見出し画像

3-3-1-1. 多民族・他宗教が共存したオスマン帝国 新科目「世界史探究」をよむ

3つのイスラーム帝国の時代

16世紀には、アフガニスタンから北インドを支配したムガル帝国(インドのティムール朝)、イラン高原を支配したサファヴィー帝国(サファヴィー朝)、地中海一帯を支配したオスマン帝国(オスマン朝)が並び立つ時代にあたり、いずれもイスラーム教を国教に掲げて繁栄した時代にあたる。


では、今回はオスマン帝国について見ていこう。


多様性を認めるゆるやかな支配

オスマン帝国の支配の特色は、ムガル帝国と同様、他宗派や異教徒に対して融和的であった点にある。

君主の称号はスルタン
帝国内に住むキリスト教徒の諸派や、ユダヤ教徒には、法にもとづく自治が認められていた。

その証拠に、オスマン帝国の支配したイェルサレムでは、今でも多様な信仰が維持されている。
特に、アルメニア人の地区は、独特な雰囲気を醸し出している。


イェルサレムのアルメニア正教会地区 聖ヤコブ正教会(筆者撮影)


アルメニア人は後でふれるように、アジアとの貿易ネットワークを築いた商業民族だ。


出典:浅田實「一七世紀アルメニア商人の活躍 ―貿易ディアスポラとしての」『創価大学人文論集』 2 175-196頁、1990年-03-0 https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=36574&item_no=1&page_id=13&block_id=68



ユダヤ人同様、アルメニア人は11世紀に東ローマ帝国によって王国が滅ぼされ、散り散りに。
東方に移住したアルメニア人は、オスマン帝国領内で保護され、17世紀にかけてサファヴィー朝の保護のもとで、海陸のシルクロードの交易で活躍した。


右からユダヤ人、ギリシア正教徒、アルメニア正教徒の大商人(「トゥッジャール」とよばれ、活動が保護された)。林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社、1997年、78頁。


たとえば、シンバルのメーカーで知られるジルジャンは、17世紀にオスマン帝国の軍楽隊が、アルメニア人錬金術師の開発した新式のシンバルを採用したことにルーツを持つ(ジルジャンはこのとき皇帝が彼に与えた称号)。

出典:ジルジャンの歴史より、https://www.zildjian.jp/information/history-zildjian.html



(参考)ムガル帝国における多様性を認めるゆるやかな支配
たとえば皇帝アクバル(在位1556〜1605)のときには、異教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止し、ヒンドゥー教徒との融和が図られた。
特に西北インドを支配していたラージプート諸侯と同盟・主従関係を結んだことが重要である。


盛んな商業活動


オスマン帝国内には、ヨーロッパからも商人が訪れた。
そのため彼らの待遇をどのようにするかが問題となった。

そのきっかけとなったのは、メフメト2世がビザンツ帝国のコンスタンティノープルを陥落させたとき(1453年)のことだ。
当時のコンスタンティノープルにはジェノヴァ人の居留地(ガラタ地区)があって、メフメト2世は彼らに保護誓約書を交わしたのだ。

メフメト2世の保護誓約書(1453年)
朕は次のように宣誓する。[…]いまガラタ[ジェノヴァ人の居留地のこと]の人々と貴族たちは、[…]朕に、下僕(げぼく)となることへの服従を示した。朕もまた次のことを受け入れた。彼ら自身の慣習と規則がいかなる形で通用してきたとしても、やはりそのやり方に従って、彼らの慣習と規則を実行すべし。[…]彼らも、朕の他の国土とおなじく、商売をすべし。海上・陸上を旅行すべし。何者も妨害し、迷惑をかけぬように。[特別な税を]免除されるべし。朕もまた彼らに、イスラーム法上の人頭税(じんとうぜい)を課そう。彼らは、他の[非ムスリムの]者たちとおなじく、年ごとに支払うべし。そして朕もまた、朕の他の国土とおなじく、この者たちの上から朕の貴(とうと)き眼差しをそらさず、保護しよう。また彼らの協会は、彼らの手中にあるべし。彼らの儀礼に従って祈禱(きとう)すべし。しかし鐘を打ち鳴らさないように。そして朕は、彼らの教会を奪ってモスクとはすまい。そして彼らもまた新しい教会を建てないように。そしてジェノヴァの商人たちは、海上・陸上をつうじて商売し、往来すべし。関税を慣習にしたがって支払うべし。彼らに対して何人も侵害しないように。

(出典:歴史学研究会編『世界史史料2』より)

セリム2世(在1556〜1574)が、スレイマン大帝のときにフランスに慣習的にあたえられていた通商特権を、1569年に正式に定めたものが有名だ。帝国内のフランス人に、生命・名誉・財産の安全、通商特権、領事裁判権などを保障したものだ。
こうした文書は、その後イギリス、オランダに対しても認められ、西欧諸国はカピチュレーションと呼んだ。


イギリス使節のスルタンへの謁見(1763年)
当時の力関係がよく伝わってくる絵だ。イギリス使節、フランシス・スミスによる。林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社、1997年、65頁。


これは西欧で発達し、いま現在世界にひろまっている「国際条約」のようなものではないという点には注意したい。カピチュレーションはむしろ、優位を保っていたオスマン皇帝が、周辺諸国に対して与えた”恩賜”としての条項だったのだ(しかし19世紀になり、ヨーロッパ諸国の地位が相対的に上がると、治外法権を主張する法的根拠として持ち出されることになる)。


「より重要なのは,西欧諸語でカピチュレーションと称される文書は対等な国家ないし政体どうしの相互的条約という近代的な通商条約とは,主に次の3点で異なっているということである。
①前述のとおり,アフドナーメは非対等な君主間で[この場合は優位にあるオスマン君主がより下位の国家君主に対して]一方的に恵与される。したがって君主からの返書は不要でありまた想定もされていない。②さらに[暗黙裡には相互的な対応が期待されているにせよ]相手側の領土におけるオスマン臣民の通商居留条件はカピチュレーション型の文書にはほとんど記載されない。ただし講和条約型のアフドナーメに通商条項が含まれる場合は相互的条項も記載される場合が多い。③そもそもオスマン側の勅許恵与型文書発出の主眼は相手国との交易条件ではなく,異邦人がオスマン領内にやってきて通商や居留に携わる場合,その領内における法的地位をどう定めるかが焦点であった。具体的な通商条項は西欧諸国とくにイギリスやオランダが参入し,通商条件に関する要望をオスマン側に請願しこれが徐々に認められていく過程で増えていった。」

出典:松井真子「1673年と1740年の対仏カピチュレーション」、『愛知学院大学文学部紀要』51、2022年、123-134頁。

 オスマン帝国はセリム2世(在位1566~1574)のときに最初のカピチュレーションをフランスに付与。その後、イギリス、さらにオランダとの間で熾烈な争いを繰り広げ、19世紀にかけてカピチュレーションの内容も変わっていった。

「1536年にフランス特使とオスマン政府の間で交渉が行われたこと自体は確かとされ,それは1569年におけるセリム2世(在位1566‒1574年)による最初のカピチュレーション発出につながった。1536年の草案も1569年のアフドナーメも通商条件の具体的提示はなく,フランス臣民の通商・居留の保障や領事裁判権などが全般的に表現されている。その後ヴェネツィアやフランスのすでに通商居留勅許をえた諸国が強く反対したにも関わらず,オスマン帝国は新たな東地中海貿易参入希望国,イングランドに1580年最初のアフドナーメを与えた。」

出典:松井真子「1673年と1740年の対仏カピチュレーション」、『愛知学院大学文学部紀要』51、2022年、123-134頁。


なお、現在のトルコもフランス文化との結びつきは強い。

フランス文化の影響の強さは、トルコにおける外国語教育の歴史をみれば容易に理解でいる。第二次世界大戦前までのトルコでは、外国語といえばフランス語であった。前に述べたとおり、オスマン帝国末期の近代化のための改革運動は西欧化を意味したが、文化的にはフランスの影響力が絶大であったので、当時の文化人や知識人の多くはフランス語を解した。学校教育でもフランス語が第一外国語として重要視された。とくにイスタンブールではフランス語で教育を行うガラタサライ高校(リセ)の卒業者が各階に活動するエリート集団を形成する時代もあった。[中略]第二次世界大戦後は、米国の国際社会での地位向上に伴い、トルコでも外国語教育の中心はフランス語から英語へと移った。しかしながら、トルコ語の語彙の中の外来語としては、依然として圧倒的にフランス語の単語が多い。

出典:松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』中央公論新社、1998年、59頁。



1554年にはイスタンブルに世界初のコーヒーハウスが誕生。16世紀末に600店を数えた。コーヒー(アラビア語ではカフワ、トルコ語ではカフヴェ)を飲む行為に関しては、イスラムの教義との整合性が問題になることもあった。コーヒーは、17世紀にヴェネツィアを通してヨーロッパに伝わり、西ヨーロッパの政治・経済・文化に大きな影響を与えることになる。



官僚を用いた中央集権的な支配


また、官僚制を整備し、行政や租税制度を整えていった点もムガル帝国と共通する特徴だ。帝国内のウラマーや軍人を官僚に取り込み、官位を与えて皇帝に直属させていったのだ。

(参考)ムガル帝国における官僚を用いた中央集権的な支配
たとえばアクバルは全国を州・県・郡に分け、検地をおこない徴税制度をととのえた。
そして貴族と官僚に対し、ランク(マンサブと呼ばれる位階)に応じて給与地と、保持すべき騎兵と騎馬数を定めた。これをマンサブダーリー制という。


銃砲を導入した兵制の導入


さらにオスマン帝国は、軍隊を組織化し、トルコ人の騎士兵団のみならず、銃砲などの火力を用いる歩兵も積極的に導入した。
特に1514年、サファヴィー軍との戦い(チャルディランの戦い)でオスマン軍が火器を使用して勝利し、火気の持つ威力をとどろかせた。

17世紀に描かれたチャルディランの戦いのミニアチュール(https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Chaldiran#/media/File:"Shah_Ismail_at_the_Battle_of_Chaldiran",_from_Bijan’s_Tarikh-i_Jahangusha-yi_Khaqan_Sahibqiran.jpg、パブリックドメイン)


なお、常備歩兵部隊はイェニチェリと呼ばれ、バルカン半島のキリスト教徒を改宗させて任務につかせた。


こうして16世紀前半から半ばにかけてのスレイマン1世(在位1520〜1566)の治世に、オスマン帝国は北アフリカから東地中海、黒海、さらにはペルシア湾岸・紅海沿岸に至る広大な領域に拡大することとなったのである。


林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社、1997年、27頁

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊