■国民国家・資本主義の進展と「大衆」の出現
歴史総合における「国際秩序の変化や大衆化」の章は、おおむね1910年代〜1950年代を扱う。
ここでちょっとおさらいをし、その上で改めてこの時代を見る視点を、大づかみで見通していきたい。
18世紀末〜19世紀にかけて、欧米諸国や日本では、旧来の身分制度が解体され、国民国家づくりが始動していったことはすでにみてきた通りである。
国民国家づくりの始期は、国によっても差があるし、それ以前の歴史的な過程を踏まえたものでもあった。
しかし、程度の差こそあれ、どの国においても、封建的な身分制度を解体し、「国民」というまとまりをつくろうとする方向性(ベクトル)は共通しているといえよう。
新科目「歴史総合」では、日本がヨーロッパにならった国民国家形成を始動するようになった直接的なきっかけを、18世紀後半以降盛んになった欧米諸国のアジア・太平洋進出であるととらえている。
これを《近代化のベクトル①》と呼ぶことにしたい。
一方、国民国家の形成と並行して、産業革命によって駆動された工業化が、資本主義経済を成長させていった。
すこしむずかしくいえば、それまで存在した共同体や職能的・地縁的特権組織を解体し、バラバラな存在である個人を析出する過程であり、機械を用いた商品生産が、賃金を受け取る非熟練労働者によって大量に生産されるようになっていくことである。
こちらを《近代化のベクトル②》と呼ぶことにしよう。
19世紀に出現した国民国家群は、相互に対等な権限を持つ主権国家と認め合うことで発展した。ヨーロッパに起源をもつ主権国家体制は、日本では「万国公法」と訳された。しかし、対等とはいっても、経済力には大きな差があるし、その差は軍事力の差に直結した。当時の主権国家体制には軍事力を抑制する装置がなく、「武装による平和」が基本だった。
そこで、いかに多くの武器や艦船、食料を供給しうるかが、各国民国家にとっての課題となっていった。国民国家を存続させ、繁栄させるには、大量生産を促進する資本主義経済の発展が欠かせなかったのである。
しかし一方で、資本主義経済の発展は、国内に「階級対立」という新たな分断をもたらすことにもなる。
国民国家形成のためには、すべての国民に政治的発言権を与えるわけにはいかない。農村や都市の多少の歪みには目をつむり、資本主義経済を発展させ、国力を高めることが最優先であったからだ。
しかし、「国民」としての意識を持つにいたった人々は、次第に、みずからの置かれた境遇の改善を、政府に申し立てる手立てのないことに、苛立ちを隠せなくなっていく。
たとえば、旧来の共同体が解体されたことにより、バラバラな個人として都市に投げ込まれた人々、さらには農村でも土地所有権を持たず、小作人となった人々のことである。
「国民」としてのまとまりをつくりだしていきたい政府にとって、これは憂慮すべき事態である。
そこで政府は、当初は農村や都市の人々による政治集会や騒擾を、徹底的に弾圧する方針をとった。
しかし、そんなこといつまでもやっていようものなら、「国民」づくりは一向に進まないし、コストもかかってしまう。
そこで政府は、次第に彼らを、あの手この手を使い、政治の「主体」としてたくみに取り込む動きをみせるようになっていく。暴力的な手段を用いた抵抗運動ではなく、政治的な発言のできる正規のルートを用意していった。
すなわち、選挙権の拡大である。
日本においてこのような転換点を生んだ事件として重要なのが、「米騒動」にはじまる一連の騒擾や社会運動だった。
政府には、たとえ物言う人々に政治的な権利を付与していったとしても、そのうち経済がますます発展し、生活水準が改善されていけば、しだいに不満も減るだろうという観測もあった。
事実、20世紀初めにかけて、多くの国では生活水準が向上し、都市で消費を楽しみ、週末は余暇を楽しむことのできる新中間層が形成されていくようになっていくのだ。
また、選挙権を獲得した人々は、後で見ていくように政党や労働組合など様々な社会運動の組織をつくるようになった。その背景には、政府が進めた国民づくりの結果、文字が読める人が増えたおかげで、マス・メディアが発達したこととも関わっている。大量に刊行される新聞や雑誌は、似たような趣味や習慣、意見、行動様式を持つバラバラな人々を結びつけ、まとまりのある「大衆」を生み出していったのだ。商業的な成功をおさめた新聞・雑誌の中には、数十万〜数百万部もの売り上げを上げるものも現れた。
大衆の登場は、国内政治にも大きな影響を与えていく。
たとえば、これまで一部の利益集団の声のみを聞き、明治維新で活躍した一部の藩出身者が要職を占めていた政府もいよいよ、大衆の動向を、無視できなくなり、政党政治が始まったのだ。新聞や雑誌といったマス・メディアが政治家のスキャンダルを煽情的にとりあげるようにもなった。つまり、この点において《近代化のベクトル②》(資本主義)によって生み出されたマス・メディアは、《近代化のベクトル①》(国民国家)と対立する。
そこで「米騒動」(1918年)以降の1920年代を通して日本政府がとっていったのは、国民国家の統合にとって問題であると見なした思想・言説や集団を、選択的に弾圧していく対応策だ。特にソ連のコミンテルンとの関わりのある共産党は、徹底的な弾圧の対象となった。
しかし、《近代化のベクトル①》(国民国家)と《近代化のベクトル②》(資本主義)は、つねに逆向きの方向を向き、対立していたわけはない。
すでに「近代化」の章で見てきた通り、《近代化のベクトル②》(資本主義)は、その規模が拡大すればするほど、国外に資源の供給地や市場として植民地を求め、対外的な膨張を志向する(それは、イギリスの非公式帝国のように常に直接的な領土支配をともなうとは限らないが、植民地の拡大として最も典型的に現れる)。
こうして《近代化のベクトル①》(国民国家)を推進していった欧米諸国・日本は、1870年代頃から帝国主義的な政策をとることになる。
この方向性を《近代化のベクトル③》(帝国主義)としてとらえてみよう。
国民国家を中核にして、外部の植民地を拡大していく動きは、1880年代のアフリカ分割、1890年代末の中国分割などを生み出し、帝国主義諸国間の緊張関係を生み出した。
それと同時に、国民国家の中核に住む人々(国民)の間には、自分たちの暮らしが、植民地支配によって支えられているという意識が育っていった。それは人種的な優越意識と結びついたもので、帝国の中心たる国民を自認する当時の大多数の人々にとってみれば、至極当たり前の考え方だった。
さまざまな集団を形成し、みずからの主張を展開する大衆をコントロールするために、政府が利用していくことになるのは、そのような帝国意識だ。
要するに《近代化のベクトル②》(資本主義)に起因するゴタゴタを、《近代化のベクトル③》(帝国主義)によって《近代化のベクトル①》(国民国家)へと反らすわけである(なお、帝国主義的な政策は、しばしば社会保障・社会福祉といった事業とセットで推進される)。
ヨーロッパにおいては1920年代、日本においては1930年代に入ると、むしろ大衆の側から帝国主義を強力に推進し、そのために政府による強いコントロール(社会政策・社会事業から戦争にいたる国民生活全般にわたる統制)を望む動向も生まれるようにもなっていく(このことについては2-2. 経済危機と第二次世界大戦以降で見ていくことになる)。
■日本における「大衆」の出現
まずは、大づかみに流れを紹介した。
では次に、日本で「大衆」が存在感を持つようにいたる経緯を具体的にみていくことにしよう。
日比谷焼打事件
日本において、人々による政治的な要求が暴力をともなって現れるようになるのは、1905(明治38)年日露戦争の条約調印の日の東京でおきた日比谷焼打事件が最初期のものといえる。戒厳令が敷かれ軍隊が出動したが、講和反対運動は各地にひろがり、藩閥政府への批判に発展。1906(明治39)年1月に、第一次桂太郎内閣は退陣を迫られた。
資料 日露戦争にともなう増税
日露戦争の戦費や諸税の内訳については、以下の表も参照のこと。非戦論を展開した『平民新聞』(1904年2月14日号。当時、社会主義者の拠点となったメディア)が「嗚呼満洲も取る可し、朝鮮も取る可し、西伯利も取る可し、然れども吾人平民は是等の地より何物をも得可らざるを如何せんや…」と述べたところとあわせて考えたい。
資料 非常特別税収入確定案
資料 『東京パック』(1910年)の風刺画
第一次世界大戦中から戦争終結までの間、世界各地では労働者や民族などにより、さまざまな形で「下からの運動」が活発化しており、そうした同時代の世界の情報も、人々の意識に少なからぬ影響を及ぼした(→2-2-4.ソヴィエト連邦の成立と社会主義を参照)。
政府の対応
では、政府はどのように増税路線を進めようとしていったのだろうか?
まず、選挙で選ばれて政治家になる人たちの顔ぶれを変えようとしたことが重要だ。
これまで選挙権の担い手だった地主は、政府の増税に対して反発しがちだ。
そこで、すでに日露戦争以前に、営業税や所得税を納めているような会社勤めの人や経営者のような金持ちに選挙権を与えることで、政権に引き込もうという選挙法改正が山県有朋内閣のときにおこなわれていた。
これに関する加藤陽子さんの解説を読んでみよう。
米騒動
シベリア出兵と米騒動
1918年8月にシベリア出兵が始まる直前の7月22日、富山県などの日本海側の地方都市で、漁民の主婦がおこした直接行動にあった。
勃発当時は米の端境期にあたり、さらにシベリア出兵を見越した米の買い占めや売り惜しみがあったため、米の価格が暴騰していた。日本海側の港では、米が大陸の戦地へと輸出されていたため、人々はその様子を直接うかがいい知ることができたのだ。
資料 当時の新聞記事(『高岡新報』1918(大正7)年8月7日)
Q. 米騒動は、当時どのような事件として報じられていたのだろうか?
こうした報道をした新聞は政府によって発売禁止にされたが、米価の高騰に反対する直接行動は、全国的に広まっていった。検挙者25,000人のうち7,786人が起訴され、そのうち前述の都市雑業層が多くを占めていた。
一般的に米騒動は、シベリア出兵に起因すると説明される。だがその形態や参加者も、ひとくくりにできない多様性を持っていた。
たとえば、全国各地の造船所、工業都市、炭鉱などで、労働争議がおこなわれた。農村においても、小作人による地主への襲撃や小作争議がひきおこされた。
資料 労働争議・小作争議の推移
資料 実質米価上昇率の推移
資料 選挙権の人口に占める比率の割合
資料 産業構造の変化(1900年→1920年の変化に注目してみよう)
資料 物価指数・賃金指数
なお、近年では、米騒動前の1917(大正6)年頃から、意図的な米価つりあげがあって、造船所や炭鉱、工場の労働者が生活に窮し、ストライキをおこしていたことから、米騒動の始期を早める説も出されている。
アジアの米騒動
米騒動がおこると、政府は朝鮮や東南アジアからの米移入・輸入を増やし、米価を下げようとした。
これがアジア各地の米価高騰を生み、「米騒動」を引き起こしたのだ。
これを「アジアの米騒動」と呼ぶこともある。
1919年の三・一独立運動や五・四運動も、こうしたアジア各地へのしわよせが背景にあるのだ。
日本におけるアジア人留学生の連帯
1919年には日本在住の朝鮮留学生によっても、日本政府への独立宣言書の送付や独立万歳をさけぶ集会が催されている。
当時の日本には、19世紀末以来中国、台湾、朝鮮、ベトナムからの留学生が多く受け入れられており、日本はそうした留学生の社会運動や独立運動の場ともなっていたのだ。
彼らアジアの留学生を、吉野作造や大杉栄のような知識人や運動家も、経済的・思想的に支援した。異なるバックグラウンドを持つ留学生同士が、ときに連帯することもあった。
たとえば1922年には、東京在住の朝鮮留学生である柳泰慶(ユテギョン)によって、日本語・中国語・朝鮮語の3言語混在の月刊誌『亜細亜公論』が相関され、石橋湛山や尾崎行雄、堺利彦ら日本人のみならず、戴季陶(★1)やラース・ビハーリー・ボース(★2)、蔡培火(★3)、黄錫禹など、アジア各国の知識人も健筆をふるっている。
(★1)1891〜1949。中国の政治家、ジャーナリスト。国民党右派の論客。1905年(明治38)日本に留学し、日本大学法科に学ぶ。その後も孫文とともに革命運動で活躍。
(★2)1886〜1945。通称「中村屋のボース」。1915年、日本に亡命したインド独立の闘士。新宿・中村屋にその身を隠し、アジア主義のオピニオン・リーダーとして、極東の地からインドの独立を画策・指導する。
(★3)1889〜1983。東京に留学していた台湾人。蔡培火 (さいばいか) ら留学生は林らの援助で20年7月『台湾青年』を創刊、以後その後身の『台湾』『台湾民報』が20年代の抗日運動の機関誌・紙として成長していった。当時の台湾では、1921年(大正10)1月総督専制に反対し自治を求める運動として、帝国議会に対する台湾議会設置請願運動が始められていた。
関東大震災と流言蜚語
1923年に関東大震災が関東一円をおそった際、「朝鮮人の暴動」の流言蜚語(デマ)が飛び交い、実際に官憲や自警団によって朝鮮人が犠牲となった。
「朝鮮人が暴動を起こす」という噂が一定の真実味を帯びるほど、朝鮮の人々が植民地支配に対する不満を持っていのたという実感が、当時の日本人のなかにあったということでもある。
史料 寺田寅彦『震災日記』より
これについて歴史学者の加藤陽子が、1906年のサンフランシスコ大地震発生の翌年におきた中国人への襲撃を、関東大震災時の状況と比較し、興味深い指摘をしている。
■大衆による社会運動の展開
では、米騒動後、日本社会はどのように変化したのだろうか?
結果的に寺内正毅内閣は9月21日に総辞職し、後継の内閣は立憲政友会総裁の原敬が同年9月29日に組織した。彼は岩手県盛岡市の出身で、藩閥出身でも爵位保持者でもなかったことから「平民宰相」と呼ばれた。これは初の本格的な政党内閣であった。
「米騒動」を境に、人々の政治的な要求は、暴力的な方法ではなく、政治的な結社を組織して展開されるようになった。
しかし原内閣は普通選挙には消極的であり、都市暴動に参加した都市雑業層よりも、彼らを雇用する旦那衆を体制内にとりこもうと、選挙法改正により納税資格を三円以上に引き下げるにとどまった(参考:成田龍一『大正デモクラシー』岩波新書、2007年、92-93頁)。
なお、コミンテルンによる世界革命路線を受け、1922年に堺利彦、山川均によって日本共産党も非合法のうちに結党されている。
民主政治を求める考えや運動が広まる中で、知識人も国家の「改造」を求める言説を活発化させた。
たとえば、吉野作造は民本主義を唱え、政治の役割が国民の幸せや利益にあることを説いた。
また、憲法学者の美濃部達吉は、国家を法律上の権利・義務を持つ法人と考え、天皇も国家の一つの機関であり、内閣などの機関の輔弼を得ながら統治圏を行使する主体であると論じた。これを天皇機関説という。
こうした思想に裏打ちされ、憲政擁護運動がおき、政治が一部の有力者によって動かされている現状への批判が強まった。
1924年には憲政会を中心とした政党内閣が成立し、1932年まで政党内閣の慣行が続いた。これは憲政の常道と呼ばれた。1925年には男性普通選挙制が導入された。
資料 「デモクラシー節」(1919年)
しかし共産党が合法化されれば、革命がひきおこされるかもしれないと遅れた与党と政府官僚は、治安維持法を制定した。この法律に記された「国体を変革し、または私有財産制度を否認すること」を目的とする団体は、のちに社会主義者や、政府に批判的な自由主義者にも拡大され、これらを広くえ弾圧するために利用されることとなった。
大正デモクラシー期前後には、女性による運動も活発化する。1911年に平塚らいてうが機関紙『青鞜』を発刊。当初は月間の文芸誌であったが、1915年に伊藤野枝が編集担当になると、女性問題全般を取り上げるようになった。良妻賢母こそが女性の理想像とする言説を批判し、女性解放運動の火付け役となった。
1920年に平塚らいてうたちは新婦人協会を組織し、治安警察法の改正を要求する運動をおこしている。運動自体は短命に終わったが、日本における女性運動に大きな影響を与えた。
また、部落解放運動(水平運動)では全国水平社が結成されている。「水平」というのは、イギリス革命期に社会的な平等を掲げて登場した水平派に由来する。「特殊部落民」とは差別用語であったが、彼らはそれを逆用し、解放運動を展開していくこととなった。
このように社会運動が活性化する一方、政府は社会運動の温床となる問題を解決する、社会政策・社会事業を推進していった。
そのような中、1923年9月1日に関東大震災が関東を直撃することとなる。
■アイヌ、植民地と大正デモクラシー
1871年に四民平等が図られた後も、日本国内には部落民やアイヌに対する差別は残されていた。
1910年に韓国併合が行われると、拡大する工業部門におけるで労働者不足と、朝鮮半島農村部における土地からの追い出しを背景として、移民労働者としての朝鮮人男性が日本に移動するようになり、日本国内の朝鮮人コミュニティも増加したことで、朝鮮人による鉱山などでの労働運動も活発化していった(参考:リチャード・シドル2021:162頁)。
大正デモクラシー期には、そうした国民国家統合の「周縁」に位置づけられた人々による抵抗運動もみられるようになった。
すでに社会主義者の堺利彦は、1900年代初頭に、和人のアイヌに対する扱いを、部落民に対する軽蔑と結びつけ、西洋における「人種的反感」になぞらえる論説を発表していた(参考:リチャード・シドル2021:161頁。堺利彦(堺枯川「人種的反感」部落問題研究所編『部落問題セミナーIV—部落問題の歴史』汐文社、1965、54-56頁))。部落民とアイヌに対する差別の根底には、ともに「人種的に劣っている」という言説がまとわりついていたのである。
部落民は1922年に「水平社」を結成し、組織的な差別反対運動が展開された(→参照1-3-4. 明治維新と国民国家の形成https://note.com/sekaishi/n/nbabfccb5407b )。しかしアイヌの中からは、組織的な運動は発展しなかった。その一方で、日本の支配に対抗するのではなく、1920〜30年代にかけて日本に同化することで法的平等や地位向上を目指す運動が起きるようになった。