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7.1.4 朝貢体制の動揺 世界史の教科書を最初から最後まで

明の皇帝は周辺諸国との朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)によって、ユーラシア大陸東部の秩序を固めようとした。

そのためには、陸・海の物流拠点・物流ルートをガッチリおさえることが大切だ。



中国には、圧倒的な経済力を背景に、陶磁器や絹織物のような魅力的な商品がたくさんある。


周辺諸国にとっても、“家来”の形をとって貢ぐからこそ得られる莫大な“リターン”も期待できたし、明にとっても周辺地域の安定を図ることができる。

「モンゴル」の時代に進められた「物流ルート」支配の重視が、明の時代にも脈々と受け継がれていることがわかるね。

出典:鶴見良行『マングローブの沼地で―東南アジア島嶼文化論』朝日新聞社、1984年、7-8頁



ポルトガル人がやって来た


しかし、16世紀になると事情は激変。

西のはるか彼方からポルトガル王国の艦隊が、インド洋に進出したのだ。

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彼らがほしがったのは、ヨーロッパではレアで高価だった香辛料(スパイス)だ。



そこで東南アジアでは、この香辛料の産地と積み出しをめぐって、スマトラ島のイスラーム教国のアチェ王国


ビルマのタウングー(トゥングー)(1531〜1752年)などが、互いに争う形になってしまう。



従来であれば、こういった揉め事が起きれば、明の皇帝が「なにをやっとるんじゃ」と介入することで丸くおさまった。

しかしこの頃になるとアチェ王国もタウングー朝も「明の権威なんぞ要らん。ポルトガル人やアラブ人などを通して手に入れた大砲・火縄銃があれば無敵じゃ」と、明の権威はガン無視。
火器で武装してポルトガル人を傭兵として雇ったりしながら、「香辛料ビジネス」で国力を高めていく道を選択したのだ。

(参考)齋藤俊輔「「火薬帝国」の観点から見たビルマのタウングー朝とペグー、アユタヤ王国 : 火器の使用とポルトガル人傭兵」




日本も倭寇(わこう)の拠点となった


こうした状況は日本にも当てはまる。
16世紀半ばにポルトガル人の商人が種子島(たねがしま)にやって来て、火縄銃が伝えられたっていうのは聞いたことがあるよね。

実はこの船、ポルトガル人の船じゃない。
海賊グループのリーダーである王直(ワンジー;おうちょく、?〜1559年)のものだ。
王直は中国出身だけれど、活動の拠点は日本の長崎の五島列島や


平戸(ひらど)にあった。16世紀半ば頃の倭寇には、自由な貿易を求める中国人だけでなく、「勘合貿易」をすり抜けようとする日本人たちも多数参加するようになっていたんだ。

資料 中国人の見た倭寇のリーダー王直 『籌海図編(ちゅうかいずへん)』
「若いときは不遇であったが任侠的性格をもち、壮年に至って智略と気前のよさをもって人びとの信頼を得た。葉宗満(しょうそうまん)・徐惟学(じょいがく)・謝和(しゃわ)・方廷助(ほうていじょ)など、当時の若手の盗賊たちはみな彼との交際を喜んだ。あるとき相談して曰く「中国の法令は厳しく、ともすれば禁にふれる。海外で思い切り羽をのばすのと比べてどうだろうか」。

井原弘他編『世界の歴史 7 宋と中央ユーラシア』中央公論社、1997年、158頁



ポルトガルがマラッカを占領した

こうした倭寇勢力の活発化の背景にあるのも、ポルトガル人のアジア進出だ。

「ヨーロッパからポルトガル人が、アジアの産物を求めてやって来ている。彼らに商品を売り付ければ巨万の富が築ける」というわけで、商業活動が活発化。

ポルトガル人サイドも、「貿易を規制する中国の商品を獲得するには、海賊グループの物流拠点とルートに乗っかるしかない」と考えた。

場合によっては船に大砲を積み貿易拠点を力づくで奪う方法もとられる。

その代表例が、1511年のマラッカ占領だ。


これによりマラッカ王国は滅び、マラッカ海峡の物流ルートがポルトガル人に握られるという事態となった。
これを足がかりにポルトガル人は、香辛料の産地であるその名も香料諸島モルッカ諸島)での拠点建設もスタート。

現地勢力との力関係から、「植民地をつくる」ようなことはできなかったけれど、いくつかの重要拠点に商館や要塞を建設することには成功する。


こうしてヨーロッパ商人という“新入り”の登場により、貿易はぐんと活性化。


再びモンゴルがまとまった

モンゴル高原の騎馬遊牧民たちも、こうした国際商業の活発化の情報はきちんと得ていたから、かたくなに「朝貢以外おことわり」をつらぬく明の姿勢は、もはや“意味不明”。

「なんで自由に貿易をさせんのだ!」と殴り込みにかかる事態に。

15世紀後半に、「チンギス=ハン」の末裔(まつえい)によって再統一されパワーアップしていたモンゴル高原東部のモンゴル韃靼)は、1550年に北京を包囲する事態となっている。

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モンゴルを再統一したダヤン=ハーン


マカオにポルトガルが“居住権”を獲得

さて、その後1557年にポルトガル商人は、中国南部のマカオという両港に居留することを、明に認めさせることに成功する。
沿岸の港に外国人の居留地をつくることは、従来の中国でもおこなわれていたことだ。
それ以降マカオは、中国にあるんだけれども、ポルトガル的な街並みに作り替えられていく。



のちポルトガルの植民地となり、1999年に中国に返された後も、半分はポルトガル時代の制度を残したままだ。



中国とメキシコがつながった

しかも1571年になると、今度はスペイン王国がはるか彼方のアメリカ大陸から艦隊を派遣し、現在のフィリピン北部のマニラに港を建設。
マニラとメキシコとのあいだに定期航路を整備するという驚くべき業績をあげたんだ。
その理由は、メキシコでざっくざくとれるをマニラに輸出し、ここに集まるアジアの製品をメキシコ経由でヨーロッパに運ぶこと。

中国商人もスペイン商人の登場に刺激され、ますます無断で国を出て、貿易の利益を挙げようとし、各地に中国人町を建設した。

日本商人も同様。大阪(当時の表記は大坂)のや福岡の博多の豪商たちや、一攫千金を夢見る船乗りたちが東南アジアに繰り出した。
各地に日本町(にほんまち)という「日本人の植民市」が形成され、時の政権が問題視するほどとなるよ。


一方、明の皇帝はこうした事態を前に「貿易を100%管理することは不可能」と判断。
北方ではモンゴル人と和平を結び、貿易を認める「交易場」を設けた。
また海域でも、海禁をゆるめて民間人の貿易を承認。


これによって明には、ドバドバと銀が流れ込んでくるようになる。
いわゆる“銀の大行進”だ。


おもしろいのは、その銀が遙かかなたのアメリカ大陸のメキシコやボリビアの銀山から運ばれて来たこと。
採掘方法のイノベーションによって、日本でも現・島根県の石見銀山(いわみぎんざん)の銀が、中国に大量に輸出されるようになっていった。

史料 ポルトガル人フェルナン=メンデス=ピントの見た1580年の寧波(リャンポー)
 「航海して、六日後にリャンポーの門に到着した。それは、当時ポルトガル人が商売していたところから三里(レグア。これは約15km)離れた2つの島であった。リャンポーはポルトガル人たちが陸地に作った千戸以上から成る集落で、市参時会員、陪席判事、地方長官、その他6,7人の共和国の裁判官と役人によって統治され、そこでは……この町には3千人がいて、うち1200人がポルトガル人、残りはさまざまな国のキリスト教徒であった。そして、事情をよく知っている多くの人たちの言によれば、ポルトガル人の取引高は金3コントを超え、取引の大部分は2年前に発見された日本の銀であり、どんな商品を日本に持っていっても、3、4倍になって返ってきたということであった。」(『東洋遍歴記』第66章、第221章)

上田信『中国の歴史09 海と帝国―明清時代』講談社、2005年、203頁。【解釈】「『東洋遍歴記』はピント自身の経験を基礎に、当時のポルトガル人のネットワークで語られていた伝聞を素材として、フィクションを織り交ぜながら描き出された冒険小説としてよむべきであろう。」(同、212頁)


こうして、中国周辺では、貿易の利益を求める国家や商人グループが、たがいに火縄銃や大砲といった最新テクノロジーを導入して争う時代となっていくのだ。


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