7.1.2 明初の政治 世界史の教科書を最初から最後まで
モンゴル人を追い払って南京(なんきん)に都を置いた明の洪武帝(こうぶてい)は、社会の混乱を収めつつ支配を固めるため、国内の引き締めと国外勢力の排除に乗り出した。
国内の支配強化
第一に、皇帝のもとに権力を集中させるため、いうことを聞かない中書省(ちゅうしょしょう)をとりつぶし、そのトップ(丞相(じょうしょう))も廃止した。
そうすれば、権力を行使する役人組織(六部(りくぶ))を直接コントロールすることができるからだ(六部の直轄化)。
逆にいうと、このときまで中国の皇帝は、国内の政治を完全にコントロールすることができなかったということなんだよね。
第二に、国内の“裏切りもの”や反乱軍の残党をしらみつぶしにし、税金をきっちりとるため農村の隅々までコントロールを及ぼそうとした。
全国的な人口調査をおこない、どこにどんな人がいて、何をしている人なのか調べ上げ、課税の台帳(賦役黄冊(ふえきこうさつ。表紙が黄色だったことから))や、
土地の台帳(魚鱗図冊(土地の地図が魚のウロコ🐠に見えたから))をつくらせた。
そして、110戸を1くくりにした1里(り)ごとにおさめさせ、財力のある10戸(里長戸)を責任者とした。
残りの100戸(甲首戸(こうしゅこ))は、10グループ(甲)に分けられ、10年に1回のローテーションで、里の税金徴収や自警団にあたらせる仕組みだ。
里(り)の中で、誰もがうなずくような立派な人物は「里老人」(りろうじん)に任命された。
里老人には、悪いことをした人の裁判(犯罪の有無の判断と、処刑)を担当させるとともに、明の支配に都合のいい“6つの道徳”(六諭(りくゆ))にもとづく教育を担当させたのだ。この“6つの道徳”の内容は次のようなもの。
一、お父さんお母さんの いうことを ききなさい
二、目上の人を リスペクトしなさい
三、ふるさと みんな 仲良くしなさい
四、子どもたちを しつけなさい
五、自分の仕事に 文句をいっては いけません
六、人間として やっちゃいけないことは やっちゃだめ
「父母に孝順であれ」「長上を尊敬せよ」「郷里に和睦せよ」「子孫を教訓せよ」「おのおのの生業に安んぜよ」「非違をなすことなかれ」
里老人には、この6箇条を月に6回となえる仕事が課されたよ。
このように、地方の村々については、直接役人を派遣するわけではなく、地方の有力者にある程度権限を与える形での支配を目指したのだ。
さらに洪武帝はかつての大国である唐の律・令をモデルに、明の律令(りつれい;りつりょう)を制定。
これを明律・明令という。
また国家公認の考え方として、宋の時代に従来の儒教への“カウンター”として誕生していた「新儒教」(朱子学)を、新たに国の学問として採用することにした。
国外勢力の排除
軍の兵士は、すべての農民から一律でとることはせず、農作業を担当する農民(民戸(みんこ))と、兵士として戦う農民(軍戸(ぐんこ))に区別した。
そして軍戸は、モンゴル人の千戸制を参考に、112人=「100戸所」、100戸所×10=「1000戸所」、1000戸所×5=「1衛」という10進法に基づく整然としたユニットに編成された。
これを衛所制(えいしょせい)という。
専門的で機動力のある軍をつくり、モンゴル人にそなえようとしたんだね。
明にとっての敵は、北方の遊牧民と、南方の沿岸で活動する海賊たち。
北方ではモンゴル人が攻め込むのを阻止するため、皇帝は自分の息子たちを「王」に任命し、防備にあたらせた。
南方では、敵対勢力が海外貿易によって力をつけるのを防ぐため、民間人による貿易は禁止。
貿易は、周辺諸国が中国皇帝に貢ぎ物を授ける代わりに“お返し”として商品を得る「朝貢貿易」(ちょうこうぼうえき)に一本化される。
こうした洪武帝の厳しい施策は、建国期の混乱収拾には役立った。
しかし、彼を継いだ第二代建文帝(ジェンウェンディ;けんぶんてい、在位1398〜1402年)のとき、北方の「王」たちの利権を奪おうとしたため、現在の北京(当時は北平(ベイビン;ほくへい)と呼ばれていた)を任されていた王の一人が皇帝に対して決起する。
その理由は、「皇帝は、周りにいる悪いやつらによって、おかしくなってしまっている。悪い奴らを取り除くため、兵を挙げざるを得ない!」(君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる)というもの。
このスローガンの一部をとって、靖難の役(ジンナン;せいなんのえき、1399〜1402年)というよ。
結果、皇帝をたおし、みずから皇帝に即位した永楽帝(えいらくてい、在位1402〜24年)は、首都を南京から北京に移動。
壮大な王宮である紫禁城(しきんじょう)の造営を開始した。
モンゴル(タタール)にはみずから先頭に立ち5回も遠征、さらにベトナムを一時占領した。
鄭和の南海遠征 (下西洋)
そんな永楽帝の政策としてもっとも重要なのは、南海遠征(下西洋)。
イスラーム教徒の役人に命じて、東南アジア、インド、西アジア、果てはアフリカ東海岸にまで300隻の大艦隊を派遣し、「中国の皇帝に朝貢しませんか?」と揺さぶりをかけたのだ。
日本でいうと、ペリーの“黒船”のようなものだね。
この艦隊長官に任命されたのは、鄭和(ヂォン4フー2;ていわ、1371〜1434年頃)という大男。宦官(かんがん)でもある。
合計7回も海に派遣され、
現在の沖縄に成立した琉球王国(りゅうきゅうおうこく)や、
マレー半島南西部のマラッカ王国のように、
鄭和の派遣に刺激され、明のバックアップを受ける形で繁栄した国も出現。
インド洋周辺の貿易は “一大ブーム”(第一次大交易時代)を迎えることとなるよ。
ちなみに5回目の航海のとき、鄭和が東アフリカから連れてきたのは「キリン」だ。
中国人にとっては“未知の生命体”であったキリンは、中国の伝説上の動物「麒麟」(チーリン;きりん)なんじゃないかという話に。
平和で穏やかな時代にしか現れないとされる「麒麟」の登場に、皇帝はご満悦だったことだろう。
この鄭和の南海遠征は、21世紀に入り急成長する中国が「ユーラシア大陸をつなぐ海のシルクロード」を“復活”させるための政策(一帯一路(いったいいちろ))を推進する上で、重要視されるようになった出来事でもある。
中国の練習艦の名前にも、その名が使われているくらいだ。
また、その後中国系の人々が移り住むことになる東南アジア各地には、鄭和を記念するスポットも残されている。
鄭和の南海遠征が、さまざまなインパクトをもたらしたことがわかるよね。
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