11.2.2 ロシアの改革 世界史の教科書を最初から最後まで
皇帝が国民の意見を吸い上げることなく政治をしていたロシアでは、農民たちも領主ががんじがらめに支配する状態。
いまだに農奴制をひきずっていたのだ。
領主たちは農奴制によって収穫させた生産物を輸出することで収益をあげていた。
典型的な出世コースは、ロシア皇帝の役人となったり軍人になったりすること。
父親の権威が絶対的なロシアの家族や社会の問題点は、ドストエフスキー(1821〜1881年)といった小説家によって問題視されるようにもなっていた。
クリミア戦争での大敗北を経験した皇帝アレクサンドル2世(在位1855〜81年)は、「ロシアが遅れている」ことを痛感。
産業社会をロシアにも成立させなければ、これからの時代は勝ち抜いていけないと考え、1861年に農奴解放令を出した。
お触れを聞く農奴たち
しかし解放された農民が土地を獲得するには、貴族領主から買い戻す必要があった。
しかも、買い戻した土地の多くは、農民ではなくミールと呼ばれる農村共同体に一括して引き渡されることが多かったのだ。
しかし、アレクサンドル2世の自由化に期待をもったポーランド人が1863〜64年に反乱を起こすと、皇帝は再び専制政治に逆戻り。
こうした状態を批判したのは、西ヨーロッパのような資本家(有産市民層)たちではなく、官僚を目指し高等教育を受けたエリートたちだった。
彼ら都市部の知識人階級のことをインテリゲンツィアという。
産業の発展が進んでいないロシアにあって彼らは、「農民に知識をつけさせ、目を覚まさせれば、農民たちの共同体(ミール)を基盤に平等な社会がつくれるはずだ」と考えた。
こうして“村おこし隊”となって都市から移り住んだ人々のスローガンは「ヴ=ナロード(人民の中へ)」。そこで彼らは人民主義者(ナロードニキ)と呼ばれた。
でも、小難しいことをいう都市のエリート坊ちゃんの言うことを、ミールの村人が「うんうん」と聞くはずはない。
政府からの弾圧によって運動は壊滅。
ナロードニキ崩れとなった人々からは、「暴力で社会を変えるしかない」と考えるグループも現れた。
その一団からは、アレクサンドル2世はじめ政府高官の暗殺に手を染める者も出たんだよ。
このように、クリミア戦争後のロシアは、政治的に見ると「自由化が挫折した時代」と見ることができる。