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新科目「歴史総合」を読む 2-2-9. マスメディアの発達と大衆の生活

メイン・クエスチョン
マスメディアの発達は、政府や人々の社会生活にどのような影響を与えたのだろうか? 



■メディアの技術革新

サブ・クエスチョン
19世紀に、メディアはどのような発達を遂げたのだろうか?

 
 19世紀に至るまで、メディアといえば、文字を用いて情報を伝える媒体を指した。 

11世紀の半ば、宋代の中国で活字印刷が発明され、13世紀初めの高麗では金属活字が用いられていた。印刷術は製法に伝わり、15世紀にはグーテンベルクにより活字印刷が改良された。

 しかし、19世紀には外界の像を記録する写真、さらに映像を記録する映画、さらに音声を記録する電話が発明された。

 最初の写真は1827年にニエプスによって撮影された(下記動画、33’30”)。

 最初の映画は、1895年12月にパリのレストランで工業化リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフとされる。

 だが、同時期に欧米諸国で同じような装置が発明されていた。たとえば1893年にはアメリカ合衆国のエディソンがキネトスコープという、各人が覗き込んでみる装置を発明している。

 最初の有線電信は1837年にモールスが発明した。その後、電話はアメリカ合衆国のベルによって1876年に発明された。


 このように、19世紀に印刷技術による文字メディアに代わって、写真や映像メディアが発明されたことにより、人間がみずから文字情報を記録するのではなく、記録するための機器によって文字以外の情報を記録することができるようになった。このことは人々のコミュニケーションや感性にも影響を与えた。
 また、電話や電信技術(有線電信、無線電信)によって、遠く離れた場所を、音声情報や文字情報が飛び交う時代が到来した。


■マスメディアの発達

サブ・クエスチョン
マスメディアはいつどのように発達した? また、その背景は?

 18世紀には、ヨーロッパで近代小説や新聞が生まれ、それらを多くの読者に届ける出版企業が発達した。そのことが「国民」を単位とする政治的な共同体(「想像の共同体」)を形成するきっかけになったと、歴史社会学者ベネディクト・アンダーソンは論じている。

 19世紀に登場した映画は、戦場にも設置され、その模様は国民に戦果を伝え、国民的結束を強める媒体として機能するようになった。


資料 欧米における映画

 ヨーロッパにおいて映画を鑑賞したのは中産階級が主で、国家による規制も強かった。しかし、アメリカ合衆国では、下層大衆の娯楽として発展し、「映画の都」ハリウッドは大きな市場を獲得した。



 これまで見てきたように、欧米の国民国家は1870年代ころから帝国主義的な政策に転化し、アジア、アフリカの植民地化を進めた。それに呼応する形でドイツや日本といった後発の工業化を進める国々では、憲法と議会を設け、国民の一部に選挙権を付与し、国民としての意識を高める政策がとられていった。

 国民の教育水準が向上すると、活字メディアも発達した。20世紀前半には、欧米、日本、中国で輪転機が普及し、一般大衆向けの総合新聞が発行部数を拡大した。

資料 小学校と中学校以上の在籍者数

(出典:外園豊基・編集代表『最新日本史図表』第一学習社、2020年、272頁)


資料 高等女学校令の改正
臨時教育会議の女子教育の改善に関する答申に基づいて、大正九年七月六日に高等女学校令の改正が行われた。高等女学校は「女子に須要な高等普通教育を為すを以て目的とする」という従来の規定に「特二国民道徳ノ養成二カメ婦徳ノ涵養二留意スヘキモノトス」を付加した。

(出典:文部省『学生百年史』https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317658.htm



サブ・クエスチョン
「戦前は出版検閲が厳しく、社会主義に関する書籍の出版は困難だった」は正しい?

資料 「大衆」の争奪戦
戦前の左翼出版に関しては、国家権力によって窒息させられた悲劇の言論史という「神話」が根強く存在している。確かに、戦前の出版検閲体制によって言論の自由が大きく制限されていたことは事実である。そのため、戦前の雑誌ジャーナリズム研究は多くの場合、新聞紙法、出版法、治安維持法等による「言論の牢獄」を分析し「抵抗の限界」を示すことに力点を置いてきた。悪名高い治安維持法は、『キング』創刊の1925年、普通選挙法とともに国会を通過している。
 しかし、こうした観点からは、戦前に社会主義、マルクス主義の雑誌・書籍がブームとなり、学生の教養として定着していた事実を十分に説明することはできない。
 1919年、ロシア革命の影響下に『社会問題研究』(河上肇)、『我等』(大山郁夫、長谷川如是閑)、『社会主義研究』(堺利彦、山川均)、『解放』(福田徳三)など社会主義同人誌が多数創刊されたが、社会主義思想の普及に大きな影響を及ぼしたメディアは、同じ1919年4月に創刊された総合雑誌『改造』である。そもそも『改造』は、社長山本実彦が自らの政界進出の足がかりとして創刊したセイロン雑誌で、社会主義雑誌ではなかったが、先行する『中央公論』との差異化戦略として、より急進的な論文を積極的に採用した。『中央公論』の「労働号」(同年八月号)の成功により、『改造』は左翼バネを使って部数を急上昇させた。

(出典:佐藤卓己(たくみ)『『キング』の時代—国民大衆雑誌の公共性』岩波現代文庫、2020年、76頁)

資料 新聞の発行部数の推移


 日本では1930年に日刊新聞の発行部数が1000万部をこえたと推計される。
 新聞各社は速報性を競い合い、遠く離れたヨーロッパの戦場の話題も、短期間でニュース記事となった。
 1920年代以降には、総合雑誌が知識人にも読まれるようになり、『中央公論』『改造』では時事評論や文芸評論の場となり、しばしば知識人や作家による座談会などの特集が組まれた。一方、発行部数100万部を突破した『キング』(1924年刊行)のような大衆娯楽雑誌や、芸術を特権階級から大衆に開放しようとした円本など、大衆を読者層とするメディアも生まれた。

資料 『改造』創刊号(1919年)

パブリック・コモンズ、https://ja.wikipedia.org/wiki/改造_(雑誌)#/media/ファイル:Kaizō_first_issue.jpg

資料 山本実彦(改造社社長)による随筆「十五年」(抄)
 (前略)雑誌『改造』が品川浅間台の一角で呱々の声を挙げたのは、ちょうど、欧州大戦が片づいた大正八年の桜花ほほ笑む四月で、我が国は社会運動や労働運動に漸く目が開けそめたときであった。
 何でも、八時間労働制や、労働組合公認問題が興味がひかれるときで、政治的デモクラシーの声が民衆的に飽きあきされて来つつあったときだ
。福田、河上氏らが論壇に大きく崛起して、社会主義的論調が活発溌地にインテリ層に潮の如く浸り込んで行くときで、当時『中央公論』は吉野氏を主盟としておったが、我が誌には新鋭山川〔注:山川均〕、賀川君〔注:賀川豊彦〕らがつぎつぎに執筆しておった。また『改造』より二カ月遅れて生誕した『解放』には福田、堺両氏及び帝大新人会の一派が相拠っていたが、このうち福田氏は約一年ののち、『改造』に専ら執筆するようになり、十数年間博大の筆陣を布いて一世の注目を惹いていたのであった。このほか、河上肇氏は個人雑誌『社会問題研究』によって、社会思潮に鮮鋭な解釈と批判とを下だしており、それが学生連の人気となって何でも二万部ぐらいを一時は発行していたという。
 この頃からジャーナリズムに断然たる特殊性が現われて来た。社会思想の根拠のないものはだんだん指導性を失って来た。雑誌『改造』がそれらにたいし鋭き批判を下だすと、刺激と感激とが極端に起こってきた。あるものは我が誌を蛇蝎の如く排忌するものもあれば、一面には一方の救世主の如く感激するものもあった。しかし、そのどちらもわれわれの意図を誤解していた。我が誌は決して啓蒙運動の境を出でなかった。批判的境地を厳守した。全面的に我が国の方向を誤らしてはならぬ。世界にいわれなく孤立してはならぬ。こうしたモットーの前に進んで来たのであった。
 だが、世界の一角に発生、展開を示しつつあるソ連の諸機構はひいて我が国に重要の影響力あるべきを思い、そしてなまなかそれが秘密秘密で蓋を掩いかぶされていては、却って我が国の方途に不測の禍害のもたらさるべきであろうことを思ったので、ソ連の諸機構、諸現象には、批判を加えることを常に怠らなかった
 時代の新しい潮波はだんだん飛躍し、労働組合は公認され、巷には労働運動の英雄が出現するに至った。神戸の貧民窟から賀川豊彦君が颯爽として社会の正面に躍り出た。彼の『死線を越えて』の一著の感激はたいしたものであった。彼の行くところ、青年子女蝟集してその手を握るを光栄とした。彼の声音に接するを誉れとした。支配階級の錦繍綾羅にふれるより、この一青年のボロ服にさわって見るのを喜ぶ奇現象を生んだ。大正八年――十年までの我が思想的激変は、たしかに画期的であった。この一著は高名な芸術家からはあまり顧みられなかったが、出版史上に我が国で予想だにすることのできなかった数十万部がプロやインテリの汗手に購われた。それのみならず、この著はほとんど世界各国語にも翻訳された。
 何でもかでも古い伝統を打破しようとする時代であった。クロポトキンから新マルサス主義、ギルド、レニン、リッケルト、フッサールなど目まぐるしいまで変わった学説が歓迎される。森戸君が大正八年クロポトキン事件に坐して大学を逐われてから、思想的厄難がつぎつぎに起こって来た。
 越えて大正十年一月から思想界の第一人者バートランド・ラッセルが我が『改造』に執筆したときは、異常のセンセーションを惹起した。また同年七月彼が来朝したときの如き、神戸埠頭には全神戸の労働者四、五万が出迎うるの謀議が熟していたのを、そうしては、いろいろ面白からぬ現象の到来を予想して、官憲の許すところとならなかったが、それでも岸壁はものすごいまでの人の山であった。(後略)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001368/files/49437_34957.html



資料 『キング』創刊号の表紙(1925年)

パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/キング_(雑誌)#/media/ファイル:キング192501.jpg

大衆向けの総合雑誌『キング』は、1924年の創刊号が74万部を記録。昭和に入ると100万部を突破する。


 他方、活字を理解せずとも楽しめるのが、ラジオ放送などの音声メディアである。アメリカでは1920年に民間ラジオ放送局が開局され、日本では1925年に字開始された。1931年には聴取者が100万人を突破。日中戦争の勃発後には、ラジオのニュース番組が、戦況を伝える格好のメディアとなった。


史料 ラジオ放送に関する論評

ラヂオ文明とわれわれが呼びなすべきところの時代きた。それは一つの革命である。一つの世界革命である。今日、われわれの眼前において展開されているところの世界の変動は、言葉のいかなる誇張もなくしていいえられるところの、一つの世界革命である。レーニンの世界革命が失敗に終ってから、一つの更に大なる、そしてより根本的なる世界革命がきたのである。[…] 

 有線は個人的である。無線は集団的である。前者は個人主義を代表し、後者はコレクチビズム[集産主義]を代表する。前者は相互的である。後者は命令的である。前者は自由である。後者は独裁である。[…]

 大衆を聴き手としてここに少数の語り手がある。少数のもの、そして同時にはただ一人のものが語り、そして彼以外の万人が耳を傾けるのである。そしてまたラヂオの発達とともにしばしば一人のものが語りて世界の他の凡てのものが耳を傾けることさへも想像されるのである。ナポレオンと雖もその号令の及ぶところは数十万の兵士であつたのに対して、ラヂオ放送局の壇上に立つものはいまや世界を彼の聴手として立つことが可能なのである。Eliteの時代がきたのである。少数の選まれたるものが笛吹き、民衆の駄馬が踊るのである。

(出典:室伏高信「ラヂオ文明の原理」、『改造』1925年7月号)太字は筆者による。



資料 ラジオ体操(「国民保健体操」)

 一見「純日本」的にも思えるラジオ体操は,意外にもアメリカで発案されたものをモデルにして, 1928年から始まった。1925年,アメリカのメト ロポリタン生命保険会社が,自社生命保険加入者の 健康増進・死亡率低下を目的に,ニューヨークにあ る自社ビルに放送スタジオを設置した。そこから三 つのラジオ局へ早朝20分の柔軟体操に相応しいピア ノ音楽を流すという番組を放送したところ,受信能な地域の全人口の20%にあたる40万人が体操を 実施し,当該地域の死亡率が下がったという好評を 得て広く普及した。そしてその噂を聞いた逓信省・ 簡易保険局(後の郵政省)が日本に導入したのであ る。それは生命保険加入者に健康で長生きしてもら い保険金の支払いを少なくし,死につきまとう暗い イメージを,明るく生き生きしたものに変えてゆこ うという広告戦略に基づくものであった。 逓信省・簡易保険局は1923年の時点で既にラジオ による体操指導に注目はしていたものの,国内にお けるラジオ放送の基盤が整っていない事から具体化 することはなかった。しかし当時の局の職員で,保 険事業に関する調査を目的として出張した猪熊貞治 と進藤誠一が,メトロポリタン生命保険会社を訪問 した際にラジオ体操に感銘を受け,1927年にラジオ 体操を日本に紹介し,実施を提案したのである。

(出典:権学俊「近代日本における身体の国民化と規律化」『立命館産業社会論集』53巻4号、2018年3月、http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=371228

 両氏がもたらしたラジオ体操の情報は局内に大きな インパクトを与え,保険事業にふさわしいものだと いう認識を定着させていく。 逓信省がアメリカの保険制度とラジオ体操に深い 関心を持ったのは主に二つの理由からである。ひと つは,第一次世界大戦後の保健衛生思想の拡大であ る。それはこの時期に結核予防法・トラホーム予防 法・健康保険法・伝染病予防法・学校伝染病予防規 程などの法律が次々改正された点からも容易に推察 できる。もうひとつは「国民の健康状態の改善」と いう保険事業に直接関連する「簡易保険制度」の存 在であった。簡易保険制度とは郵便局が扱う生命保 険を指すが,逓信省は国民の健康状態の向上を目指 し国力増進を図る中で,生命保険の導入による保険 思想の普及を狙って1916年より簡易保険事業を行っ ていた。 しかし,簡易保険事業の主たる対象は,新たに社 会階級として登場し始めた工場の労働者などを含む いわゆる低中所得者層である。当時彼らは医療を十 分に受けることができない層であり,簡易保険契約 数が増加していく中で,簡易保険に加入してい る階級の死亡率の高さは,保険制度の存続を揺るがしかねない大きな問題であった。さらに,逓信省は 低中所得者層に生命保険の理解を得ることは容易い ものではないと判断していたが,その簡易保険のさ らなる普及と健康増進のため起爆剤となるべく考案 されたのが「ラジオ体操」だったのである。こ うした経緯について『逓信事業史』は次のようにま とめている。

(引用はじめ)
簡易保険局に於ては生命保険の公共的性質と,そ の被保険者の大多数が所謂中産階級以下に属し且つ その健康状態が一般に不良なる事実に鑑み,その健 康の保持並びに増進に努むることが被保険者の幸福 を増進する上に於て肝要なるのみならず,一面に於 いて簡易保険事業そのものの健全なる発達に資する 所以であり,同時に生命保険の公益的目的を達成す る所以であるとの見地から,事業創始の当初より被 保険者の健康維持並びに増進の為には特別な努力を 払ひ,健康相談所の設置,巡回健康相談の施行,保 健印刷物の頒布及び結核予防運動の助成等各方面に 亘って著しき活動を続け来つたのであるが,特に昭 和三年は国を挙げて祝福慶賀し奉るべき御大礼の記 念奉ると共に,この時期を画して,被保険者並びに 一般国民の健康状態改善を促し,その幸福を増進せ んとする奉仕的施設に就いて種々考究の結果,(一) 健康増進を目標とする家庭生活の改善に関する懸賞 論文を募集し,その当選論文を刊行し広く各家庭に 頒布して家庭生活の改善に資すると共に,(二)時 世の要求を洞察して国民保健体操を創始しこれが実 行を奨励し以て国民の元気作興の原動力たらしめん とする二大施設を実施したのである。

(引用終り)

つまり簡易保険はその加入者を増やすばかりでなく,被保険者の健康の保持増進もまた事業の重要な使命であった。こうした取り組みが結果として死亡者を減少させ,事業の収益性を改善し,保険事業の発展にも繋がるといえ,逓信省は単なる生命保険事業に留まらず,健康増進,病気予防のための啓蒙活動にも重点を置いていた事が伺える。

(出典:権学俊「近代日本における身体の国民化と規律化」『立命館産業社会論集』53巻4号、2018年3月、http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=371228)

Q. ラジオ体操は、どのような目的から始められたものだったのだろうか?




 戦況の情報は、しばしばその真偽が問題となる。スクープ合戦により、先走った報道が誤報を生むこともあった。いったん報道されると、その真偽は問われることなく、情報は一人歩きしがちである。こうした問題は、満州事変の際の「田中上奏文」や、太平洋戦争時のいわゆる大本営発表にも引き継がれることとなる。

 このように、マスメディアの発達は、都市において大衆の存在感が強まる社会、大衆社会の成立にとって重要な条件となった。マスメディアを通して伝わる情報に対して、内容の正否はともかく、大衆は自分以外の他者の反応に同調する姿勢をとることが多い。このような特性について、スペインのオルテガ・イ・ガセットは次のように述べる。

資料 オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』
それが良いことか悪いことかはともかく、現在のヨーロッパ社会には一つの重大な事実がある。それは、大衆が完全に社会的権力の全面に躍り出たことである。大衆はその定義から見て、自分の存在を律すべきではなく、またそもそも律することもできず、ましてや社会を統治することもできないのだ。この事実は、ヨーロッパが今や、民族、国民、文化として被り得る最大の危機に見舞われていることを意味している。これは、歴史上何度も起こったことであり、その相貌をもたらす結果についてはすでに知られている。すなわち「大衆の反逆」と呼ばれるものである。
(中略)
大衆とはあくまで「平均的な人たち」のことを言う。そう考えると、単に量にすぎなかったもの、つまり群衆が、質的な規定に変化する。大衆とは、多くの人に共通する性質、つまり所有者を特定できない社会的な属性を指し、誰もが他の人間と同じく、自らの中で同じ一つの類型を繰り返すという意味での一般的な人間を表わすにすぎないのである。
(中略)
良しにつけ悪しきにつけ、大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。

(出典:オルテガ・イ・ガセット(佐々木孝・訳)『大衆の反逆』岩波文庫、2020年)

 すでに見てきたように、近代化によって、さまざまな負の要素がもたらされた。
 日本においては1930年ごろ、どのように近代化のもたらした弊害を解決していくかということをめぐり、これまでのように、政府とそれに対抗する人々といった単純な構図ではとらえきれない複雑な対立構造が生み出されていった。

■「生活の改善」

サブ・クエスチョン
大衆社会が成立すると、政府による国民の統治は、どのように変化したのだろうか?


 たとえば、総力戦や大衆化の時代に対応する形で、国家は国民に「生活の改善」を求めるようになっていく。
 都市人口が増加し、政治的な団体の動きが活発化する中、よりよい生活の実現に国民の注意を向けさせ、人々に「国民」としてのまとまりを意識させようとしたのだ。

 その動きは日本では、第一次世界大戦と米騒動の時期に、「生活改善運動」として現れた。
 「現状の家庭生活には、このような問題がある」「家庭における課題は、女性が中心となった合理的・科学的に解決されるべきだ」とされ、私生活領域を改善することが、よりよい国家の基礎になるという考え方に基づいていた。

資料 教化運動と生活改善
 (前略)〔第一次世界大戦と米騒動の時期には〕教化運動も展開され、人びとを政府や市町村と協調的・調和的な運動に誘導しようとする。そのひとつ、内務省の民力涵養運動は、1919年3月に開始され、床次竹二郎とこなみたけじろう内相は、「国体」の観念とともに「立憲の思想」を強調し、「健全なる国家観念」とあわせて「自治」「公共心」の育成といい、伝統性と近代性を混在させている。だが、実戦の項目となると、後者の合理性にもっぱら力点がおかれた。「勤労の趣味」を助長し、「貯蓄の奨励」「時間を確守する方法」「能率増進の方法」、また「衣食住の改良」による「簡易生活」や「冠婚葬祭送迎」「娯楽」の改良が唱えられる(…)。国家により私生活領域の合理的改善が図られ、近代的な生活を営む「国民」の育成が促される。
 文部省による「生活改善」も同様の試みである。1919年に新設された文部省普通学務局により、住宅、服装、社交儀礼、食事の改善がいわれ、生活改善展覧会(1919年11月〜20年2月)が開催された。また、これをきっかけに、1920年1月に生活改善同盟が結成される。同盟会は、新中間層の家族の出現に即応し、女性に焦点をあわせ、生活合理化を通じて、国家の基礎である家庭の改善・生活改善を狙うが、「民力涵養」も「生活改善」も私生活の領域を公共化し、主体性を通じての動員を図る。

(出典:成田龍一『大正デモクラシー』岩波新書、2007年、96-97頁)

資料 主婦たちが身につけるべき知識を示した消費経済展覧会の展示品(1922年)
飲食物ーー内外米の消費比較図、東京市の水道、肉類の一人一日消費分量調査、調理及び食事の無駄、火の加減と料理法、主食副食調味品比価増減表、献立例・予算例、人体に及ぼす酒害、嗜好調査表
衣類装身具——衣服地の節約と国民経済、和洋服着用時間の比較、国民一人に対する平均衣服数、改良服裁方、履物の生産消費額
住宅家具——既製日本住宅の改造、郊外住宅設計図、木炭の多少と其の消費量、各種燃料代金比較図表、電力節約のための考案電燈器具、薪と炭を瓦斯に改むれば
社交儀礼能率増進及産業状態——時間の利用、各階級生活費比較、東京市に於いて消費する日用品は何製から来るか、贈答に関する日米比較、節約と貯金、六大都市公設市場相場比較、派出婦需要概況、信用組合、販売組合、利用組合、

(出典:小山静子「近代家族の形成と生活改善問題」『女性学研究』1997年、第5号、2-13頁http://doi.org/10.24729/00004992より重引。文部省『消費と経済』南光社、1922年、3-15頁)

Q. 生活改善運動のなかで、当時の女性(主婦)たちには、どのような知識を身につけることが期待されたのだろうか?

 なお、労働者の日常は、1920年代にはじまった国勢調査(第一回国勢調査は1920年10月1日)によっても、世帯単位で把握されるようになり、国家による統治政策の参考にされていった。





 アメリカ合衆国ではテーラー・システムとよばれる科学的管理法が注目されていたが、管理のしすぎによってかえって労働者の生産性を下げるのではとの批判もあった。そこで、心理学や生理学も生かしながら、労働者がいかに健康に働くことができるか研究されるようにもなった。国家によって収集されたデータは社会保障のために用いられたが、その一方で、1930年代には大衆を管理されるために使われるようにもなっていった。

 
 なお時代はくだるが、1934年には中国では蒋介石が衛生改善などをめざす新生活運動を推進した(段瑞聡「蒋介石の国家建設理念と新生活運動—1935〜37年」『法學研究』Vol.75, No.1、2002年、261-288頁を参照)。

 また、朝鮮では朝鮮総督府が朝鮮の知識人と関わりつつ生活改善運動をおこなっている。なお、国勢調査は、南洋群島含め各植民地でも実施されている。


 このように、第一次世界大戦後と米騒動を経て、1925年には普通選挙制が制定されると、男性による政治参加の裾野がひろがった(第一回男子普通選挙は1928年2月20日。投票率は80.36%だった)。


資料 立憲政友会編『政治講座 続編』1928年 高橋熊次郎による「弁論術」

(出典:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1026471、109頁以下)



 政府はマスメディアなどの新たな方法を用いて、より主体的・協調的に自ら統治に参加しようとする国民を統合しようとしていった。人々の側も、いたずらに政府に対抗するばかりでなく、政府や官僚などに接近し、その政策を補う動きを見せるようになる。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊