見出し画像

ダイバーシティ世界史Vol.3 出島のアフリカ人

古来、人や物がさまざまな地域を行き交い、多様な文化が各地で織りなされてきました。そんな世界各地に見られる多様性(ダイバーシティ)の事例を、世界史の流れの中に位置付けつつご紹介していきます。

出島は日本が江戸時代であったころ、オランダ人のステイ先でした(川原慶賀 蘭館絵巻 蘭船荷揚図(長崎歴史文化博物館収蔵))。

画像2

画像7

画像8

参考⇒ 1500~1650年のアジア1650~1760年のアジア 

そんな当時の出島を描いたイラストの中には、日本では見慣れない人たちが多く存在します。

***

1. 出島のジャワ人


キャプチャ

オランダ商館長カピタンに日傘(がさ)をさしかけるジャワ人と思われる従者(くろぼう)、ゴブレットとフラスコボトルが乗った盆をささげ持つ下級船員(またろす)を配する木版画(文化遺産オンライン)。

ジャワというのは、現在のインドネシアにある島ですね。
ここにはオランダの東南アジアにおける拠点都市(バタヴィア)が1619年に築かれていたのです。


***

2. 出島の黒人


さらに目を凝らしてみると―

画像3

漢洋長崎居留図巻(長崎歴史文化博物館収蔵)

右の隅に黒人の召使いが描かれていますね。


キャプチャ

『長崎阿蘭陀出島之図』(部分) 島田竜登「第4回 比較史のなかの日本・アジア」(「世界史」の世界史(学術俯瞰講義)2012年、パブリックドメイン)より


3. なぜ出島にジャワ人や黒人が?

ヨーロッパ人としては唯一、日本との公式な貿易が認められたオランダの主な取引先は中国から東南アジアにかけての地域でした。


当時の東南アジアは、もともとアフリカやアジア各地の人々がビジネスのために集う中心地。


ヨーロッパ人が後からやって来ると、東南アジアを介して、これまで日本人が見たこともなかった民族が運ばれてくるようになったのです。

キャプチャ

バタヴィアの奴隷(私人所有) 島田竜登、上掲(パブリックドメイン)


オランダが拠点としたジャワの都市バタヴィアにも、続々とインド洋周辺のさまざまな民族が「奴隷」として移送されるようになっていきます。

「奴隷」というと、アフリカからアメリカに運ばれてサトウキビや綿花栽培などの肉体労働酷使された「悲惨な黒人奴隷」というイメージがあるかもしれませんが、バタヴィアの奴隷は「商品」ではなく、あくまで個人の持ち物であり、商館やお屋敷の中の召使いとして働くことが多かったようです。


画像6

カリブ海のサトウキビ大農園で働かされる黒人奴隷


島田竜登氏によると、奴隷はインドネシアの島々、マレー半島、遠くは南インドからも運び込まれ、ヨーロッパ人だけではなく中国人が奴隷を所有することも。そして、なんと奴隷が奴隷を所有することさえあったようです。


まとめ

いかがだったでしょうか。

「奴隷」というと肉体労働や、ヨーロッパ人が黒人を奴隷にしたというイメージが強いですが、東南アジアでオランダ人が築いた都市における「奴隷」は、そんな図式にはまらない存在であったことがわかります。

「ヨーロッパ人」といってもその出身はオランダ人だけではなく、他の地域から下っ端の水夫として雇われた人々も含まれていました。

日本の出島は、そんなさまざまな人種・民族のひしめく「ヨーロッパ」とも「アジア」とも言えない新しいタイプの地域の”縮図”であったともいえそうです。


(みんなの世界史)


(参考)


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊