■メディアの技術革新
19世紀に至るまで、メディアといえば、文字を用いて情報を伝える媒体を指した。
しかし、19世紀には外界の像を記録する写真、さらに映像を記録する映画、さらに音声を記録する電話が発明された。
最初の写真は1827年にニエプスによって撮影された(下記動画、33’30”)。
最初の映画は、1895年12月にパリのレストランで工業化リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフとされる。
だが、同時期に欧米諸国で同じような装置が発明されていた。たとえば1893年にはアメリカ合衆国のエディソンがキネトスコープという、各人が覗き込んでみる装置を発明している。
最初の有線電信は1837年にモールスが発明した。その後、電話はアメリカ合衆国のベルによって1876年に発明された。
このように、19世紀に印刷技術による文字メディアに代わって、写真や映像メディアが発明されたことにより、人間がみずから文字情報を記録するのではなく、記録するための機器によって文字以外の情報を記録することができるようになった。このことは人々のコミュニケーションや感性にも影響を与えた。
また、電話や電信技術(有線電信、無線電信)によって、遠く離れた場所を、音声情報や文字情報が飛び交う時代が到来した。
■マスメディアの発達
18世紀には、ヨーロッパで近代小説や新聞が生まれ、それらを多くの読者に届ける出版企業が発達した。そのことが「国民」を単位とする政治的な共同体(「想像の共同体」)を形成するきっかけになったと、歴史社会学者ベネディクト・アンダーソンは論じている。
19世紀に登場した映画は、戦場にも設置され、その模様は国民に戦果を伝え、国民的結束を強める媒体として機能するようになった。
資料 欧米における映画
これまで見てきたように、欧米の国民国家は1870年代ころから帝国主義的な政策に転化し、アジア、アフリカの植民地化を進めた。それに呼応する形でドイツや日本といった後発の工業化を進める国々では、憲法と議会を設け、国民の一部に選挙権を付与し、国民としての意識を高める政策がとられていった。
国民の教育水準が向上すると、活字メディアも発達した。20世紀前半には、欧米、日本、中国で輪転機が普及し、一般大衆向けの総合新聞が発行部数を拡大した。
資料 小学校と中学校以上の在籍者数
資料 新聞の発行部数の推移
日本では1930年に日刊新聞の発行部数が1000万部をこえたと推計される。
新聞各社は速報性を競い合い、遠く離れたヨーロッパの戦場の話題も、短期間でニュース記事となった。
1920年代以降には、総合雑誌が知識人にも読まれるようになり、『中央公論』『改造』では時事評論や文芸評論の場となり、しばしば知識人や作家による座談会などの特集が組まれた。一方、発行部数100万部を突破した『キング』(1924年刊行)のような大衆娯楽雑誌や、芸術を特権階級から大衆に開放しようとした円本など、大衆を読者層とするメディアも生まれた。
資料 『改造』創刊号(1919年)
資料 『キング』創刊号の表紙(1925年)
他方、活字を理解せずとも楽しめるのが、ラジオ放送などの音声メディアである。アメリカでは1920年に民間ラジオ放送局が開局され、日本では1925年に字開始された。1931年には聴取者が100万人を突破。日中戦争の勃発後には、ラジオのニュース番組が、戦況を伝える格好のメディアとなった。
資料 ラジオ体操(「国民保健体操」)
Q. ラジオ体操は、どのような目的から始められたものだったのだろうか?
戦況の情報は、しばしばその真偽が問題となる。スクープ合戦により、先走った報道が誤報を生むこともあった。いったん報道されると、その真偽は問われることなく、情報は一人歩きしがちである。こうした問題は、満州事変の際の「田中上奏文」や、太平洋戦争時のいわゆる大本営発表にも引き継がれることとなる。
このように、マスメディアの発達は、都市において大衆の存在感が強まる社会、大衆社会の成立にとって重要な条件となった。マスメディアを通して伝わる情報に対して、内容の正否はともかく、大衆は自分以外の他者の反応に同調する姿勢をとることが多い。このような特性について、スペインのオルテガ・イ・ガセットは次のように述べる。
すでに見てきたように、近代化によって、さまざまな負の要素がもたらされた。
日本においては1930年ごろ、どのように近代化のもたらした弊害を解決していくかということをめぐり、これまでのように、政府とそれに対抗する人々といった単純な構図ではとらえきれない複雑な対立構造が生み出されていった。
■「生活の改善」
たとえば、総力戦や大衆化の時代に対応する形で、国家は国民に「生活の改善」を求めるようになっていく。
都市人口が増加し、政治的な団体の動きが活発化する中、よりよい生活の実現に国民の注意を向けさせ、人々に「国民」としてのまとまりを意識させようとしたのだ。
その動きは日本では、第一次世界大戦と米騒動の時期に、「生活改善運動」として現れた。
「現状の家庭生活には、このような問題がある」「家庭における課題は、女性が中心となった合理的・科学的に解決されるべきだ」とされ、私生活領域を改善することが、よりよい国家の基礎になるという考え方に基づいていた。
なお、労働者の日常は、1920年代にはじまった国勢調査(第一回国勢調査は1920年10月1日)によっても、世帯単位で把握されるようになり、国家による統治政策の参考にされていった。
アメリカ合衆国ではテーラー・システムとよばれる科学的管理法が注目されていたが、管理のしすぎによってかえって労働者の生産性を下げるのではとの批判もあった。そこで、心理学や生理学も生かしながら、労働者がいかに健康に働くことができるか研究されるようにもなった。国家によって収集されたデータは社会保障のために用いられたが、その一方で、1930年代には大衆を管理されるために使われるようにもなっていった。
なお時代はくだるが、1934年には中国では蒋介石が衛生改善などをめざす新生活運動を推進した(段瑞聡「蒋介石の国家建設理念と新生活運動—1935〜37年」『法學研究』Vol.75, No.1、2002年、261-288頁を参照)。
また、朝鮮では朝鮮総督府が朝鮮の知識人と関わりつつ生活改善運動をおこなっている。なお、国勢調査は、南洋群島含め各植民地でも実施されている。
このように、第一次世界大戦後と米騒動を経て、1925年には普通選挙制が制定されると、男性による政治参加の裾野がひろがった(第一回男子普通選挙は1928年2月20日。投票率は80.36%だった)。
資料 立憲政友会編『政治講座 続編』1928年 高橋熊次郎による「弁論術」
政府はマスメディアなどの新たな方法を用いて、より主体的・協調的に自ら統治に参加しようとする国民を統合しようとしていった。人々の側も、いたずらに政府に対抗するばかりでなく、政府や官僚などに接近し、その政策を補う動きを見せるようになる。