【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑯ 1500年〜1650年の世界
◆1500年~1650年の世界
海を中心に交流が活発化し、世界が一体化していく時代①
前の時代の終わりごろ、ついにヨーロッパの人たちがアメリカ大陸にたどり着いていますね。
―そうだね、とっても大きな変化だよね。何千年もユーラシア大陸と「別行動」していたアメリカ大陸の人たちにとっては「寝耳に水」の話だったわけだ。
ベーリング海峡ができたことで、南北アメリカとユーラシア大陸は分断されることになった。
アメリカ大陸に金銀財宝が無限に眠っている場所(注:エル・ドラド)があるんじゃないかと期待したヨーロッパ諸国は、こぞってアメリカ大陸に進出することに。
一番乗りはスペインとポルトガルだったけど、それをオランダ、フランス、イギリスが追いかけていく。
ヨーロッパが進出したのはアメリカだけですか?
―ほかにアフリカやアジアにも進出を進めているね。
「進出」っていっても、広い領土を支配する植民地化がしっかりおこなわれたわけではない。船に大砲を積んで脅かし、港に要塞(ようさい)をつくって貿易に無理やり参加しようとしたんだ。
当時のアジアの支配者も、新兵器である銃や大砲といった新しいテクノロジーを軍隊に取り入れ、貿易の利益を確保しようとしていた。
だから、ヨーロッパの国々が完全にアジアの貿易を支配できたわけではないんだよ。
そうだったんですか。
―たしかにヨーロッパ諸国の参入によってアジアの経済は刺激を受けるけどね。
で、物の流れ(物流)が増えれば増えるほど、スムーズに交換するために「お金」が必要になった。
そこで利用されたのは銀(シルバー)だ。
当時アメリカに進出していたスペインが、アメリカの人たちをこき使って銀を掘り出し太平洋を西に超え、アジアのヒット商品を買い付けようとしたんだ。
えっ、太平洋を横断して運んだんですか!?
―そう。この時期の初めにスペインの派遣した初のチャレンジャー(注:マゼラン)が横断に成功。もちろん、それ以前にポリネシア人がやっていた可能性も否定できないけどね。
で、その後スペインは東南アジアの島々に王様の名前(注:フェリペ2世)にちなむ植民地(注:フィリピン)を設置し、メキシコとの定期航路をつくったんだ。
そんなことができていたんですね。
―船を動かす力は風。
当時、日本人の中にもアメリカとの太平洋横断貿易に関心のあった大商人や有力者もいて、この時期にはスペイン人に随行してメキシコに渡るプロジェクトに参加した人もいるんだよ。
日本はすでに有力者(注:豊臣秀吉の政権から徳川幕府へ)によって九州島・四国島・本州島の大部分が統一されていたから、スペインから「しっかりとした手強い国」と見なされていた。だから植民地化されなかったと考えられているよ。
地球のあちこちで貿易がさかんになっていますね。
―うん。でもアメリカ大陸はだいぶ遅れを取ってしまっているよね。
それに長い目で見れば、アメリカ大陸や、その向こうの太平洋を確保していたヨーロッパ諸国のほうに「アドバンテージ」があったといえる。
アメリカには強い国はなかったんですか?
―メキシコやペルーのあたりを中心とする強い国(注:アステカ、インカ)があったけど、ヨーロッパ勢力の銃や鉄の武器にはかなわなかった。病気も持ち込まれて、アメリカの先住民の多くが命を落としていった。
こうしてアメリカの先住民の「働き手」が減少すると、今度はアフリカの王様たちから黒人を買い付けて、アメリカへと運ばれるようになった。
こうやって、自分の意志に反して、はるばる遠いところに移動させられる人たちが世界中で増えていくことになったのも、この時代からのことだ。
ただ働きさせて、荒稼ぎするなんて、ヨーロッパ諸国はウハウハじゃないですか。
―もちろん、初めは珍しかったものでも、取引量が増えればだんだん珍しくもなんともなくなって価値は下がる。それに応じて物価が急激に上がり、ヨーロッパ社会は大きな打撃を受けることになった(注:価格革命)。
ただ単に金銀財宝をヨーロッパに運び込むビジネスをしていた国々(注:スペインやポルトガル)は次第に傾いていくけど、ビジネスのもうけたお金を元手に物を生産して売るビジネスもによって国力を高める国も現れるようになっていく。
会社みたいですね。
―そうだね。失敗するかもわからない冒険的なビジネスだから、今でいうところのベンチャー企業だね。同じような組織は今までも各地にあったけど、この時代のヨーロッパでできた会社の仕組みは、現代の会社のルーツとなっていくよ。
◆1500年~1650年のアメリカ
―アメリカではスペインとポルトガルが支配エリアを拡大している。先住民の国々は滅ぼされ、住民は強制的に働かされたり攻撃されたりした。悲しい歴史だ。
ヨーロッパから持ち込まれた病気によってアメリカの人たちが亡くなると、今度は代わってアフリカから黒人の奴隷が輸送された。人間ではなく物扱いされた人のことを「奴隷」といって、人類の歴史では古くから見られるものだけど、この時期以降に取引された奴隷の数はハンパない。
アメリカ大陸の人種の構成が大きく変わりそうですね。
―そうだね。先住民の中には高い山や森に逃げ込んでコミュニティーをつくる人たちもいた。一方、ヨーロッパの人たちや黒人との間に生まれた子どもも増えていく。
とても複雑な社会ですね。
―現在のサッカーのブラジル代表を見てみると、そのバラエティーの豊かさはすぐにわかるはずだ。
カリブ海でも同じような状況が進んでいく。
しかし、この頃の社会は基本的にはヨーロッパの人たちをトップとするピラミッド型の社会。さまざまな問題を抱え込むことになるんだ。
◆1500年~1650年のオセアニア
―この時代のオセアニアは、ヨーロッパ人の「アジアへの通り道」。お互いそれまで見たこともないような人間との「出会い」がさまざまなところで生まれた。
まずアメリカにいちはやく進出していたスペイン王国の船乗り(注:マゼランの一行)が、太平洋を横断する貿易ルートの開拓に成功。
アメリカで掘りまくった大量の銀(シルバー)がアジアの商品を買い付けるのに使われ、アジアの貿易ブームにも影響を与えることになる。
オセアニアの島々はヨーロッパ人によって支配を受けたんですか?
―熱帯の気候は過酷だし資源も少ないので、直接的な支配は受けていない。オセアニアの人たちはさぞかしビックリしたことだろう。
スペインに引き続きオセアニアを目指したのはイギリスやオランダだ。イギリスはさかんにスペインの船を襲う作戦をとった。イギリスの「王様公認の海賊」が、スペイン船の積む金銀財宝を狙ったんだ。
一方、オランダの探検家(注:タスマン)はオーストラリアやニュージーランドのあたりを「発見」している。ヨーロッパ人が知らなかっただけで、長い歴史があったわけなんだけどね。
そういえば、イースター島のモアイ像はまだ作られているんでしょうか?
―小さい島で資源が不足し、モアイ像の建設はストップ。島民どうしで争いが起きて、モアイ像の多くが倒されてしまったようだ。
◆1500年~1650年の中央ユーラシア
モンゴル帝国はもうバラバラになってしまったんですよね?
―うん、バラバラになったとはいっても「モンゴルの過去の栄光」はレジェンドとして語り継がれている。
草原地帯の遊牧民のリーダーになるためには、建国者の血を引いていることが絶対条件となったんだ(注:チンギス統原理)。
これだけ広い範囲に名前をとどろかせ続けるなんてスゴイですね。
―だね。西は今のロシアのほうから東は中国のほうまで、リーダーはモンゴルの建国者の子孫であることが求められたわけ。
たとえば、この時期に中央アジアから南アジアに進出して広い領土を支配した国(注:ムガル帝国)の君主は、「先祖はモンゴル人の君主だ(注:ティムール)」って言っていた。
インドの君主なのに!?
―それくらい影響力は大きいんだよ。「うちのご先祖はチンギス・ハン」っていえばみんな黙る(笑)
インドのお隣、イランを支配していたのも遊牧民の出自を持つ君主だ(注:サファヴィー朝)。
イランっていっても支配者はトルコ系。
で、さっきのインドの君主と同じくイスラーム教を保護していた。
沿岸部を支配するには、農業や商業に従事するイスラーム教徒たちの支持は欠かせない。
その土地の有力者とタッグを組む形で、内陸の騎馬遊牧民にルーツを持つ勢力が支配する国の形は、ユーラシア大陸お決まりのパターンだよね。
でもどうして沿岸部に進出しようとしたんでしょうか?
―当時のアジアは貿易ブーム。
東南アジアから沖縄、沖縄から九州、本州、本州から北海道、北海道から中国の北のほう…というように、貿易ルートが数珠(じゅず)つなぎのようにはりめぐらされ、各地で貿易ルートを銃や大砲などの武器の力でコントロールし、リッチになった支配者が現れているんだ。
例えば、沖縄の王様、日本の信長や秀吉、北海道のアイヌなどだ。
北海道の方面との毛皮貿易や、朝鮮の薬用ニンジンの貿易で力をつけたのが女直(じょちょく)という民族。
彼らは高級品を中国の皇帝に売り込んで力を付け、数々の戦いを勝ち抜いていった。その結果、女直の王様はなんとモンゴル人から「あなたが遊牧民のリーダーになるべきです」と推薦されたんだ。
すごいことですね!
―モンゴルの支配層の間でも揉め事があったことも関係している。
女直はその後、中国に攻め行って皇帝を倒し、なんと中国の「皇帝」になっちゃうんだ。
こうして新しく中国にできた「清」(しん)という王国は、女直のふるさとである中国の東北方面(「満州」というところ)と、モンゴルの一部を従え、大きな国になっていくんだ。
草原地帯と定住民の地域をまたぐ国が、また新しくできたわけですね。
―そうだね。
一方同じころ、インドの北にある世界有数の高山地帯で巨大な国ができた。
チベット人のお坊さんが、チベット仏教というお寺の「ふしぎな力」を利用して広い国をつくったんだ。リーダーは、ダライ=ラマという称号を名乗ったよ。
どうしてお坊さんにそんなことができたんですか?
―同じころ北のほうで成長していたモンゴル人の遊牧民の一派の力を借りたんだよ。モンゴル人の側も、自分たちのグループをまとめることができる考えを求めていたんだ。
モンゴル人とチベット人の協力ですか。スケールの大きな話ですね。
―そうだね。今でもチベットの観光名所となっている巨大な宮殿は、このときにつくられたものだ。
もっと北の寒い地域はどんなことになっていますか?
―北極に近いところだよね。このへんではトナカイにコケを食べさせながら移動する遊牧民が活動している。農業ができないので余るほどたくさんの食料をつくることはできないから、大きな国はできないよ。
しだいに「毛皮」の狩猟(=野生動物を獲ること)を目当てに西のほうから進出したロシア人に、生活する場所を奪われていくことになるよ。
毛皮って、コートとかに使うんですかね?
―上流階級の使うアイテムなんかにワンポイントで使われることも多いね。
高さ31.5cm、 直径19.5cm、重量0.91kg、金、銀、ダイヤモンド約3,000個、真珠270個、ルビー、サファイア、エメラルド、オコジョの毛皮付きの冠カバー。現在のエリザベス2世の王冠は、1953年の戴冠式のために王室宝石細工師ガラルドが新たに製作したもの(…)「英国王冠と笏」
現在の狩猟採集民の分布(社会実情データ図録より)。ハンティ(オスチャーク)人、ユカギール人など。
◆1500年~1650年のアジア
―この時代の中国は明(みん)が支配していますが、北の遊牧民と南の海を拠点に活動する人々によって、サンドイッチのように圧迫されている状態だ。
北にはまだモンゴル人たちがいるんですか?
―しばらくバラバラに分かれていたんだけど、この時期にはモンゴルの建国者の本家の家柄のボスが、遊牧民の再結集を図っているよ。
どうしてまたまとまったんですか?
―危機的な事態になると遊牧民は結集する傾向がある。
このときは中国の皇帝が遊牧民との貿易を制限しようとした。それに困って貿易を要求するために小競り合い(こぜりあい)が起きたんだよ。
一方的に中国を攻めたわけではないんですね。
―そうだよ。
遊牧民は一時、中国の首都である北京を占領。さすがに現実を見た皇帝は、オフィシャルな形での貿易を再開しているよ。
一方、中国の皇帝は海の貿易もコントロール下に置こうとした。
都は中国の北のほうにあるけど、経済の中心は海を通して西の世界とつながっている南のほうにあるからね。
でも実力がともなわず、中国沿岸には隠れて貿易をしようとする人たちであふれかえっていたんだ。
「海賊」ですね。
―そう。中国の皇帝からは「日本の海賊」と呼ばれたけど、実際には中国の周りでビジネスを行っていたいろんな民族が混ざっていたよ。
このようにピンチに立たされた中国は、支配層の間で仲間割れが起き、おいうちをかけるように朝鮮に日本の秀吉が軍を進めた。
踏んだり蹴ったりですね。
―日本は当時、今の島根県で世界有数の銀(シルバー)を産出し、大阪や福岡の商人を中心に莫大な貿易の利益をあげていた。
そんな中、朝鮮の北の「満州」というところで、北方のビジネスによって力をつけた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて北京を占領。中国の皇帝に即位することになるんだ。
◇1500年~1650年のアジア 東南アジア
―この時代の東南アジアでは、中国商人や日本商人が特産品を持ち込み、ヨーロッパ商人がアメリカや日本から運び込んだ銀で買い付け、さらに特産品のスパイスがヨーロッパに輸出されてヒット商品となっているよ。
スパイスって料理に使うんですか?
―そうだよ。昔は冷蔵庫がないから肉や魚の保存につかったり、薬としても重宝されたんだ。
貿易がブームになると、各地でモノの流れをコントロールした支配者が現れそうですね。
―そうだね。各地の王様は内陸の特産品を港に集めたり、大規模な田んぼを支配下におさめたりして、ビジネスしやすい環境を整えていった。王様のまわりには日本人や中国人の相談役が集められ、ヨーロッパから輸入した銃や大砲で武装していたよ。
◇1500年~1650年のアジア 南アジア
インドはモンゴルの影響は受けなかったんですよね?
―いや、インドも草原地帯の動向と無縁ではなかったんだ。
インドの北のほうでは、モンゴルの建国者の子孫の建てた国が続いていた。しかし、勢力争いに敗れた王様の一族が北インドに逃げ、今のデリーという町を都にして新しい国をつくった。
この国は今ではムガル帝国と呼ばれるよ。
インドの宗教といえばヒンドゥー教ですが、ムガル帝国は何教ですか?
―イスラーム教徒だ。
インドを支配しようと思ったら多数派はヒンドゥー教徒だから、支配するには工夫が必要だよね。そこで、有力なヒンドゥー教徒の大物をひいきしたり、税を免除したりしている。
現実的ですね。
―そうだね。
イスラーム教の「人間はみな平等」という考えの影響も受けて、シク教という新しい宗教も生まれたよ。ターバンとヒゲが特徴的な格好の宗教だ。
ムガル帝国はしだいに南へと支配エリアを広げていくけど、南インドは当時空前の貿易ブームだ。
ヒンドゥー教の王国は“お隣さん”の東南アジアや西アジアとの貿易で、莫大な利益をたたき出している。
当時の南インドにはポルトガル王国やオランダの商人もやって来て、貿易のために頑丈な基地をつくっているね。
◇1500年~1650年のアジア 西アジア
―この時代にはトルコ人の建てたオスマン帝国という国が、地中海からインド洋にまたがる巨大な国に成長している。
当時、一大ブームとなっていた海の貿易で莫大な利益を稼ぎ出し、豊かなエジプトも獲得して栄えるよ。
オスマン帝国の皇帝は、イスラーム教徒の多数派のリーダーである「カリフ」の位も兼ね、聖地メッカを守ることで西アジアだけでなく世界中のイスラーム教徒から尊敬される存在になったんだ。
強さの秘密はなんだったんですか?
―宗教がちがっても認める度量の広さと、最新鋭の大砲や銃を装備した歩兵部隊が強さの秘密だ。
オスマン帝国はヨーロッパにも東から軍を進め、キリスト教徒の若者をこの部隊に取り立てたんだ。
当時のヨーロッパの国々は互いにケンカばかりしていたから、オスマン帝国の進出にビックリしてしまった。
西アジアはオスマン帝国の独り勝ちの状態だったんですか?
―ううん、イランではイラン人の一派が大きな国を建て、海にも進出して貿易で利益を挙げている。オスマン帝国とも何度も戦っているし、当時海からやってきたポルトガル人とも戦って勝利している。
おなじイスラーム教徒の国なのにどうして仲が悪いんですか?
―トルコ人とは言葉や文化に違いがあったということもあるね。
それだけでなく、イスラーム教のグループの違いも大きいよ。
そういえば、イスラーム教には多数派と少数派に別れた争いがありましたね。
―そうそう。オスマン帝国のほうは多数派のスンナ派だ。
イランの王様は、オスマン帝国との「違い」をハッキリさせようと、少数派のほうのシーア派を保護したんだ。
その結果、今でもイランではシーア派が多いよ。教義や儀式のやり方にも、かなりの違いがあるんだ。
◆1500年~1650年のアフリカ
アフリカはヨーロッパ人の海外進出の影響を受けましたか?
―沿岸部の人たちは特に大きな影響を受けているね。
例えば?
―アメリカ大陸の3K(キツイ、キタナイ、キケン)の仕事の労働力として、沿岸から数多くの住民が連れ出されたんだ。
いったい誰が積み出したんですか?
―アフリカの西のほうの沿岸を支配していた王様たちだ(注:ベニン王国など)。内陸から別の民族を捕まえ、港でヨーロッパの商人に売ったわけだ。
これに最初に手を染めたのはポルトガル王国。奴隷を運ぶだけで莫大な利益を上げ、のちにスペインやオランダ、イギリスなどの国々もマネし始めるよ。
アフリカには王国が意外とあるんですね。
―文字の記録があまりないから詳しいことがわかっていないだけで、われわれが思い込んでいるよりも社会はずっと複雑だ。王様は特産物を海に運び出し、その貿易ルートは遠く中国にもつながっていた。特産品は金(ゴールド)や象牙(ぞうげ)だ。沿岸の港町があまりに栄えたものだから、ヨーロッパからやって来たポルトガル人や、北のほうのアラブ人やイラン人もこぞって進出してくるようになる。
アフリカも貿易ブームとは無縁ではなかったんですね。
―そうだね。
ちなみに、サハラ砂漠を越えるラクダ貿易は昔から盛んだったよね。この時代にもサハラ砂漠を流れる川の周りに、貿易をコントロールした王国が栄えている(注:マリ王国)。
でもその後、この利益に目をつけたサハラ砂漠の北はモロッコの王様に攻撃されて滅ぼされてしまった。
アフリカの北のほうはどんな感じなんですか?
―はじめのうちはオスマン帝国に従っていたけど、しだいにその土地の王様の支配に変わっていくよ。
◆1500年~1650年のヨーロッパ
―この時期のヨーロッパのことを日本では「大航海時代」というよ。
アジアやアフリカに活動エリアを広げたからですよね。
―そうそう。
アメリカではもともとあった国々を滅ぼし、支配下に置いた。
でもアジアには大きな国々があって貿易で栄えていたから、ヨーロッパが支配できたのは各地の貿易の拠点に過ぎないよ。
本格的な支配はまだなんですね。
―そうだね。でもこの時代のヨーロッパ人は、今まで知らなかった知識や情報に大きな衝撃を受け、考え方もガラっと変わっていくことになる。数学の知識を使って、世の中の様々な法則を表現し、新しいテクノロジーを生み出そうとする動きも盛んになった。絵や文学のテーマが宗教的なものから、社会的なものへと変わっていくのも特徴だ。
メルヘンよりも、リアルな考え方になっていったわけですね。
―そうそう。「神様ファースト」の考え方が弱まっていったことが背景にあるね。ヨーロッパはとっても狭いわけだけど、各地で国によるガッチリとした「まとまり」が強化され、王様の力が強まっていったんだ。
同時に、国の力を強くするために、ビジネスの振興がとっても重視されるようになる。王様は「お気に入り」の商人(注:特権商人)と結び付き、強い国をつくろうと目論んだ。
王様は、その国では「自分が一番えらい」ということを主張したかったわけですよね。
―うん。ただね、国民のほとんどはまだ熱心なキリスト教の信者。だから、人々の支持を集めるには「王様はキリスト教を守っている」というアピールも欠かせない。
伝統的にキリスト教は、西ヨーロッパではローマの教会(注:ローマ・カトリック教会)、東ヨーロッパではコンスタンティノープルの教会(注:正教会)が、それぞれいちばん強い権力をもっていた。しかし、前の時代にコンスタンティノープルの教会を守っていた東ローマ帝国がイスラーム教徒の国(注:オスマン帝国)によって滅ぼされると、今度はロシア人の王様(注:モスクワ大公国)が「保護者」を称するようになっていった。
キリスト教を守った者勝ちって感じですね。
―ね。
そんな中、東西の教会エリアの境目にあたるポーランドは「ローマの教会」のほうを保護し、当時のヨーロッパで最も広い国に発展していた。
一方、「ローマの教会」の保護者は伝統的には「神聖ローマ帝国」の皇帝がなるべきだっていうしきたりだったわけだけど、当時の西ヨーロッパでは「そんなの気に食わない」というフランスやイギリスの王様も力を伸ばしていたんだ。
「神聖ローマ帝国」の「ブランド」が低下していたわけですかね。
―神聖ローマ帝国の国内でも、帝国の支配に反対する領主も増えていたんだ。
しだいに領主たちは、「ローマの教会」の主張が「キリスト教ほんらいの考えからそれている!」と主張する新説を支持し、「ローマの教会」グループから抜けようとする動きを進めていった(注:宗教改革)。
え、それって平和的にできるものですか?
―もちろん、そうはいかない。
その後、西ヨーロッパ各地で血みどろの「ヨーロッパ大戦」が繰り広げられたんだ。
「宗教の争い」のようにみえるけど、実際には「国と国の争い」という面が大きい。
「ローマの教会」の言うことを聞かずとも、「自分の国のことは自分で決めたい」王様が増えていたんだ。
結果的に、イギリスでは「イギリスの国王をトップとする独自の教会」(注:イギリス国教会)がつくられている。
フランスでも「フランスのキリスト教会」の制度(注:ガリカニスム)がつくられていった。
こうして、ローマ教会の考えるすべての世界をカバーする、「たったひとつのキリスト教会」は崩れていくことになったんだ。
そうなると「神聖ローマ帝国」のように、ヨーロッパのすべてをカバーしようとする広い国は、本格的に時代遅れになりそうですね。
―その通り。
神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲するようになった一族(注:ハプスブルク家)は、ヨーロッパの上流階級たちと「親戚関係」になることで、広大な領土を獲得していったんだけど(注:結婚政策)、結局スペインを中心とする領土と、ドイツを中心とする領土に分かれてしまったんだ。
当時のスペインはアメリカやアジアとの貿易でめちゃめちゃ栄えていたから、スペイン側の家柄は一時、世界のどこにでも領土があるので、「太陽の沈まない国」とまで言われた。
でも、スペインの支配していたオランダが、ローマの教会から離れて独自のキリスト教会を建設して独立を勝ち取ると、スペインの繁栄には先が見えるようになる(注:オランダ独立戦争)。
ドイツ側の家柄はどうですか?
―こちらはそのまま「神聖ローマ帝国」の皇帝の位を引き継いでいった。
でも、南からイスラーム教徒のオスマン帝国が攻めてくる状況で、西にはライバルのフランス王国もあるから盤石とはいえない。
「神聖ローマ帝国」の構成メンバーである各地のドイツ人の王様や貴族たちも、次第に皇帝をナメはじめていて、結束は崩れていくよ。
ドイツ人はいつまでたってもバラバラなんですね。
―現代のわれわれからみると「どうしてまとまらないんだろう?」って思っちゃうよね。
でもそれってただ単に「ドイツは「今のドイツのエリア」にまとまる」っていう「結末を知っているから」にすぎない。今後のドイツのエリアの歴史を見るときにも、そういったことを意識してみようね。
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