見出し画像

8.1.1 大航海時代 世界史の教科書を最初から最後まで

ヨーロッパはユーラシア大陸の“端っこ”に位置し、13世紀(今から700年ほど前)のモンゴル帝国以降わき起こっていた「ユーラシア大陸東西の海上貿易ブーム」の恩恵にもあずかることはできず、「低成長」に甘んじていた。



ヨーロッパ以外の世界に対する正確な知識も乏しかった。

画像2

1450年ころのヴェネツィアで描かれた世界地図


そんな中、さまざまな情報が流れ込んでくる。

・ヴェネツィアの商人 マルコ=ポーロが『世界の記述』(東方見聞録)で言うには、アジアには“黄金の国ジパング”とやらがあるらしい(ジパング→ジャパン→日本?)。

画像3

ジパング伝説のルーツは平泉の中尊寺金色堂?


・イスラーム教徒たちの東の果てには、伝説のキリスト教の司祭(プレスター=ジョン)の国があるらしい。協力関係を結べば、イスラーム教徒を挟み撃ちにできるかもしれないぞ!


・アジアには、香辛料がざくざくとれる産地があって、そこに直接行けばイスラーム商人たちを“中抜き”することができるはずだ。



・アジアに到達するために、従来のルートに代わる新たなルート(インド航路)があるはずだ。


***


一方、こうした情報が“真実”かどうかを確かめることを可能とする、新たなテクノロジーや研究も進みつつあった。

史料 フランシス=ベーコン『ノヴム・オルガヌム』(1620年)
これら三つの発見(印刷術・火薬・羅針盤)は、第一のものは学問において、第二のものは戦争において、第三のものは航海において、全世界の事物の様相と状態をすっかりかえてしまって、そこから無数の変化がおこったのである。そしてどんな帝国もどんな宗派も、どんな星も、上の三つの機械的発明以上に、人間の状態に大きな力をふるい、深い影響力を及ぼしたものはないように思われるのである。

服部英次郎訳『ノヴム・オルガヌム』


・かつて宋代の中国で開発された羅針盤(らしんばん)の改良


・高速で遠洋航海が可能な帆船(はんせん)の普及



・正確な海図(かいず)の製作

画像5

ポルトラーノ図 コンパスを当てれば行き先の方角がわかるようになっている
カタルーニャ世界図


・地球がテーブルのような円盤状ではなく、ボールのような球体をしているのだという知識(地球球体説🌏)


***


そして迎えた15世紀前半。

アジアへの到達をめざす巨大プロジェクトを実際に展開しようという動きが盛り上がるようになっていく。

15世紀末(今から550年ほど前)から始まった、ヨーロッパ人の「ユーラシア東西貿易ルート」「地中海やインド洋につながる物流ルート」に“新規参入”しようとする時代を、欧米では「発見の時代」(the Age of Discovery)という。

でも、「発見」って言われても、“発見された側”であるアジアやアフリカの人々にとっては、「おいおい、それはこっちのセリフ。お前らヨーロッパ人を “発見” したのは自分たちだ」っていう感じだよね。

そこで、「発見」という言葉に込められた “ヨーロッパ人目線の世界史” を矯正するために、日本の研究者が「大航海時代という呼ぼう」と提唱し、一般に広まったんだ。

でも、「大航海時代」っていうとヨーロッパの商業の力がとっても強かったかのように思えるけど、当時の世界の貿易中心地はあくまで「インド洋沿岸」。
すでに15世紀初め(今から600年ほど前)には、中国人の鄭和(ていわ)率いる大艦隊がアフリカにまで到達していたくらいだ。

そこで「ヨーロッパが海に進出しはじめたこと」だけを「大航海時代」というのではなく、それ以前の鄭和(ていわ)の南海遠征ころからの“商業ブーム”の時代をスタート地点に「大交易時代」という時代の区切り方も提案されている。
そうすれば、ヨーロッパ勢力が後から遅れてやってきた “新参者”だということもハッキリするからね。


ポルトガルの探検


さて、とりあえずここでは一般に通用している「大航海時代」という呼び方を使うことにしよう。
その火蓋を切ったのはポルトガル王国



領域内からイスラーム教徒の勢力を追放する「国土回復運動」(レコンキスタ)を進めていたポルトガルは、すでに15世紀初頭にはアフリカ大陸西岸の探検に乗り出していた。
支配層にとって、イスラーム教徒を追い出し、キリスト教を布教させることは”名誉“あること。
また、サハラ砂漠の彼方にあるとされた金(きん)の産地も、大きな魅力だった。



のちに「航海王子」と呼ばれることになるエンリケ(1394〜1460年)は、自身は船酔いがひどく乗船できなかったものの、西アフリカ沿岸への航海を進めるプロジェクトを推進。
ちょっとずつアフリカ西岸を南へ南へ探検していった。

もちろん、南へ進んでいった先に何があるか、当時は知る由(よし)もない。

成果が出たのは、貴族の反乱をしずめて王権を強化したジョアン2世(在位1481〜95年)のときだった。




1488年にバルトロメウ=ディアス(1450頃〜1500年)が、当時のポルトガル人にとってまさに”地の果て“であるアフリカ大陸南端近くに突き出た岬に到達。
「アフリカの南端には海はない」とする、当時のヨーロッパ人の常識を180度ひっくり返す世紀の大発見だった。
この岬には「良い知らせ」ということで、日本語では「喜望峰」(きぼうほう)と訳される名前が付けられた。
「峰」だけど、山のことじゃないよ。


アフリカ南端の岬の秘密を手にしたポルトガル王マヌエル2世は、ヴァスコ=ダ=ガマ率いる海軍を派遣。
ガマの軍は大西洋を南下して、喜望峰からインド洋に入り、アフリカ東岸の未知の領域を北上した。

しかしそこは、古来アラブ商人やペルシア商人の集まるインド洋交易エリア。

大きな港町が点々とし、さまざまな商人や商品が行き交っていた。

だが、ガマはそんなことは知らない。

インド洋の商業上の慣習を守ろうとせず、武力もちらつかせながら各都市を回ったようだ。

そして、現在のケニアにあるマリンディという港町国家で、

アラブ人の地理学者・船乗りであるイブン=マージドの協力を得ることに成功したガマ軍は、ついに1498年にインド西岸の港町国家カリカットに到達する。



案の定ここでも大砲をぶっ放すなどの狼藉(ろうぜき)をはたらいたガマ軍は、カリカットを支配していた王との平和的な貿易を決裂させ、港を占拠。


カリカットはポルトガル王国の拠点となったのだ。

ガマはカリカットから香辛料を満載して王様に配達。
王室はこのインドとのダイレクトな貿易売り上げによって莫大な富を獲得できたわけだ。



こうして、地中海の反対側に位置しヨーロッパの片田舎であったポルトガル王国の首都リスボンは、突如としてアジアとの“貿易センター”へ大化けしていくこととなる(現在のリスボンの街並みは大津波被災後に復興されたもの)。

画像9



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊