■立憲制の普及
憲法は、イギリス、フランス、アメリカ合衆国で、早くから制定、定着していった。19世紀後半にはイギリスで自由党・保守党による二大政党制が、選挙権の拡大とともに定着した。また、フランスでも1870年代に共和政の憲法が制定された(第三共和政)。
一方、たとえば19世紀後半に国家統一の進んだドイツでは、比較的君主権の強い憲法が制定された。
ドイツでこうした君主権の強い憲法が制定されたのは、イギリスやフランスなどの西欧諸国に早急に追いつくためには「上からの近代化」が必要と考えられたからであった。
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オスマン帝国のミドハト憲法
オスマン帝国では、対外情勢の緊迫した19世紀前半から、すでに近代国家の建設に向けた試行錯誤がおこなわれていた。
1876年に、法治国家であることを示す目的からミドハト憲法が発布され、欧米流の国民国家建設が目指された。
しかし、1876年にスルタンがロシアのとの戦争を口実に停止し、専制政治をおこなった。
憲法を停止したアブデュル=ハミト2世は、イスラーム主義(イスラームに基づく考え方)によって、オスマン帝国を立て直そうとしていた。
アブデュル=ハミト2世は、西欧の教育制度を導入するなど、西欧化を推進していなかったわけではない。
しかし、彼の力点は、憲法によって「国民」を創出することよりも、全世界のイスラーム教徒の連帯をつくる方針に置かれていた。
インドなどのムスリムから募金を募り、ヒジャーズ鉄道という巡礼鉄道の建設も提唱している。
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大日本帝国憲法
日本も、やはり法治国家としての体制を内外に示す必要から、欧米モデルをとりいれた憲法を制定しようとする動きが生まれた。1870年〜1880年代の日本では、欧米の思想を学んだ知識人や地方の人々も参加し、民主化を求める自由民権運動がおこり、民間の憲法案も多数発表された。
資料 植木枝盛「東洋大日本国国憲按」
自由民権運動に影響を与えたのは、中江兆民がジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を翻訳した『民約訳解』である。この著作は漢文であったため中国でも読まれ、欧米の概念が日本語訳を通して中国語に導入されることとなった。
新聞や雑誌による政府批判が強まる中、政府側は1875(明治8)年に讒謗律・新聞紙条例、1887(明治20)年には保安条例が公布され、言論弾圧が強まった。
資料 言論弾圧に対する風刺画(1888年)
結果的に、君主権のつよいプロイセン型憲法を採用することが決定され、1889年に大日本帝国憲法が制定された。
憲法制定に関わった伊藤博文は、1882年に、ヨーロッパに憲法調査のために派遣されている。
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中国での変法運動
中国でも、日清戦争に敗れた衝撃の中で、憲法を制定しようという運動が起きた。
康有為は、明治維新後の日本の情報を得て、これにならって上からの急激な改革を進めようとした。しかし同年中に、保守派のクーデタによって頓挫してしまった。
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憲法を導入に失敗した諸国は、近代に乗り遅れた野蛮な国?
このような “ストーリー” は、いろんなところで語られるお馴染みの型である。
でも、このような言説にたいしても、一度疑ってかかったほうがいい。
ある言説を「疑う」には、どうすればいいのだろうか?
いちばん手っ取り早いのは、その言説を成り立たせている暗黙の了解や前提が何なのか、考えてみることだ。
たとえば、この言説においては、「憲法」が導入されることは、しばしば国民国家の勃興や民主主義の理念の伸張と同一視される。
しかしである。
ヨーロッパにおいても、19世紀に憲法が導入された国は、国民国家ではなく帝国が多く、国民の権利も大きく制限されていることだって多かった。
歴史学者リンダ・コリーのいうように、「1950年の時点においてさえ、近代的な成文憲法が誕生してからすでに200年近い時が経過しているというのに、十分な民主主義政体であると一般に認められた主権国家は、わずか22カ国しかなかったのである」(下掲書、305頁)。
憲法が広がることで立派な国になれる、もっといえば、その憲法がアメリカやイギリスで導入された形に近ければ近いほど、その国は立派である。
上記の言説は、そのような価値観を尺度にして、アジア諸地域にあてはめようとしていないだろうか?
歴史学者リンダ・コリーは次のように述べている。
かつてベネディクト・アンダーソンは、出版資本主義が国民国家形成にはたした役割を論じた。
おそらくその議論を踏まえ、コリーは憲法こそが「できれば「単一の」正当化と管理のためのテキスト」を欲した国家や政体によって支持され、「識字率や輸送手段、郵便制度、社会的流動性、移民、そしてなにより印刷技術が、各地でこれまでになく急速に発達しつつあった世界に、見事に適合した」と指摘する(上掲、307頁)。
いったんテキスト化されたデータは、文字の読める人のみならず、読めない人にも広がっていく。読める人が、読めない人に向かって読み聞かせすることが可能になるからだ。
さらに各国で制定された憲法は、相互に参照され、別の国や政体の憲法に植え付けられていった。「起草する人たちはしばしば、コスモポリタンな剽窃者」となったのである。
維新期の日本の政策担当者は、イギリスのインドの植民地支配における法制度を参考にして地租改正を制度化したのも、これに類する事例だ。国や植民地を超え、テクストが国や大陸をまたぐようになったのには、交通インフラのグローバル化が背景にある。外交ルートや移民ネットワークを通して、短期間のうちに外国の情報が交換され、出身国の動向を左右する時代となったのだ。
そして何よりも重要な事実は、19世紀の多くの帝国が、国内外の人々の権利を制限する一方で、成文憲法の制定にきわめて熱心であったという事実である。
「憲法は国家権力を制限するためのものである」という前提に立ってみれば、これは奇妙なことである。
しかし、その前提そのものが間違っていたとしたら?
憲法が、支配のための道具として利用されていたのだとしたら?(たとえば1951年までにイギリス連邦内の70にものぼる別々の憲法は、イギリス国内でつくられているし、女性や先住民など、権利付与の対象外となる人々も着々と明記されていった)