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4.1.3 イスラーム帝国の形成 世界史の教科書を最初から最後まで

遊牧民のアラブ人のはじめたイスラーム教徒の共同体は、ムハンマドの死後に性質が一変。

ウマイヤ家がカリフ(ムハンマドの代理人)の位を代々継ぐようになり、ウマイヤ家の国は、遊牧民だけでなく農耕民も含めた広い世界を行政組織によってがっちりと支配するようになる。

しかしウマイヤ朝の支配する「イスラーム世界」には、名前と矛盾する実態が隠されていた。

本来、神に服するイスラーム教徒はみな平等なはずなのに、税金の制度はアラブ人優遇で、アラブ人以外の民族には不利な状況だったのだ。

やがてこれに対しアラブ人以外の信者からブーイングが出る。
すると、そこにカリフの位をめぐるクライシュ族内部の争いや、スンナ派のウマイヤ朝による支配に批判的なシーア派の運動が重なって、ウマイヤ朝の打倒運動へと発展した。

挙兵を指導したのは、ムハンマドの叔父さんの子孫にあたるアッバース家だ。

このアッバース家の革命運動は成功し、750年にアッバース朝が成立する。

第2代カリフに即位したマンスールは、豊かなティグリス川流域のバグダードに遷都。

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この都市は、かつて古代オリエントの文明の中心地であったバビロンから、約100km北方に位置する(ちなみにバビロンは2003年のイラク戦争で混乱したイラクの復興を後押しするように、2019年には世界遺産に登録された)。


バグダードにはまん丸の巨大な城壁が建設され、ティグリス川から伸びた運河が張り巡らされた。中心には巨大なモスクや王宮(黄金門宮)が建てられた。

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城門からは、四方に幹線道路が建設され、世界各地から商人が集まり、空前の繁栄を遂げることになったよ。

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アッバース朝はウマイヤ朝よりもさらに領土を広げ、シル川を東に超えたところにあるタラス川のほとりで、なんと唐軍と戦い勝利(タラス河畔の戦い)。

当時の唐は安史の乱(755~763)の直前ということもあって、大変な状況だったんだよね。

軍はそれ以上東に進めなかったけれど、このときに唐から「紙職人」を捕虜としてゲット。これが一般的には「中国式の「製紙法」が、ユーラシア大陸の西方に伝わった最初の例」だということになっているよ。


アッバース朝は、ちょうどその頃の唐がそうであったように、さまざまな面で歴史あるイラン人の影響を強く受けた。

イスラーム教徒に改宗をしたイラン人は、その高い文書実務能力を買われ、官僚(カーティブ)として重要な要職にも抜擢された。トップダウンの中央集権的な国づくりが進んでいったんだ。

そんな中、しだいに宗教による税や権利の差別もなくなり、アラブ人だからといってひいきするのではなく、イスラーム教徒であれば誰でも平等な支配が達成されるようになる。

どんな民族であっても、イスラームの教えに基づいた法(シャリーア)によって支配されるようになったことから、アラブびいきのウマイヤ朝を「アラブ帝国」とするに対し、アッバース朝のことを「イスラーム帝国」と呼ぶこともあるよ。

なお、シャリーア(法)と聖典『クルアーン』(コーラン)との整合性を取る役目を果たしたのが、学者(ウラマー)だ。

イスラーム教では「神の下に信者は平等」という理念を重視するため、聖職者が存在しない。そこで教義の解釈などの専門分野を担当するのは、学者の仕事とされたんだ。

『クルアーン』だけでは根拠が足りない場合には、ムハンマドの言行を伝える伝承(ハディース)が参照された。ハディースを集める作業は、のちに『諸使徒と諸王の歴史』をまとめたタバリー(838~923)のような人物によって歴史学として発展していくよ。

高名なウラマーは尊敬を集め、各地のモスクで指導的な立場に立ったり、多くの弟子をとったりと大忙しだったようだ。


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