12.1.3 オスマン帝国の改革 世界史の教科書を最初から最後まで
19世紀初め以降、伝統的なイェニチェリ軍団を解体するなど、改革をすすめたオスマン帝国だったが、ヨーロッパ諸国による進出や国内の民族運動の活発化が重なり、統治に揺らぎが生じていた。
イギリスとの通商条約
1838年にはイギリスとの間に新たに次のような通商に関する取り決めを結んでいる。
これまでオスマン帝国は、本来は恩恵的保護特権として領事裁判権をイギリス側に認めてきた。
しかしこの協約(イギリス・トルコ通商条約、バリタ・リマヌ条約ともいう)においては、そうした伝統的なカピチュレーションと呼ばれる恩恵的特権を、イギリスに有利な形で引き継ぐことが定められた。
こうして、オスマン帝国がイギリス側に領事裁判権を認め、イギリスがオスマン帝国の関税自主権を奪う不平等条約が施行されるや、オスマン帝国の西欧諸国への経済的従属が進むこととなる。
なお、この内容はオスマン帝国の名目的な統治下にあったエジプトにも適用され、エジプトも経済的打撃をこうむることとなった。
タンジマート
そんな中、アブデュルメジト1世(在位1839〜61年)
の下では、改革派の宰相ムスタファ=レシト=パシャ(1800〜1858年)によって、支配の方式を転換するスルタン(君主)による命令が発表された。これをギュルハネ勅令(ギュルハネ)という。
これ以降の司法・行政・財政・軍事にわたる大規模な西欧化改革のことを、タンジマートという。
国の命運をかけた改革のお触れはトプカプ宮殿のギュルハネ庭園で発表された
西欧化とは「西ヨーロッパで発達した国づくりや工業化をモデルに、国がトップダウンで古い制度を強制的にアップデートさせること」。
この改革によりオスマン帝国は伝統的なイスラーム教にのっとった国から、「平等な国民」という “設定” に基づく国へと体制を改め、人々に対する宗教の区別を問わない法的な平等も認められた。
当時のヨーロッパ諸国は「オスマン帝国でキリスト教徒の人権が奪われている」ということを口実に、しばしばオスマン帝国の領土内の宗教・民族グループの支援の形をとって、オスマン帝国の領土を獲得しようとしていた。
宗教の区別を法的にしないことを規定したのには、このような事情があるのだ。
ただ、オスマン帝国には「ムハンマドの代理人」であるカリフや、多数の権威あるイスラーム法学者(ウラマー)が活動しているのも、また事実。ここで使われている「法」という言葉は、あくまで「世俗の分野における法」であって、イスラーム法(シャリーア)ではないことに注意しよう。
ヨーロッパで発達した一元的な法制度が整備されていなければ、“半人前の国”としてナメられてしまうという危機感があったわけだ。とくに勅令の中で繰り返し「財産権」という言葉が出てくるように、財産がきっちり保障されていることは、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国相手にビジネスする上、とっても大事な条件の一つだったのだ。
しかし、容赦ないヨーロッパ工業製品の流入は地域産業の没落をうながし、かえって外国資本への従属がすすんでしまう。
ミドハト憲法
一方、クリミア戦争(1853〜1856年)の後、国内に立憲制をつくろうという要求が高まった。
しかし、改革の賛成派と反対派の間でもめにもめ、スルタン(君主)も短期間で交替が続く中、新スルタンのアブデュル=ハミト2世(位1876〜1909年)
と結んで権力を握ったミドハト=パシャ(1822〜1884年)が
「憲法がなければ、ヨーロッパ諸国からナメられます」と危機を訴え、1876年にフランスに影響を受けた自由な憲法を制定(通称「ミドハト憲法」)。
アジア諸国に先駆けた憲法によって、議会も開設された。
しかし、大宰相に出世したミドハト=パシャへの反感も根強く、スルタンも自分の権限が制限されることを警戒。
ロシア帝国との露土戦争が始まると、スルタンは「緊急事態」を口実に議会を閉鎖、せっかくできたミドハト憲法も、効力を停止してしまった。
また、この戦いに敗れたオスマン帝国は、1879年のベルリン条約により、セルビアやルーマニアなどヨーロッパ側の領土を大幅に失うことになった。
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