3つのイスラーム帝国の時代
16世紀には、アフガニスタンから北インドを支配したムガル帝国(インドのティムール朝)、イラン高原を支配したサファヴィー帝国(サファヴィー朝)、地中海一帯を支配したオスマン帝国(オスマン朝)が並び立つ時代にあたり、いずれもイスラーム教を国教に掲げて繁栄した時代にあたる。
では、今回はオスマン帝国について見ていこう。
多様性を認めるゆるやかな支配
オスマン帝国の支配の特色は、ムガル帝国と同様、他宗派や異教徒に対して融和的であった点にある。
君主の称号はスルタン。
帝国内に住むキリスト教徒の諸派や、ユダヤ教徒には、法にもとづく自治が認められていた。
その証拠に、オスマン帝国の支配したイェルサレムでは、今でも多様な信仰が維持されている。
特に、アルメニア人の地区は、独特な雰囲気を醸し出している。
アルメニア人は後でふれるように、アジアとの貿易ネットワークを築いた商業民族だ。
ユダヤ人同様、アルメニア人は11世紀に東ローマ帝国によって王国が滅ぼされ、散り散りに。
東方に移住したアルメニア人は、オスマン帝国領内で保護され、17世紀にかけてサファヴィー朝の保護のもとで、海陸のシルクロードの交易で活躍した。
たとえば、シンバルのメーカーで知られるジルジャンは、17世紀にオスマン帝国の軍楽隊が、アルメニア人錬金術師の開発した新式のシンバルを採用したことにルーツを持つ(ジルジャンはこのとき皇帝が彼に与えた称号)。
盛んな商業活動
オスマン帝国内には、ヨーロッパからも商人が訪れた。
そのため彼らの待遇をどのようにするかが問題となった。
そのきっかけとなったのは、メフメト2世がビザンツ帝国のコンスタンティノープルを陥落させたとき(1453年)のことだ。
当時のコンスタンティノープルにはジェノヴァ人の居留地(ガラタ地区)があって、メフメト2世は彼らに保護誓約書を交わしたのだ。
セリム2世(在1556〜1574)が、スレイマン大帝のときにフランスに慣習的にあたえられていた通商特権を、1569年に正式に定めたものが有名だ。帝国内のフランス人に、生命・名誉・財産の安全、通商特権、領事裁判権などを保障したものだ。
こうした文書は、その後イギリス、オランダに対しても認められ、西欧諸国はカピチュレーションと呼んだ。
これは西欧で発達し、いま現在世界にひろまっている「国際条約」のようなものではないという点には注意したい。カピチュレーションはむしろ、優位を保っていたオスマン皇帝が、周辺諸国に対して与えた”恩賜”としての条項だったのだ(しかし19世紀になり、ヨーロッパ諸国の地位が相対的に上がると、治外法権を主張する法的根拠として持ち出されることになる)。
オスマン帝国はセリム2世(在位1566~1574)のときに最初のカピチュレーションをフランスに付与。その後、イギリス、さらにオランダとの間で熾烈な争いを繰り広げ、19世紀にかけてカピチュレーションの内容も変わっていった。
なお、現在のトルコもフランス文化との結びつきは強い。
官僚を用いた中央集権的な支配
また、官僚制を整備し、行政や租税制度を整えていった点もムガル帝国と共通する特徴だ。帝国内のウラマーや軍人を官僚に取り込み、官位を与えて皇帝に直属させていったのだ。
銃砲を導入した兵制の導入
さらにオスマン帝国は、軍隊を組織化し、トルコ人の騎士兵団のみならず、銃砲などの火力を用いる歩兵も積極的に導入した。
特に1514年、サファヴィー軍との戦い(チャルディランの戦い)でオスマン軍が火器を使用して勝利し、火気の持つ威力をとどろかせた。
なお、常備歩兵部隊はイェニチェリと呼ばれ、バルカン半島のキリスト教徒を改宗させて任務につかせた。
こうして16世紀前半から半ばにかけてのスレイマン1世(在位1520〜1566)の治世に、オスマン帝国は北アフリカから東地中海、黒海、さらにはペルシア湾岸・紅海沿岸に至る広大な領域に拡大することとなったのである。