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4.4.1 イスラーム文明の発展 世界史の教科書を最初から最後まで

イスラーム教徒の広がっていったのは、
古代オリエント文明以降、

ギリシャ人の文明、

アレクサンドロス大王以降のヘレニズムの文化、

ローマ人の文明など、

イラン人の文明など、

さまざまな文化が”ミルフィーユ”のように積み重なってきたエリアだ。

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「イスラーム文明」とは、こうした多様な文化の”ごった煮“のように溶け合った文明(融合文明)にほかならない。

それは、アラブ人のアラビア語による文化を”タテ糸“にして、各地の人々のさまざまな文化が”ヨコ糸“として織り込まれるようなイメージ。

あでやかな布のように、ひとつの民族を超えた普遍的(反対の言葉は特殊な文明が育っていったんだ。

資料  そもそも、イスラーム世界を「イスラーム教の世界」と考えることはできない。イスラーム世界 を簡単に定義するならば、「イスラームの文化的ヘゲモニーが成立している時空間」ということに なる。宗教的に言えば、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝がそうであったように、人口的に はムスリムがごく少数である場合もありうる。イスラームの文化的なヘゲモニーが確立していると いうことは、イスラームが提供する世界観を基盤とする価値体系や文化的・科学的なパラダイムが 優勢である、と言ってもよい。イスラーム世界そのものは、イスラームの文化的ヘゲモニーを基盤 として多宗教が共存する世界であったから、科学の担い手を含めて、社会的なアクターはさまざま な宗教に属していた。特に、科学の分野では、初期のムスリムたちは、自分たちの征服した地の先 進的な文明から学ぶ側にあったから、科学の担い手たちは、むしろムスリムでないことが普通であっ た。  たとえば、ギリシア科学をアラビア語に移入した「翻訳の巨人」であるフナイン・イブン・イス ハーク(877 年没)は、ネストリウス派のキリスト教徒であった(ネストリウス派は、キリスト 教世界では異端とされ、西アジアで生き延び、中国に渡っては景教と呼ばれた)。ギリシアの天文学、 数学、医学の導入に多大の貢献をしたサービト・イブン・クッラ(901 年没)は、サービア教徒であっ た。さらに付言すれば、バグダードで活躍した哲学者キンディー(866 年頃没)は、「非アラブ系 学者が大多数を占めるなかで生粋のアラブ人であったことから、『アラブ人の哲学者』と呼ばれる」 [小林 2002]。キンディーは西暦 801 年頃に生まれたから、イスラーム共同体が成立した 622 年か ら彼の活躍する頃までの2世紀ほどは、ギリシアの諸科学を身につけていた主要な学者はみな非ア ラブ人であったことになる。非アラブ人のムスリムか、非アラブかつ非ムスリムの科学者たちがイ スラーム王朝の統治下で、さまざまな科学的活動に従事していたのである。  ムハンマドが預言者として確立したイスラーム共同体/国家は、マディーナを首都としてアラビ ア半島を史上初めて統一した。宗教・文化・政治においてイスラームがムハンマド時代に確立した ことは疑いを入れないが、文明ということを考えるならば、アラビア半島だけにあった時代のイス ラームは、未だ文明にはなっていなかった。7世紀後半に古代オリエントの地を征服し、メソポタ ミア文明、ペルシア文明、ビザンツ文明、エジプト文明などの地を支配下におさめてから、文明化 の作用は生じた。

小杉泰「イスラーム世界における文理融合論 : 「宗教と科学」の関係をめぐる考察」、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/70887/1/11kosugi.pdf


みんなの知恵を合わせたほうが学問も技術も発展する


イスラーム文明が絶頂を極めていたころ、地中海を超えたヨーロッパの地域は「中世」(ミーディイーヴァル)と呼ばれる時期にあたる。

皇帝・国王やキリスト教会の権威が絶対だったヨーロッパでは、イスラーム教徒との交流を”オープン“にしづらい状況にあったんだ。

しかしながら11〜13世紀(今から1100年〜800年ほど前)になると、いくつかの場所でイスラーム文明の先進性に気づく人々が現れる。

スペインのトレドや、



地中海に浮かぶシチリア島のパレルモを舞台に、


イスラーム教徒がアラビア語に翻訳していた古代ギリシアの文献を、ラテン語に翻訳し直す運動が始まったんだ。



キリスト教の”神“中心の信仰にどっぷりとつかっていたヨーロッパの人々は、古代ギリシアの”人間中心“の合理的な考え方に衝撃を覚えた。
特に大きな影響を与えたのは、アリストテレスの哲学だ。

その緻密な論理は、「信仰をあざむこうとする"危険思想"」ととらえられかねないものでもあった。

しかし、イスラームの神学者ガザーリー(1058~1111年)が、古代ギリシアのアリストテレス哲学を応用して、理性と信仰のバランスをとった神学を打ち立てていったように、キリスト教の神学者の中でも教義を緻密に組み立てようとする際にアリストテレス哲学を利用しようとする試みも起きていく。

イスラーム世界の文献にみえみえる教授するアリストテレス
(大英博物館蔵。パブリック・ドメイン、https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e7/Arabic_aristotle.jpg)





それは神学者の中に激しい議論(普遍論争)をもたらしたけれど、その中から多くの新しい物の見方や考え方が生まれていったんだ。



イスラーム教徒に触発された、ヨーロッパにおけるギリシア文化の”再発見”と”導入”の動きを、現在では「12世紀ルネサンス」と呼ぶことがある。

「ルネサンス」とは、ギリシア文化の”リバイバルヒット“のことを指す用語。ふつう「ルネサンス」というと、14世紀〜16世紀頃のヨーロッパで起きた”ギリシア文化リバイバルヒット“のことを指すんだけれど、20世紀に入ってから「12世紀にも同じような”リバイバルヒット“があったんだ」ということが研究によりわかったため、「12世紀ルネサンス」と呼ばれるようになったんだ。

史料 アラブの文学者ジャーヒズ『動物誌』(9世紀)
インドの書物はアラビア語に移され、ギリシア人の格言やペルシア人の礼儀作法もまた翻訳された。その結果、いっそう美しさを増した場合もあれば、途中で何一つ喪失しなかった場合もある。だが、アラブの叡智が翻訳されると、韻律という奇蹟は失われる。しかも、たとえ翻訳されたところで、その内容は、かつてアラブ以外の人々が、その生活や知性や叡智に関する書物のなかで言及しなかった事柄など何一つ存在しないのである。これらの書物は民族から民族へ、世紀から世紀へ、言語から言語へと受け継がれ、ついに我々の許に到達した。我々は、その書物を相続し研究する最期の者に相当する。書物は建築や詩歌以上に、過去の偉業を記録する上で永続性があると言って差し支えない。

歴史学研究会編『世界史史料2』岩波書店


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「キリスト教のヨーロッパで生まれた科学は...」とか「西洋のヨーロッパ文明は、東洋のアジア文明と比べて...」なんていう説明を見かけることがある。

けれども、のちのちヨーロッパで科学が発達していく背景には、イスラーム教徒たちが受け継いだ古代からの遺産や、実験・観察によって積み上げた業績があることを、忘れちゃいけないよ。

世界は、「西洋」("ヨーロッパ")と「東洋」("アジア")だけでできているわけじゃないからね。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊