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9.2.7 成長する市民と文化 世界史の教科書を最初から最後まで

商工業がさかんとなっていった17〜18世紀、ビジネスで成功する豊かな市民が増え、社会的にも無視できない存在になっていった。

それとともに、彼らの実感や価値観にフィットした文化も、次々と出現する。


まずネーデルラント連邦共和国では、レンブラント(1606〜69年)が、光と影の強調によりスポットライトのような効果をうみだし、市民の力強さを表現。

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また、17世紀後半に政治的な変動で混乱していたイングランド王国では、ミルトン(1608〜74年)の『失楽園』バンヤン(1628〜88年)の『天路歴程』などのピューリタン文学が、カルヴァン派の価値観にフィットして好評を博している。




一方、ヨーロッパ諸国の海外進出が進んでいくにつれ、ライフスタイルの激変(生活革命)も目立つようになっていった。

タバコ、

茶、砂糖、

コーヒー。


現在からするとどれも見慣れた“当たり前”のものだけれど、当時としたら超斬新なもの。
こうした海外の嗜好品は“見栄を張る”ために消費されることも多く、当初は貴族が独占。
やがてセレブな市民層は、“見栄を張る”ために貴族をマネするようになっていった。


生活必需品を“購入”して生活を豊かにしていくとともに、必ずしも生きていくのに必要はない物も“消費”することで、自己満足や自己アピール(他人との差別化)をする。

こうした、現代につながる生活文化のルーツが形成されていったんだね。


ビジネスの成功や生活水準の向上によって身分の差別が解消されていくにしたがい、従来の貴族階級と実力での仕上がった人々の接点も増えていった。

その場所として注目されたのが、コーヒーハウスクラブとよばれる施設。

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そもそもコーヒーはオスマン帝国からヨーロッパに伝わったもの。
コーヒーハウスはイギリスでは17世紀半ばのオックスフォードに初めて登場し、

パリにも同様のカフェが現れた。


今でいうところの“会員制オンラインサロン”のオフライン版だ。

政治にとっても、ビジネスにとっても、学問研究にとっても、やはり情報は“生命線”。

身分にとらわれない自由な交流の場がたくさんできると、教養ある法律家や聖職者などの専門職業人ふくむ市民層が集っていった。

貴族の館で開かれた「サロン」とともに、文芸・ジャーナリズム・経済活動を支えるとともに、政治に対する批判の言論の場にもなった。

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彼らの声はやがて「世論」(輿論;よろん)となって、支配者にとっても聞き捨てならない存在となっていく。

市民に人気となった作品としては、18世紀前半のデフォーの『ロビンソン=クルーソー』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記が挙げられる。


いずれも航海を伴う貿易・植民活動が背景に書かれた小説だ。
前向きになんでもやってのける『ロビンソン=クルーソー』は、工夫と実力でのし上がっていこうとする当時の企業家たちにも大ウケした。
2人ともジャーナリスト出身であり、今でいうところの“社会派”。
彼らの作品を載せた新聞や雑誌も、イギリスで多数刊行され、「世論」の成長に役立っていったんだ。



庶民の文化


一方、農村や都市に暮らす庶民の文化は、上記のような貴族や市民文化とはかけ離れたものとなっていく。

洗練された上品な文化に対し、民衆たちは、自堕落に居酒屋でたむろする「怠け者」であり、彼らが貧しいのは、かつてのように神に祝福される状態ではなく、たんに彼ら自身の責任と見なされるようになったのだ。


この傾向は、宗教改革によりプロテスタントのひろまった地域で特に強かった。

中世の視覚的文化にかえてプロテスタントが提示したのは、すでに述べたように神の言葉、聖書の権威であった。しかし神の言葉に直接ふれるためには「読み書き能力」を基本とした。聖書を自らの両親にてらして読むことが、プロテスタントの信仰の基本だったからである。聖職者がおこなう説教も「神の言葉」に違いなかったが、実際に聖書を呼んだことのない人間にとって、難解な説教は退屈以外のなにものでもなかった。[…]蝋燭が揺らめき、聖歌の響くカトリック教会のミサに比べるとき、プロテスタント教会の礼拝がどれほど味気なく感じられたかは創造するまでもない。
それに加えてプロテスタントの一部には「安息日厳守主義」という考え方があった。[…]プロテスタントのなかには教会の宴会など日曜日の社交を禁止するものもいた。これによって教会は神秘的でもなければ、楽しくもない場所になってしまった。多くの文字を読めない人びとは、当然、息抜きを求めて居酒屋へ逃れた。[…]ところがプロテスタントは、今度は日曜日の居酒屋の営業を禁止することで、安息日を厳格に守らせようとしてのである。[…]
こうして敬虔なプロテスタントと民衆文化のあいだの敵意が、しだいに大きくなりはじめた。
[…]
一方の極に教会があり、他方の極に居酒屋があった。

小泉徹『宗教改革とその時代』山川出版社、1996年、58-60頁。


居酒屋、同上、59頁。

こうして「貧民を救済する人」と「救済される貧民」という区別が、はっきりと分かれてきた。「貧民を救済する人」は「教区委員」「貧民監督官」などの役職について、貧民が野放図な生活をしないように監視し、「貧民」は彼らのお情けにすがって生きるしか道がなくなってしまった。当時の言い方に従えば、貧民は「王国の富を減少させる人」となったのである。そのうえ貧民に勝手な生活をさせておけば、さらに貧民の子どもがふえ、救貧税の負担がふえると考えられた。「貧民を救済する人」にとっては、貧民の素行をきちんとさせておくことが税の負担を減らすことになったので、ますます熱心に貧民の生活態度を改めさせようとした。その結果17世紀の一時期、イングランドでは「(宗教)改革を進める」ということは、こうした「道徳改善運動を進める」ことと同じ意味をもつようになる。

小泉徹『宗教改革とその時代』山川出版社、1996年、63頁。

どうしてこんなことになったのか。
そもそもグーテンベルクが活版印刷術を改良しなければ、こんなにも短期間のうちに宗教改革が成功することはなかった。

宗教改革は、当時主権国家体制をつくろうとしていたヨーロッパ各地の君主に受け入れられ、またたく間にひろがっていくが、プロテスタントの教義は同時に、人々を「文字の読める人」と「読めない人」の2つに線引きしていった。
そして、貧困に苦しむ人々への視線自体も、変化させていった。

主権国家は、その広い領域を細部に渡って支配するために、文書をこまかく用いるようになる。貧困を救済するための行政もしかりである。そこに関わる行政官もやはり、文字が読める必要がある。
こうしてますます、文字の読めぬ人々が、排除されていく。

それがグーテンベルク革命のもたらした帰結だったのだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊