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共通テスト世界史B 「国のルーツさがし」問題 その①

「過去問」のない大学入試共通テストまで、あと76日となりました。「心配だなあ」という人も少なくないと思います。心配することないよといっても、わたしも心配です。心配じゃない人なんているんでしょうか? みんな心配だと思います。
ベースとなる個々の知識の重要性は変わりませんが、出題者がどの国や地方に注目して作問をしていくのか、ある程度 “逆算” することはできると思います。
少しでも不安を軽減できればと思っています。

では、今回は「平成30年度 試行調査」の第1問 - C の対策をしていきましょう。

モデル問題 平成30年度 試行調査 第1問 C

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ある国について、現在の民族・言語・宗教の構成をグラフで示し、その歴史的ルーツを探る問題です。
そこで、特徴的な民族・言語構成を持つ国々の「プロフィール」()をあらかじめ見ていき、その歴史的ルーツをチェックしていこうと思います。
民族構成のグラフを見たら、「あ、これはインドかな?」と類推できるようにしておけるといいですね。

)「民族」の国勢調査をどのようにおこなうかは、国によってもさまざまです。主観的な民族意識を問うものもあれば、使用する言語などで客観的に区分する場合もあります。


対策をするにあたって役に立つのが、「地理B」科目の地誌分野に関する問題です。

センター試験 地理B(本試験・2009年)

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途中に「センター試験 地理Bの過去問」を紹介していますから、それらをダシにしつつ、ポイントを整理していきましょう。
個々の情報をバラバラに丸暗記するとなると、とっても大変です。世界史の大きな流れやポイントに位置付けながらおさえていくのがコツだと思います。そうなると、読み解いていくためにはだいたい同じようなポイントが重要だということもわかってくるはずです。

なお統計の出典は主にCIA, WORLD FACTBOOKです。


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1. イギリスと関係がある / あった国々

1-1. オーストラリア

オーストラリアに中国系住民がいるのはなぜ?

イギリス系:25.9% ← 18世紀後半にイギリスの流刑植民地となりました。1901年に自治領に昇格し「オーストラリア連邦」になりました。1901年には移民制限法が制定され、20世紀の後半まで白人以外の住民への差別がもうけられました。これを「白豪主義」政策といいます(下記リンクの「ウェストミンスター憲章」を参照)。


オーストラリア系:25.4% ←「オーストラリア人意識」を持つ人の割合
アイルランド系:7.5%
スコットランド系:6.4%
イタリア系:3.3%
ドイツ系:3.2%
中国系:3.1%   ← 19世紀後半にゴールド・ラッシュが起こると、商業を営む華僑(かきょう)や、契約労働者である苦力(クーリー)の比率が増加しました。

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オーストラリアで金を掘る中国人移住者

1901年以降は移民の流入が制限されましたが、1970年代に「白豪主義」政策が撤回されると、それ以降はアジア系の移民が増加しています。
インド系:1.4% ← 同じくイギリス帝国であったインドから労働者などとして流入した。
ギリシア系:1.4%
オランダ系:1.2%
その他(アボリジニーの5%を含む):15.8% ← アボリジニーはイギリス人の持ち込んだ疫病や迫害によって19世紀にかけて人口が激減しました。
不明:5.4%   (2011年)


例題1-1. センター試験 地理B(2020年) 選択肢②を説いてみましょう。

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解答1-1. ② 正解です。

オーストラリアのポイント
・先住民アボリジニーの人口は、18世紀後半以降のイギリスの植民によって激減した
・オーストラリアに中国系住民が増えたのは、19世紀後半のゴールド=ラッシュ以降のこと


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1-2. 南アフリカ

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問い:南アフリカの「カラード」とは誰のことだろう?
問い:なぜ南アフリカにインド系・アジア系の人々がいるのだろう?

南アフリカにはもともとコイサン系と呼ばれる狩猟採集民が暮らしていましたが、のちにバントゥー人(いわゆる黒人)の人々が移住していきました。

そして1652年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が「ケープ植民地」を建設すると、バントゥー人の国々との対立が生まれます。入植したオランダ人は次第に “南アフリカのオランダ人”としての意識を強め、話し言葉もオランダ語から「アフリカーンス語」に変わっていきました。
さらにナポレオン戦争中の19世紀前半にイギリスが「ケープ植民地」を占領し、ウィーン議定書によってイギリス領になりました。


イギリスはもともといたオランダ系の人々(ボーア人と呼ばれました)の建国していた南アフリカ戦争ボーア戦争)で滅ぼすと、彼らを支配者の側に組み込み、多数派の黒人を支配する体制をつくっていきました。


1901年には南アフリカ連邦としてイギリス帝国の「自治領」にランクアップ。独立後も英語は公用語の一つとなっています。

南アフリカにはおなじくイギリス帝国の植民地だったインドや、現在のマレーシアなどから働き手として多くの人々が移住しました。これが南アフリカにいる「カラード」(黒人と白人のいずれにも属さないという意味)という人々のルーツです。
彼らに対する南アフリカ戦争後に激しくなり、住む地域が特定の場所に限定されるなど、のちのアパルトヘイト体制の原型がつくられていきました。

南アフリカは国家的制度として、アパルトヘイトという人種差別体制を20世紀末までとり続けた。人種ごとに政治的権利、市民的自由、土地所有、居住空間、就労、教育といった面で差別化され、大きく[白人]、[黒人]そしていずれにも属さない「カラード」の三つに分けられた。人口の十数パーセントの[白人]のみが、完全な市民としてこれら社会的恩恵を享受した。しかし国家は人種を定義する「科学的・客観的」指標を持たず、カラードと登録されたものが白人への登録変更を求めて裁判をおこす例もあった。人種の分類においては身体的指標に加え、生活様式や教育などによる「社会的認知」という指標も重要であった。〔...〕
南アフリカ戦争中、ペスト発生を機に先住民の居住区が制限され、都市化の進行にともない、衛生面の悪化や犯罪の原因を先住民やカラードに求める風潮がうまれた。終戦後は本格的な人種隔離政策がとられ、白人を核に人種が固定化され、後のアパルトヘイト体制下における人種分類とほぼ同じ形ができあがった。
(大阪大学西洋史学研究室  藤川隆男編著『白人とは何か?』(刀水書房、2005年)の紹介より)


なおカラードの権利を守るためにがんばったのが、のちにインド独立運動のリーダーとなるガンディーでした。

このあたりの事情を、あらかじめおさえておくとよいでしょう。

南アフリカのまとめ
・南アフリカにインド人がいるのは、イギリスの植民地・自治領だったから。
・インド人たちの権利を守る活動をおこなったのは、インドで非暴力・不服従運動をはじめる前のガンディーだった。




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1-3. ニュージーランド

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ニュージーランドの先住民は誰?

ニュージーランドには12世紀以降、ポリネシア人がアウトリガーカヌーに乗って移住しました。彼らが現在の「マオリ」のルーツです(円グラフ中の「X」にはマオリが入ります)。

しかし19世紀にイギリス人が植民地化。マオリの人口は激減。

20世紀後半にはオーストラリアとおなじく多文化主義政策がとられ、マオリの先住民文化が再評価されるようになっています。

なお、ニュージーランドの国旗にはイギリスの「ユニオンジャック」が含まれていますが、近年は「ニュージーランド人」(ニュージーランダー)意識も高まり、国旗を変えようという動きも一部にありました。

世界の国旗研究会の吹浦忠正さんの解説を引用しておきます(太字は筆者)。


「オーストラリアの国旗と間違えられることが多い」からと、国旗の変更を公約として掲げたキーNZ首相の思いは、「準決勝」の投票率が半分に満たないこともあり、国民の関心や支持を十分獲得することはできなかったというべきでしょう。

特に、ニュージーランドでは日本の郷友連盟のような在郷軍人会の反対が強かったようです。NZは1907年9月26日、イギリス連邦内の自治領となり、事実上独立しました。第一次世界大戦では志願兵によるオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC)を結成しました。特にしられるようになったのは、ガリポリでの敵前上陸作戦。オスマン・トルコ軍を中心とする枢軸国軍と激戦を展開、敗退したのです。これが、NZの国旗を掲げての最初の本格的な戦いで、世界がNZ軍の勇気と活躍を評価したのでした。それ以来、「わがNZ軍は一度も敗れたことがない」と、国際会議などで胸を張るのです。


こうした経過を経て、31年、英国議会は「ウェストミンスター憲章」でカナダやオーストラリアなどの自治領の独立を正式に認めるに至りました。しかし、むしろ自治領側がロンドンとの関係をどう位置付けるかで微妙な判断に時間がかかり、第二次世界大戦になってしまいました。この時もNZは連合国側に立って対日宣戦もし、参戦したのです。最終的にNZ議会が独立を決断したのは戦後の47年11月でした。在郷軍人たちは、「ガリポリの戦い以来、われわれはこの国旗の下、命を懸けてNZに尽くしてきたのだ」という強い思いがあったと報じられています。


ニュージーランドのまとめ
・ニュージーランドの先住民は「マオリ」です
・19世紀にイギリスの植民地となり、1907年に自治領に昇格しました。




例題 1-3-1. センター試験 地理B(本試験・2013年)

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解答1-3-1


例題1-3-2. センター試験 地理B(本試験・2007年)

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1-4. フィジー


どうしてフィジーにはインド系住民がたくさんいるんだろう?
どうしてフィジーでヒンドゥー教のお祭りが祝われているのだろう?

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結論から言うと、フィジーにインド系住民がいることは、黒人奴隷貿易の廃止と関係があります。

19世紀前半にイギリスは奴隷制を廃止
それをおぎなう形でアジアの移民が世界各地で「契約労働者」(苦力クーリー))として働かされるようになったのです。
「契約労働者」というのは名ばかりのケースも少なくなく、奴隷同然の取扱いをうけた人もすくなくありませんでした。


このように、インドから遠く離れているのに「インド系」の人々がたくさん暮らしている場合、そのルーツの多くは19世紀の労働力移動にさかのぼることができるわけです

たとえば、南アメリカにガイアナという国があります。

イギリスの植民地となり、1966年に独立した国です。ガイアナの民族構成は以下の通りです。

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最後に、フィジーの宗教の構成もみておきましょう。

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このうちヒンドゥー教、イスラム教、シク教はインドと強い結びつきのある宗教ですね。

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フィジー西部のヒンドゥー教の寺院。Marked as CC BY-SA 3.0 by Kanags, Sri Sivasubramaniya Swami Temple, Nadi, Fiji., details on wikimedia commons


太平洋地域はフィジーに限らず、19世紀以降にさかんにキリスト教の布教がこころみられた歴史がありますので、先住民の方々はキリスト教を信仰していることが多いです。


フィジーのまとめ
フィジーにインド系住民がいるのは、かつてイギリス帝国の植民地時代にサトウキビのプランテーションの労働力として、インド人の契約労働者(苦力)が送られてきたから。


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1-5. インド

北インドに多く分布するのがアーリヤ系、南インドに分布するのがドラヴィダ系です。

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宗教構成はヒンドゥー教 79.8%、ムスリム 14.2%、キリスト教 2.3%、 シク教 1.7%、その他 2%(2011年)です。
発祥の地である仏教がインドにおいて「その他」になっている点もポイントですね。


インド周辺の国々については、以下の問題を通して確認していきましょう。


センター試験 地理B (本試験 2016年)

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問6 スリランカは仏教徒が多数ですから③です。

バングラデシュは1971年に、イスラム教国であるパキスタンから独立することで建国されました。ですから①・②はパキスタンかバングラデシュです。
ここから絞り込むのはちょっとむずかしいのですが、パキスタンのほうがイスラム教徒の比率が高いので、①がパキスタンです。

最後にヒンドゥー教徒が多数で、仏教徒も分布しているので④がネパールです。

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センター試験 地理B (本試験・2008年)

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解答
①はウルドゥー語をつかっているのでパキスタンです。ウルドゥー語は、11世紀ごろに、北インドのデリー周辺で土着の言葉に、トルコ語やペルシア語が混ざってできた言葉です。
ヒンディー語とウルドゥー語とは「双子の言語」と呼ばれます。似ている表現も多いのですが、ウルドゥー語はアラビア語で記されます。
パキスタンとインドに分かれる過程で、ウルドゥー語はパキスタンの言葉、インドはヒンディー語だという区分が意識化されていきました。

②はスリランカ。③はバングラデシュ。④はネパールですね。


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1-6. スリランカ

なぜスリランカにインド系の住民がいるのだろう?

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「タミル人」はインドの南部に分布する民族です。
どうしてスリランカにも分布しているのでしょうか?

それは19世紀にイギリスが茶を中国以外で栽培するため、スリランカで大規模なプランテーションを経営するようになったからです。



その際、おなじくイギリスの植民地であったインドから、契約労働者としてインド人を移住させたのです。
「リプトン」が有名ですね。


このことは、20世紀後半にスリランカで多数を占めるシンハラ人との対立を生み、少数派のタミル人を保護するインドの干渉もあり、深刻な内戦に発展する原因となりました(2009年に停戦)。

なお、宗教構成は、仏教 70.2%、ヒンドゥー教 12.6%、ムスリム 9.7%、ローマ=カトリック 6.1%、その他のキリスト教 1.3%(2012年)となっています。
仏教は「上座仏教」です。マウリヤ朝の時代に、アショーカ王の王子マヒンダがセイロン島に仏教をつたえたといわれています。

スリランカのまとめ
・スリランカにもともと居住していたのは、上座仏教を信仰するシンハラ人
・19世紀以降、イギリスによる茶のプランテーションのため、インドのタミル人が移住するようになった
・20世紀後半には、シンハラ人とタミル人の内戦に発展した

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2. フランスとゆかりのある国々

2-1. フランス

フランスは1830年にアルジェリアを植民地化して以降、北アフリカに進出。1881年にチュニジアを保護国化し、モロッコも保護国化しました。

ですから20世紀後半に植民地が独立すると、ベルベル人の移民が増加。
したがってイスラーム教徒が増えています。

宗教構成は キリスト教 63〜66%、イスラーム教 7〜9%、仏教徒0.5〜0.75%、ユダヤ教徒 0.5〜0.75%、その他 0.5〜1.0%、なし 23〜28%(2015年)です。

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3. 中東

1. イスラエル

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イスラエルは1948年に建国された、入植ユダヤ人による国家です。その領域内にはキリスト教、イスラーム教、ユダヤ教などさまざまな宗教・言語を持つアラブ人を中心とする民族が暮らしていました。彼らはパレスチナ人と総称され、その後の中東戦争によって、多数のパレスチナ難民が発生しました。

ここでは詳しく触れませんが、オスマン帝国時代の領域線、第一次世界大戦中のサイクス=ピコ協定の区画線、第二次世界大戦直後の国境線は、しっかり地図を見てチェックをしておくことをお勧めします。


2. イラン

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イランの宗教構成は以上のとおりになっています(2011年。シーア派とスンナ派は割合に幅がある)。 
シーア派が多数派であること
、信仰がひろく定着していったのはサファヴィー朝以降であることしっかり覚えておきましょう。


3. トルコ

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イランの宗教構成は以上のとおりになっています(2016年。イスラーム教は割合に幅がある)。

かつてアイユーブ朝を建国したクルド人は、現在、イラク、イラン、シリア、トルコにまたがって分布し、国家を持っていません。



先日、深刻な大地震に見舞われたイズミルのあるアナトリア半島東部には、かつてギリシア系住民も分布していました。
しかし、第一次世界大戦後の「住民交換」によって、ギリシア系住民の多くがギリシア側に移住されたことも知っておいてもよいと思います。
現在では小アジア(アナトリア半島)= トルコ という図式が成り立っているわけですが、昔からはっきりと、ここまでがギリシアで、ここからはトルコというように線引きされていたわけではないのです。 



なお、そもそもトルコ人のルーツは、モンゴル高原にあったこともお忘れなく。
トルコ人の大移動は重要テーマです(9世紀 ウイグルが西に移動 → 10世紀 タリム盆地にカラハン朝 → 11世紀 セルジューク朝…)。


センター試験 地理B(本試験・2013年)

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解答 ③
民族紛争のタイプを模式図であらわそうとした、おもしろい出題です。クルド人は③のタイプですね。ほかのパターンについても考えてみましょう。



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4. ロシアとCIS諸国

4-1. ロシア

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ロシアは多民族国家です。なにせとても広い。宗教構成もロシア正教会(10〜20%)だけでなく、イスラーム教徒(10〜15%)の人々も相当数いらっしゃいます。

タタール人というのはトルコ系のイスラーム教徒です。


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4-2. ウクライナ

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ウクライナにはかつてチェルノブイリ原子力発電所があって、よく「ソ連のチェルノブイリ原発が爆発した」(1986年)と説明されることから、チェルノブイリ原発がロシアにあるんじゃないかとゴッチャにされることも少なくありません。

しかし、「チェルノブイリ」というのはロシア語で、ウクライナ語では「チョルノーブィリ」であり(私はこれを東浩紀さんの『ゲンロン11』における指摘で初めて知りました)、ロシアとウクライナの民族意識にはおおきな隔たりがあります。

もちろん近現代以降の「ロシア人」意識と「ウクライナ人」意識を、それ以前の歴史にさかのぼらせようとしても、あまり意味はありません。
ただ、ウクライナという場所には、“ロシア国家” のルーツであるキエフ大公国(882年建国)があった点は重要です。

しかしその後、モンゴル人のバトゥの遠征により、キエフ大公国は服属。1480年に、キエフ大公国よりももっと北に位置するモスクワ大公国がモンゴル人の支配から自立します。
その後、“ロシア国家”の中心は、モスクワ大公国に移り、モスクワ大公国は「ロシア帝国」と称することになりました。
なおその後も各地にはモンゴル系やトルコ系の人々が依然として支配をつづけます。とくにイスラーム教徒のトルコ系の人々のことを「タタール人」といいます。

ウクライナには、コサックという勢力が国を作ったり、リトアニアと合同したポーランドが進出してきたりして、一般的な『世界史』のストーリーの中では、あまり語られることはなくなっていきました。
近代以降、ほかのヨーロッパ諸国と同様にウクライナでも「自分たちはウクライナ人だ」という “メンバー意識” (ナショナリズム)が強められていきました。
「おまえらは小ロシアだ」というレッテルをウクライナに貼ったロシア帝国に対し、ウクライナでは歴史やウクライナ語の辞書・文学が整えられていきました。

ウクライナ出身の作家としては作家のゴーゴリが挙げられます。ロシア語で執筆したのでロシアの作家として紹介されますけどね。


その後、第一次世界大戦中にロシア革命が起き、ロシア帝国がたおれると、ウクライナは一時独立を勝ち取ります。しかしながらこの政府(ウクライナ人民共和国)は倒され、代わってソヴィエト=ロシアの支援するウクライナ社会主義ソヴィエト共和国ができ、1922年にはソ連のメンバーになりました。


しかし、1991年にソ連が崩壊すると、ウクライナは独立国家共同体の一員とはいえ、主権を持つ独立国となりました。
なお2014年のウクライナ危機で、ロシアがクリミア半島を併合。ウクライナはCISからの脱退を表明しましたが、承認されていません。



センター試験 地理B(本試験2019年)

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解答 ウクライナ語はロシア語に近いので、よく似ている 記号 チ がウクライナ語ですね。写真Hがウクライナの街並み。Gはサマルカンドです。


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5. 東南アジア

5-1. シンガポール

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シンガポールは1819年にイギリスの植民地になる前までは、さびれた海賊の根城や漁村に過ぎませんでした。

しかしラッフルズは「シンガポールは必ずや未来の東アジア貿易のハブになる!」と直観し、植民地化を推進。
もともと住んでいたのはマレー系の人々でしたが、そこに中国人が「南洋華僑」として移住し、ネットワークを形成するようになっていきました。イギリスの植民地下においては、中国人やインド人が苦力(クーリー)として移住。
これらさまざまな民族が地区ごとに居住するように計画を立てたのも、ラッフルズです(ラッフルズ・プラン)。

その後、シンガポールは「海峡植民地」としてひとくくりにされ、イギリスの直轄植民地となるのですが、第二次世界大戦後には「マレーシア」の一部として独立することになりました。
しかし華僑が多数を占めるシンガポールでは、マレー人を優遇するマレーシアの政策への反発が高まり、1965年にリー・クアンユー首相を中心に「シンガポール」として独立し、今に至ります。


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5-2. インドネシア

インドネシアは宗教の構成を確認しておきましょう。

イスラーム教 87.2
プロテスタント 7.0
ローマ・カトリック 2.9
ヒンドゥー 1.7
その他(仏教、儒教) 0.9
不明 0.4

イスラーム教徒が多くを占めていますが、「国教」という扱いではありません。これを題材とした平成30年度の共通テスト試行調査の内容を確認しておきましょう。

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なお、バリ島は、かつてのマジャパヒト王国の名残ですので、ヒンドゥー教徒が多数を占めるのが特徴です。







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解答   ①は誤りです。

インドネシアはイスラム教徒が多いのですが、ヒンドゥー教の「聖典」として扱われる「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」などを上演するジャワの「ワヤン」という影絵芝居といった風習ものこっていることもお忘れなく。


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6. アフリカ

6-1. タンザニア

タンザニアの領域は大陸地域とザンジバル島の2つに分かれている。

●タンザニアの民族

アフリカ大陸の本土
アフリカ系 99%(そのうち95%はバントゥー系だが、さらにその中に130の民族を含む)
アジア系・ヨーロッパ系・アラブ系 1%

ザンジバル
アフリカ系、混血アラブ系、混血アフリカ系

問い:なぜザンジバルにはアラブ系などの混血の人々が多く暮らしているのだろうか?

さらに言語も調べてみよう。


●タンザニアの言語

公用語はスワヒリ語と英語。英語は商業・行政・高等教育で用いられている。
ほか、ザンジバルで広く話されているのはアラビア語。その他、多くの言語が話されている。

問い:なぜザンジバルではアラビア語を話す人が多く暮らしているのだろうか?問い:なぜタンザニアでは英語も公用語として使われているのだろうか?
問い:スワヒリ語とはどのような言語なのだろうか?

スワヒリ語の名詞には、その意味にもとづき大きく分けて15の「名詞クラス」という分類があります。これはもともとの東アフリカの言語であるバントゥー系の言語の特徴ですね。

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いっぽう語彙の中にはアラビア語の影響をつよく受けているものも多いのです(稗田乃「スワヒリ語文法」より)。

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アラビア語の影響をあたえたのは、12世紀以降、盛んに来航するようになったアラブ人たちでした(ザンジバルにはペルシア人も移住しています)。

アラブ人たちは東アフリカの港市国家に居住し、貿易を支配しますが、15世紀末にポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマが大砲をぶっ放し、武力で東アフリカの港市国家にねじ込みます。


しかしその後、1810年にはアラブ人のオマーン王国が首都を現在のタンザニアのザンジバルに移し、奴隷貿易で繁栄(アラブ人の奴隷貿易)。このへんはあんまりというか全然世界史の教科書に書かれていないのですが、重要です(以下の富永智津子さんの著作がおすすめ)。



その後、19世紀末にドイツに植民地化されると、アラブ人の主導権は奪われました。第一次世界大戦後にはイギリスの植民地となり、第二次世界大戦後に独立。現在のタンザニアが、大陸部とザンジバルとの連合国家になっているのは、かつてザンジバルをアラブ系住民が支配していたこととも関わっています(こちらも参照 「解説 複雑な歴史が絡み合うザンジバルの対立軸」)。


過去問:センター試験 地理A(本試験・2014年)

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解答 ① 8世紀以降に交易が活発になったのはアラブですね。地域共通語はスワヒリ語です。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊