権国家体制は、日本では「万国公法ばんこくこうほう」と訳された。しかし、対等とはいっても、経済力には大きな差があるし、その差は軍事力の差に直結した。当時の主権国家体制には軍事力を抑制する装置がなく、「武装による平和」が基本だった。
 そこで、いかに多くの武器や艦船、食料を供給しうるかが、各国民国家にとっての課題となっていった。国民国家を存続させ、繁栄させるには、大量生産を促進する資本主義経済の発展が欠かせなかったのである


 しかし一方で、資本主義経済の発展は、国内に「階級対立」という新たな分断をもたらすことにもなる。
 国民国家形成のためには、すべての国民に政治的発言権を与えるわけにはいかない。農村や都市の多少の歪みには目をつむり、資本主義経済を発展させ、国力を高めることが最優先であったからだ。


 しかし、「国民」としての意識を持つにいたった人々は、次第に、みずからの置かれた境遇の改善を、政府に申し立てる手立てのないことに、苛立ちを隠せなくなっていく。
 たとえば、旧来の共同体が解体されたことにより、バラバラな個人として都市に投げ込まれた人々、さらには農村でも土地所有権を持たず、小作人となった人々のことである。



たとえば都市内部の中をのぞいてみると、一方の極には大企業の経営者があり、他方の極には中小工場の経営者から、その下で働く職工や職人、さらには日雇い労働者に至るまで、資本主義経済の生み出したさまざまな立場の人々がうごめいていた。

 


「国民」としてのまとまりをつくりだしていきたい政府にとって、これは憂慮すべき事態である。
 そこで政府は、当初は農村や都市の人々による政治集会や騒擾を、徹底的に弾圧する方針をとった。


 
しかし、そんなこといつまでもやっていようものなら、「国民」づくりは一向に進まないし、コストもかかってしまう。
 そこで政府は、次第に彼らを、あの手この手を使い、政治の「主体」としてたくみに取り込む動きをみせるようになっていく。暴力的な手段を用いた抵抗運動ではなく、政治的な発言のできる正規のルートを用意していった。


 すなわち、選挙権の拡大である。

 日本においてこのような転換点を生んだ事件として重要なのが、「米騒動」にはじまる一連の騒擾や社会運動だった。

 政府には、たとえ物言う人々に政治的な権利を付与していったとしても、そのうち経済がますます発展し、生活水準が改善されていけば、しだいに不満も減るだろうという観測もあった。
 事実、20世紀初めにかけて、多くの国では生活水準が向上し、都市で消費を楽しみ、週末は余暇を楽しむことのできる新中間層が形成されていくようになっていくのだ。

資料 新中間層(→サラリーマンは2−2−5. アメリカ合衆国の台頭と大衆消費社会を参照)

 サラリーマンを新中間層とするなら、旧中間層とは具体的には、「旦那衆」(中小商工業者) のことで、親方[職人の親方]や中小商店主や中小工場主などである。新中間層として想定されうる職業は、官公吏や教員や会社員や職業軍人などの俸給生活者=サラリーマンである。 彼らは、旧中間層たる中小商工業者(「旦那衆」)が家産的職業を親から受け継いだのに対し て、学校教育・学歴によって自らの力で、社会的地位を獲得していったのであった。

《引用》
 大正時代のサラリーマンは洋服細民[貧民]、腰弁、俸給生活階級、中流階級というぐあい に呼ばれていた。腰弁とは腰に弁当箱をぶら下げて会社通いをする人間というほどの意味 である。このことからもわかるように、大正のサラリーマンは、事実上は社会の最下層に いながら、世間では中流階級であるとみなされていた。
(『大正文化 帝国のユートピア』竹村民郎、三元社、2004年、p.110)
《引用終わり》

(出典:木村敦夫「島村抱月の通俗演劇論」『東京藝術大学音楽学部 紀要』第34集、平成 21年3月、https://geidai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=478&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=17





 また、選挙権を獲得した人々は、後で見ていくように政党や労働組合など様々な社会運動の組織をつくるようになった。その背景には、政府が進めた国民づくりの結果、文字が読める人が増えたおかげで、マス・メディアが発達したこととも関わっている。大量に刊行される新聞や雑誌は、似たような趣味や習慣、意見、行動様式を持つバラバラな人々を結びつけ、まとまりのある「大衆」を生み出していったのだ。商業的な成功をおさめた新聞・雑誌の中には、数十万〜数百万部もの売り上げを上げるものも現れた。



 大衆の登場は、国内政治にも大きな影響を与えていく。

 たとえば、これまで一部の利益集団の声のみを聞き、明治維新で活躍した一部の藩出身者が要職を占めていた政府もいよいよ、大衆の動向を、無視できなくなり、政党政治が始まったのだ。新聞や雑誌といったマス・メディアが政治家のスキャンダルを煽情的にとりあげるようにもなった。つまり、この点において《近代化のベクトル②》(資本主義)によって生み出されたマス・メディアは、《近代化のベクトル①》(国民国家)と対立する。

 そこで「米騒動」(1918年)以降の1920年代を通して日本政府がとっていったのは、国民国家の統合にとって問題であると見なした思想・言説や集団を、選択的に弾圧していく対応策だ。特にソ連のコミンテルンとの関わりのある共産党は、徹底的な弾圧の対象となった。


 しかし、《近代化のベクトル①》(国民国家)《近代化のベクトル②》(資本主義)は、つねに逆向きの方向を向き、対立していたわけはない。

 すでに「近代化」の章で見てきた通り、《近代化のベクトル②》(資本主義)は、その規模が拡大すればするほど、国外に資源の供給地や市場として植民地を求め、対外的な膨張を志向する(それは、イギリスの非公式帝国のように常に直接的な領土支配をともなうとは限らないが、植民地の拡大として最も典型的に現れる)。


 こうして《近代化のベクトル①》(国民国家)を推進していった欧米諸国・日本は、1870年代頃から帝国主義的な政策をとることになる。

 この方向性を《近代化のベクトル③》(帝国主義)としてとらえてみよう。

 
 国民国家を中核にして、外部の植民地を拡大していく動きは、1880年代のアフリカ分割、1890年代末の中国分割などを生み出し、帝国主義諸国間の緊張関係を生み出した。
 それと同時に、国民国家の中核に住む人々(国民)の間には、自分たちの暮らしが、植民地支配によって支えられているという意識が育っていった。それは人種的な優越意識と結びついたもので、帝国の中心たる国民を自認する当時の大多数の人々にとってみれば、至極当たり前の考え方だった。





 さまざまな集団を形成し、みずからの主張を展開する大衆をコントロールするために、政府が利用していくことになるのは、そのような帝国意識だ。
 要するに《近代化のベクトル②》(資本主義)に起因するゴタゴタを、《近代化のベクトル③》(帝国主義)によって《近代化のベクトル①》(国民国家)へと反らすわけである(なお、帝国主義的な政策は、しばしば社会保障・社会福祉といった事業とセットで推進される)。


 ヨーロッパにおいては1920年代、日本においては1930年代に入ると、むしろ大衆の側から帝国主義を強力に推進し、そのために政府による強いコントロール(社会政策・社会事業から戦争にいたる国民生活全般にわたる統制)を望む動向も生まれるようにもなっていく(このことについては2-2. 経済危機と第二次世界大戦以降で見ていくことになる)。



 


■日本における「大衆」の出現

 まずは、大づかみに流れを紹介した。
 では次に、日本で「大衆」が存在感を持つようにいたる経緯を具体的にみていくことにしよう。

サブ・クエスチョン
日本において「大衆」が存在感を持つに至ったのは、なぜだろうか?


日比谷焼打事件

 日本において、人々による政治的な要求が暴力をともなって現れるようになるのは、1905(明治38)年日露戦争の条約調印の日の東京でおきた日比谷焼打事件ひびややきうちじけんが最初期のものといえる。戒厳令が敷かれ軍隊が出動したが、講和反対運動は各地にひろがり、藩閥政府への批判に発展。1906(明治39)年1月に、第一次桂太郎内閣は退陣を迫られた。

資料 日比谷焼打事件と「旦那衆」・「都市雑業層」
「より重要な、もう一つの動きは社会運動となって現われます。社会運動の担い手は二つの層に分かれます。一つは、「都市雑業層」と呼ばれる日雇いや人足・職人といった、都市における下層の人びとです。彼らは日露戦争後、暴動を起こします。1905年の「日比谷焼打ち事件」が「大正デモクラシー」の発端と言われていますが、この運動は、日露戦争後のポーツマス条約に賠償金が盛り込まれなかったことに対する不満から起された暴動でした。この時期は、東京のみならず、横浜、神戸、大阪など各地の大都市で、彼ら「都市雑業層」による暴動が起こりました。

もう一つの社会運動の担い手は「中間層」です。より厳密にいえば、旧中間層と呼ばれる「旦那層」で、家作を持ち、それを商売の元手にしている商家、あるいは中小の工場を経営し、「都市雑業層」を雇う立場の人びとです。彼ら「旧中間層」-「旦那層」も社会運動を起こしました。彼らはとくに地代や電気料金の値上げに対し、反対運動をしました。しばしば地域の名望家たちで、彼らが社会運動を起こしたため、「大正デモクラシー」は大きな潮流となったのですね。

社会運動の二つの担い手――その両者をつないでいたのが、新聞記者と弁護士でした。新聞記者は「都市雑業層」の暴動や「旦那衆」の運動の様子を記事にしたり、ときには自ら参加するなどして、社会運動を盛り上げていきました。また、弁護士は、逮捕され起訴された「都市雑業層」の弁護にあたりました。

―― 「旦那衆」が商売に不可欠な、地代や電気料金に対して運動をする理由は分かります。しかし、なぜ「都市雑業層」は、ポーツマス条約に対して暴動を起こしたのでしょうか。電気代や地代に比べ、生活の必要性からは遠いような気がするんですが。

むしろ、「都市雑業層」の方が切実な理由があって暴動を起こしたといえます。彼らは、都市のなかで単身で暮らしていて、「旦那衆」に雇われているような人たちですが、農民とともに、日露戦争のときにもっとも痛めつけられた階層といっていいでしょう。経済的な痛手が大きいのです。日露戦争の戦費の調達のため大増税がおこなわれますが、所得税ではなく間接税が上がりました。たばこや酒、砂糖といった、「都市雑業層」にとって仕事が終わった後の息抜きに不可欠なものに、税金がドーンとかかっていきました。彼らには、自分たちが戦費を負担している気持ちがあったわけです。日露戦争が終わって賠償金を取れば、自分たちの生活に還元されると思っていました。

ところが、ポーツマス会議では賠償金が取れませんでした。日本はかたちのうえでは「勝利」しましたが、実際には引き分けに近いギリギリの戦いだったので、ロシアに対し強い要求が出せなかったのです。「都市雑業層」からしたら、それは期待していたものが裏切られたということになります。「俺たちは弱腰の政府のもとで苦労していたのだ」という不満が残ります。さらに、彼らは選挙権を持っていないので、自分たちの意志表示をするためには、集会か運動しかありませんでした。そのようななか、日比谷公園で講和反対の集会が政府によって事前に禁止されてしまった。そこで、彼らの不満が爆発し暴動になってしまいました。」

Q. 日比谷焼打事件という都市暴動には、どのような人びとが参加したのだろうか? 

(出典:成田龍一氏インタビュー「「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのか
」、2014年2月17にち、https://synodos.jp/opinion/politics/7102/


(出典:藤野裕子『民衆暴力—一揆・暴動・虐殺の日本近代』中公新書、2020年、120頁)
日比谷焼打事件を伝える『東京騒擾画報』の挿絵(1905年)、https://webronza.asahi.com/photo/photo.html?photo=/S2010/upload/2019041000003_1.jpg



Q. 内務大臣官邸、外務省、桂太郎私邸のほか、路面電車(東京市街鉄道会社の15台)が放火されたのは、なぜなのだろうか?

資料 日露戦争にともなう増税

(出典:外園豊基編集代表『最新日本史図表 三訂版』第一学習社、2020(改訂24版、初版2004年)、263頁。日露戦争戦費(臨時軍事費)計17億4660万円のうち、外債は6億9000万円、内債は6億2400万円、一般会計繰替1億8900万円、一時借入金1億7900万円、その他6400万円となっており、外債(全体の39.5%)、内債(35.7%)の支払いは、国民の租税負担に転嫁された。すなわち、1904年と1905年に非常特別税法により、地租増徴、煙草・塩の専売制、各種の消費税新設・増徴が実施された。都市民衆の楽しみであった煙草の価格を直撃したことは言うまでもない。非常特別税は軽減されることなく、平時の課税に固定化されていった。


 日露戦争の戦費や諸税の内訳については、以下の表も参照のこと。非戦論を展開した『平民新聞』(1904年2月14日号。当時、社会主義者の拠点となったメディア)が「嗚呼満洲も取る可し、朝鮮も取る可し、西伯利も取る可し、然れども吾人平民は是等の地より何物をも得可らざるを如何せんや…」と述べたところとあわせて考えたい。


資料 非常特別税収入確定案

(出典:歴史学研究会『日本史史料4近代』岩波書店、1997年、261頁)
(出典:歴史学研究会『日本史史料4近代』岩波書店、1997年、262頁)


資料 『東京パック』(1910年)の風刺画

庶民のセリフ「此上このうえ取られるものは命ばかりだ」
左でムチを打っているのは、桂太郎首相


 第一次世界大戦中から戦争終結までの間、世界各地では労働者や民族などにより、さまざまな形で「下からの運動」が活発化しており、そうした同時代の世界の情報も、人々の意識に少なからぬ影響を及ぼした(→2-2-4.ソヴィエト連邦の成立と社会主義を参照)。


政府の対応


 では、政府はどのように増税路線を進めようとしていったのだろうか?

 まず、選挙で選ばれて政治家になる人たちの顔ぶれを変えようとしたことが重要だ。
 これまで選挙権の担い手だった地主は、政府の増税に対して反発しがちだ。

 そこで、すでに日露戦争以前に、営業税や所得税を納めているような会社勤めの人や経営者のような金持ちに選挙権を与えることで、政権に引き込もうという選挙法改正が山県有朋内閣のときにおこなわれていた。

 これに関する加藤陽子さんの解説を読んでみよう。

山県内閣というのはあまり注目されないのですが、いろいろ意味のあることをやっていたんですね。一九〇〇年の選挙法改正は、納税資格は一五円から五円しか減らされないけれど、実は日清戦争後の産業の発達を担う、商工業者や実業家に頑張ってほしい、そのためにも彼らに議会での地位を与えなきゃと、いろいろ操作しました。選挙区の割り方を変えたり、大きな工場がある都市部に議席をたくさん分配したり。そうすることで、産業を担う層を議会に吸収しようとした。なぜなら、地主さん議員がいると地租増徴ができないわけです。まだこのときは日露戦争をやるとは決意していませんが、戦後の軍費拡張を支える予算は、地主議員がいると反対が多くてできない。商工業者を大切にすべきだということで、被選挙権も広げました。
[中略]
国税を納める人が一〇円以上になって、実業家が実際に選挙権を持った。じゃああの人を入れよう、この人を入れようというとき、山県内閣で被選挙権の制限をなくしたことが、日露戦後の一九〇八年の選挙で、実はじわーっと効いてくるわけです。
[中略]
日露戦後、増税がなされたことで、選挙資格を制限する直接国税一〇円を結果的に払う層が一・六倍になり、選挙権を持つ人が一五〇万を超えたこと、これが大切なポイントです。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年、第2章。


米騒動


シベリア出兵と米騒動

サブ・サブ・クエスチョン
米騒動を起こしたのは誰だったのか?

 1918年8月にシベリア出兵が始まる直前の7月22日、富山県などの日本海側の地方都市で、漁民の主婦がおこした直接行動にあった。
 勃発当時は米の端境期にあたり、さらにシベリア出兵を見越した米の買い占めや売り惜しみがあったため、米の価格が暴騰していた。日本海側の港では、米が大陸の戦地へと輸出されていたため、人々はその様子を直接うかがいい知ることができたのだ。


資料 当時の新聞記事(『高岡新報』1918(大正7)年8月7日)

Q. 米騒動は、当時どのような事件として報じられていたのだろうか?

 こうした報道をした新聞は政府によって発売禁止にされたが、米価の高騰に反対する直接行動は、全国的に広まっていった。検挙者25,000人のうち7,786人が起訴され、そのうち前述の都市雑業層が多くを占めていた。

 一般的に米騒動は、シベリア出兵に起因すると説明される。だがその形態や参加者も、ひとくくりにできない多様性を持っていた。
 
 たとえば、全国各地の造船所、工業都市、炭鉱などで、労働争議がおこなわれた。農村においても、小作人による地主への襲撃や小作争議がひきおこされた。

資料 労働争議・小作争議の推移

(出典:外園豊基編集代表『最新日本史図表 三訂版』第一学習社、2020(改訂24版、初版2004年)、285頁)。井本三夫氏は、米騒動を、「上からの近代化」を「下」から補完する動きとみなし、次のように述べている。「…農業では生産額の半ばにも達する小作料を、しかも現物で取り上げる前近代的な地主制が続いていたから、値上がり分は全部地主たちの手に落ちた上に、それを出来るだけ高く売れるように関税で米輸入を抑えていたのである。……このように農業など社会の下部に犠牲を強いる応急処置的な経過を辿らざるを得なかったのは、不平等条約体制期と言われる(帝国主義の時代直前の)欧米列強による外圧下で、対抗的に工業化を急いだからに他ならない。第一次大戦では欧州が主戦場になって欧州列強が世界市場から手を引かざるを得なかったため、19世紀後半以来の外圧が最大限後退したことが、合衆国・日本(とアジアの後発近代化国)に未曾有の貿易黒字をもたらした。しかしその拡大再生産への活用を「上からの近代化」ゆえの旧構造が前述のように阻んで、金余り現象・投機横行で米価・物価を奔騰させた。それで17年端境期から20年春まで一貫する労働者階級の生産点での賃上げ騒擾、居住地消費者運動を軸に、全勤労者が生活要求の広範な全国戦線を拡げたのが、「米騒動」なのである。」(出典:井本三夫編『米騒動・大戦後デモクラシー百周年論集Ⅰ』集広舎、2019年、18-19頁)


資料 実質米価上昇率の推移

(出典:井本三夫「「米騒動」叙述が無いと、何が見えなくなるか」現代思潮新社ウェブサイト、http://www.gendaishicho.co.jp/news/n32553.html

Q. 上記の労働争議・小作争議の推移と合わせると、どのようなことがわかるだろうか?



資料 選挙権の人口に占める比率の割合

米騒動の当時、選挙権を持っていたのは直接国税10円以上の男性に限られ、それは全国民の2.2%に過ぎなかった。

Q. なぜ人びとは、各地で暴力行使に発展するような運動に参加したのだろうか?

 

資料 産業構造の変化(1900年→1920年の変化に注目してみよう)

資料 物価指数・賃金指数

 なお、近年では、米騒動前の1917(大正6)年頃から、意図的な米価つりあげがあって、造船所や炭鉱、工場の労働者が生活に窮し、ストライキをおこしていたことから、米騒動の始期を早める説も出されている。




アジアの米騒動

サブ・サブ・クエスチョン
米騒動が起きたのは、日本国内(内地)だけだったのだろうか?

 米騒動がおこると、政府は朝鮮や東南アジアからの米移入・輸入を増やし、米価を下げようとした。

(出典:大豆生田稔「米騒動前後の外米輸入と産地」『東洋大学文学部紀要 史学科篇』43巻、2017年、123-193頁、https://core.ac.uk/download/pdf/291359134.pdf(クリエイティブ・コモンズ、http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja)) 
なお、朝鮮からは韓国併合(1910年)後からすでに朝鮮で生産されていた米は日本に移出していた。三・一運動が起きると、さらに朝鮮で米を増産し、米の不足する日本への移出を増加させていく。しかし、のちに昭和恐慌がおきて米価が暴落すると中止され、それにより朝鮮では農業恐慌がおき、農民は困窮した。社会主義運動が朝鮮で活発になることをおそれた日本は農村振興や北部の工業化を通して、社会の安定化に努めていくようになる。
(出典:大豆生田稔「米騒動前後の外米輸入と産地」『東洋大学文学部紀要 史学科篇』43巻、2017年、123-193頁、https://core.ac.uk/download/pdf/291359134.pdf(クリエイティブ・コモンズ、http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja))


 これがアジア各地の米価高騰を生み、「米騒動」を引き起こしたのだ。
 これを「アジアの米騒動」と呼ぶこともある。
 1919年の三・一独立運動や五・四運動も、こうしたアジア各地へのしわよせが背景にあるのだ。

史料 三・一独立宣言書
われらはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、これをもって子孫万代に告げ、民族自存の政党なる権利を永遠に有せしむるものである。

丙子修好条規以来、時々種々の極めてかたい盟約を破ったとして、日本の不誠実さ[不信]を責め罰しようとするものではない。日本の学者は講壇において、そして政治家は実際において、我が祖先からの遺産[祖宗世業]を植民地視し、我が文化民族を野蛮人なみに遇してもっぱら征服者の快を貪るだけで、我が永遠の社会基礎と卓越した民族心理を無視しているからといって、日本の不義[少義]を責めようとするのではない。自己を鞭打ち励ます[策励]ことに急な我らには、他を怨み咎める暇はないのだ。現在を最新の注意を払って落度なく準備[綢繆(チュウビュウ)]することに急な我らには、過去を批判している暇はない。今日のわれわれの任務は、ただ自己の建設にあるだけで、決して他の破壊にあるのではない。
…そもそも民族的要求から出たのでは全くない両国併合の結果が、結局姑息な威圧と差別的不平等、そして統計数字上の虚飾の下、利害が相反する両民族の間に永遠に和同できない怨恨の溝を、ますます深くしている今までの実績を見よ。
勇名果敢に過去の誤りを正し、真正な理解と同情を基本とした友好的な新局面を打開するのが、お互いの禍を遠ざけ福を招く近道であることをはっきりと知るべきではないか。また憤りを含み恨みが積もっている2000万の民を、威力でもって拘束するのは、ただ東洋の永久の平和を保障する方法でないばかりでなく、これによって、東洋が安全か危険かの主軸である四億の中国人の日本に対する危惧と猜疑をますます濃厚にさせ、その結果として東洋全体が共倒れとない共に亡びる悲運を招くのは明らかである。だから、今日われわれの朝鮮独立は、朝鮮人に正当な生の繁栄[生栄]を遂げさせると同時に、日本をして邪な道から出て東洋支持者としての重責を全うさせることであり、支那をして夢寐[眠って夢を見ている間]でも逃れられないふあにゃ恐怖から脱け出させることである。また[朝鮮独立は]東洋平和を重要な一部とみなす世界の平和と人類の幸福にとって、必要な階梯とならしめることである。これがどうして取るに足らない感情上の問題であろうか。」

宮嶋博史『植民地化と独立への希求: 保護国から三・一独立運動へ』(原典朝鮮近代思想史 4巻)岩波書店、2022年、352-353頁。





資料 香港米騒動
香港領事館の調査によれば、香港は域内の米生産量が少なく、当時ビルマ、仏印、タイからの輸入が減少したにもか ()
かわらず、再輸出量は「尠少ナラズ」あり、その結果としてストックが「次第ニ払底減少ヲ告ゲ」ていた。一九一九年 半ばから米価は高騰し(表7)、六月ころから「苦力」のストライキが発生するようになった。香港総領事の報告によ れば、七月下旬の米価は二ヵ月前の三倍に、前年七月の四倍に騰貴しており、香港政府は「調節方法」を「累次」講じたが「益騰貴スルバカリ」で、「細民ハ非常ノ窮状」に陥った。「飢饉ヲ甘ンズルカ、又ハ食料品ヲ奪取スルノ外途ナキ ノ窮境」に至ったと報告されている。こうして、七月二六~二七日に、市内数ヵ所で三〇〇~五〇〇名の「暴民」が「暴 動」を起こした。米小売商の襲撃、在米の掠奪、倉庫の破壊などが広がり、また港内に繋留中の船舶も襲撃されて米が掠奪された。警察隊が出動して「多数不良ノ徒」を逮捕し、各所に勃発した「米騒動」は「鎮静」に向かった。

(出典:大豆生田稔「米騒動前後の外米輸入と産地」『東洋大学文学部紀要 史学科篇』43巻、2017年、123-193頁、https://core.ac.uk/download/pdf/291359134.pdf(クリエイティブ・コモンズ、http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja))
(出典:大豆生田稔「米騒動前後の外米輸入と産地」『東洋大学文学部紀要 史学科篇』43巻、2017年、123-193頁、https://core.ac.uk/download/pdf/291359134.pdf(クリエイティブ・コモンズ、http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja))




日本におけるアジア人留学生の連帯


1919年には日本在住の朝鮮留学生によっても、日本政府への独立宣言書の送付や独立万歳をさけぶ集会が催されている。
当時の日本には、19世紀末以来中国、台湾、朝鮮、ベトナムからの留学生が多く受け入れられており、日本はそうした留学生の社会運動や独立運動の場ともなっていたのだ。
彼らアジアの留学生を、吉野作造大杉栄のような知識人や運動家も、経済的・思想的に支援した。異なるバックグラウンドを持つ留学生同士が、ときに連帯することもあった。
たとえば1922年には、東京在住の朝鮮留学生である柳泰慶(ユテギョン)によって、日本語・中国語・朝鮮語の3言語混在の月刊誌『亜細亜公論』が相関され、石橋湛山や尾崎行雄、堺利彦ら日本人のみならず、戴季陶(★1)やラース・ビハーリー・ボース(★2)、蔡培火(★3)、黄錫禹など、アジア各国の知識人も健筆をふるっている。

(★1)1891〜1949。中国の政治家、ジャーナリスト。国民党右派の論客。1905年(明治38)日本に留学し、日本大学法科に学ぶ。その後も孫文とともに革命運動で活躍。
(★2)1886〜1945。通称「中村屋のボース」。1915年、日本に亡命したインド独立の闘士。新宿・中村屋にその身を隠し、アジア主義のオピニオン・リーダーとして、極東の地からインドの独立を画策・指導する。
(★3)1889〜1983。東京に留学していた台湾人。蔡培火 (さいばいか) ら留学生は林らの援助で20年7月『台湾青年』を創刊、以後その後身の『台湾』『台湾民報』が20年代の抗日運動の機関誌・紙として成長していった。当時の台湾では、1921年(大正10)1月総督専制に反対し自治を求める運動として、帝国議会に対する台湾議会設置請願運動が始められていた。

「「アジア各国人の世論機関」の実現を目指すため、在京朝鮮人の柳泰慶(壽泉)は、「一機関誌中に三言語(筆者注:日本語・中国語・ハングル)が混在する」という画期的な発想をもって『亜細亜公論』を創刊し、より多くのアジア人留学生と各地の知識人が、自らの意見を述べることのできる場を創出しました。その意味で、「『亜細亜公論』には日本人のみならず、朝鮮人・台湾人・中国人そしてインド人と多様な出自と背景をもった書き手による言論空間が、短期間ではあったが形成されていた」(後藤乾一、2008年)というように、『亜細亜公論』はエスニシティを越えた「横のネットワーク」の一具現と位置付けることができます。また当時、「東アジア唯一の一等国」という日本人の優越意識が高まっていた日本国内の言論界に対し、『亜細亜公論』は、「人類主義をもって、アジア人を覚醒させる」ことを当面の目標として掲げ、域内に対する日本の指導体制を前提としたアジア主義的な考え方とは明確に一線を画していました。」「『亜細亜公論』の執筆陣には尾崎行雄、馬場恒吾、堺利彦、宮崎龍介、布施辰治など錚々たる日本人論者が揃ったのみならず、戴季陶やラース・ビハーリー・ボース、蔡培火、黄錫禹など、アジア各国の知識人も健筆をふるっています。加えて、創刊号から石橋湛山や安部磯雄、大山郁夫、杉森孝次郎、内ケ崎作三郎、坂本哲郎、高辻秀宣など、早稲田大学関係者(教員、卒業生、留学生)が原稿を数多く発表していることも大きな特徴です。」(紀旭峰「『亜細亜公論』──留学生による脱境界的言論空間の創出」、https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/international_161212.html)




関東大震災と流言蜚語 


 1923年に関東大震災が関東一円をおそった際、「朝鮮人の暴動」の流言蜚語(デマ)が飛び交い、実際に官憲や自警団によって朝鮮人が犠牲となった。

 「朝鮮人が暴動を起こす」という噂が一定の真実味を帯びるほど、朝鮮の人々が植民地支配に対する不満を持っていのたという実感が、当時の日本人のなかにあったということでもある。


史料 寺田寅彦『震災日記』より

9月2日 曇
[前略]
帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊はいかいするから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入いるであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。[後略]


 これについて歴史学者の加藤陽子が、1906年のサンフランシスコ大地震発生の翌年におきた中国人への襲撃を、関東大震災時の状況と比較し、興味深い指摘をしている。

アメリカでは日露戦争が終わった後、一九〇七年「ウォー・スケア」というものが起こりました。ウォー・スケアとは、日本人が海を越えて襲ってくるのではないか、戦争が始まるのではないか、との根拠のない怖れです。どうしてこのような怖れが広がったかといえば、その根には、前年の一九〇六年四月十八日、サンフランシスコで起こった大地震がありました。サンフランシスコにはチャイナタウン(中国人街)がたくさんあって、大勢の中国人がいました。そして中国からアメリカへ渡った移民たちはアメリカ人労働者より低賃金で喜んで働くという点でアメリカ社会から敵視されていて、差別的な状況下で暮らしていました。大地震が起こったとき、アメリカ人は大きな恐怖に襲われて、チャイナタウンの中国人が襲ってくるのではないかと考えるのです。このような雰囲気のなかで大地震が起こったために、くわしい数値は不明ですが、チャイナタウンの中国人に対する暴行と略奪が起こりました。そして同じ現象が日本でも生じる。一九二三(大正十二)年九月一日に起きた関東大震災の際、中国人や朝鮮人に対する虐殺事件が起きました。その背景には「ふだん虐げられている朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」との根拠のない流言がありました。数千人の朝鮮人と約二〇〇人の中国人が犠牲になったといいます。アメリカと日本はともに大地震によるウォー・スケアを体験した国だった

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年、第3章。




■大衆による社会運動の展開

サブ・クエスチョン
米騒動後、社会運動はどのように変化したのだろうか?

 では、米騒動後、日本社会はどのように変化したのだろうか?

 結果的に寺内正毅てらうちまさたけ内閣は9月21日に総辞職し、後継の内閣は立憲政友会総裁の原敬が同年9月29日に組織した。彼は岩手県盛岡市の出身で、藩閥出身でも爵位保持者でもなかったことから「平民宰相」と呼ばれた。これは初の本格的な政党内閣であった。

 「米騒動」を境に、人々の政治的な要求は、暴力的な方法ではなく、政治的な結社を組織して展開されるようになった。 

 しかし原内閣は普通選挙には消極的であり、都市暴動に参加した都市雑業層よりも、彼らを雇用する旦那衆を体制内にとりこもうと、選挙法改正により納税資格を三円以上に引き下げるにとどまった(参考:成田龍一『大正デモクラシー』岩波新書、2007年、92-93頁)。

資料 原敬首相の普選拒否
漸次に選挙権を拡張することは何等なんら異議なき処にして、又他年国情こゝに至れば、所謂普通選挙もまで憂ふべきに非ざれども、階級制度打破と云ふが如き、現在の社会組織に向けて打撃を試んとする主旨より、納税資格を撤廃すと云ふが如きは、実に危険きわまる次第にて、此の民衆の強要にり現代組織を破壊する様の勢を作らば、実に国家の基礎を危ふくするものなれば、寧ろ此際このさい、議会を解散して政界の一新を計るの外なきかと思ふと閣僚に相談せしに、皆同感の意を表し、……

(出典:『原敬日記』)。野党の憲政会・立憲国民党が出した普選案にたいし、原敬内閣は1919年5月に選挙法を改正して、選挙権の納税資格制限を3円に引き下げるかわりに、与党に有利な小選挙区制をしいた。1920年に議会を解散し、総選挙で政友会は議会の6割を占めるにいたった。こうしたことが世論の不評を買い、原敬は1921年11月に暗殺されている。




 なお、コミンテルンによる世界革命路線を受け、1922年に堺利彦、山川均やまかわひとしによって日本共産党も非合法のうちに結党されている。

 民主政治を求める考えや運動が広まる中で、知識人も国家の「改造」を求める言説を活発化させた。
 たとえば、吉野作造は民本主義を唱え、政治の役割が国民の幸せや利益にあることを説いた。
 また、憲法学者の美濃部達吉は、国家を法律上の権利・義務を持つ法人と考え、天皇も国家の一つの機関であり、内閣などの機関の輔弼ほひつを得ながら統治圏を行使する主体であると論じた。これを天皇機関説という。

 こうした思想に裏打ちされ、憲政擁護運動がおき、政治が一部の有力者によって動かされている現状への批判が強まった。
 1924年には憲政会を中心とした政党内閣が成立し、1932年まで政党内閣の慣行が続いた。これは憲政の常道と呼ばれた。1925年には男性普通選挙制が導入された。

資料 「デモクラシー節」(1919年)

 しかし共産党が合法化されれば、革命がひきおこされるかもしれないと遅れた与党と政府官僚は、治安維持法を制定した。この法律に記された「国体を変革し、または私有財産制度を否認すること」を目的とする団体は、のちに社会主義者や、政府に批判的な自由主義者にも拡大され、これらを広くえ弾圧するために利用されることとなった。

 大正デモクラシー期前後には、女性による運動も活発化する。1911年に平塚らいてうが機関紙『青鞜せいとう』を発刊。当初は月間の文芸誌であったが、1915年に伊藤野枝いとうのえが編集担当になると、女性問題全般を取り上げるようになった。良妻賢母こそが女性の理想像とする言説を批判し、女性解放運動の火付け役となった。

資料 「原始女性は太陽であった」(1911年)
元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人にような蒼白い顏の月である。……現代の日本の女性の頭脳と手によつて初めて出来た「青鞜」は初声うぶごえを上げた。……私共は隠されて仕舞つたわが太陽を今や取戻さねばならぬ。……最早女性は月ではない。其日、女性は矢張り元始の太陽である。真正の人である。

『青鞜』創刊号


 1920年に平塚らいてうたちは新婦人協会を組織し、治安警察法の改正を要求する運動をおこしている。運動自体は短命に終わったが、日本における女性運動に大きな影響を与えた。
 
 また、部落解放運動(水平運動)では全国水平社が結成されている。「水平」というのは、イギリス革命期に社会的な平等を掲げて登場した水平派レベラーズに由来する。「特殊部落民」とは差別用語であったが、彼らはそれを逆用し、解放運動を展開していくこととなった。

資料 水平社宣言(1922年3月3日)
全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかつた事実は、夫等のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの世の悪夢のうちにも、なほ誇りうる人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦はる事が何んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。

 このように社会運動が活性化する一方、政府は社会運動の温床となる問題を解決する、社会政策・社会事業を推進していった。
 

 そのような中、1923年9月1日に関東大震災が関東を直撃することとなる。


■アイヌ、植民地と大正デモクラシー

サブ・サブ・クエスチョン
アイヌや植民地にとって、大正デモクラシーはどのような意味をもったのだろうか?

 1871年に四民平等が図られた後も、日本国内には部落民やアイヌに対する差別は残されていた。
 1910年に韓国併合が行われると、拡大する工業部門におけるで労働者不足と、朝鮮半島農村部における土地からの追い出しを背景として、移民労働者としての朝鮮人男性が日本に移動するようになり、日本国内の朝鮮人コミュニティも増加したことで、朝鮮人による鉱山などでの労働運動も活発化していった(参考:リチャード・シドル2021:162頁)。

 大正デモクラシー期には、そうした国民国家統合の「周縁」に位置づけられた人々による抵抗運動もみられるようになった。

 すでに社会主義者の堺利彦は、1900年代初頭に、和人のアイヌに対する扱いを、部落民に対する軽蔑と結びつけ、西洋における「人種的反感」になぞらえる論説を発表していた(参考:リチャード・シドル2021:161頁。堺利彦(堺枯川「人種的反感」部落問題研究所編『部落問題セミナーIV—部落問題の歴史』汐文社、1965、54-56頁))。部落民とアイヌに対する差別の根底には、ともに「人種的に劣っている」という言説がまとわりついていたのである。


 部落民は1922年に「水平社」を結成し、組織的な差別反対運動が展開された(→参照1-3-4. 明治維新と国民国家の形成https://note.com/sekaishi/n/nbabfccb5407b )。しかしアイヌの中からは、組織的な運動は発展しなかった。その一方で、日本の支配に対抗するのではなく、1920〜30年代にかけて日本に同化することで法的平等や地位向上を目指す運動が起きるようになった。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊