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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑰ 1650年〜1760年の世界

◆1650年~1760年の世界
ヨーロッパ諸国が外に向けて発展し、海の重要性が高まる時代

―この時代、各地で大砲や銃を利用した戦法が発達。ユーラシア大陸の草原地帯を牛耳っていた遊牧民の軍事力は、もはや「最恐」とはいえなくなっていった。

銃や大砲があれば遠くから狙い撃ちにすることができますもんね。

―だよね。馬だってビックリしてしまう。
そして各地の国々は貿易の利益を求め、ますます海沿いに拠点を移していくようになる。

でもね、この時代は「ミニ氷期」(注:小氷期)ともいわれる寒〜い気候が世界各地を襲ったこともあって、経済活動は一時的にスランプにおちいってしまうんだ。反乱とか革命とか、良からぬことが同時多発的に起きてしまう(注:17世紀の危機)。


前の時代は「拡大」の時代だったのに…

―拡大にも「限界」があるからね。開発をし過ぎれば、環境破壊にもつながるし。

面積の狭いヨーロッパの国々は「限界」突破のため、盛んにアメリカ、アジア、アフリカに進出し、利益につながりそうな物をとにかく自分の国に持ち込んだ。とくに南北アメリカ大陸はスペイン(一部、ブラジルだけはポルトガル)によって利用されるだけ利用されていく。

ヨーロッパ各国は資源争いを背景をして、「宗教」の考え方の違いを口実(こうじつ)に、国と国とのケンカをエスカレートさせていくことになる(注:当時のヨーロッパで起きたキリスト教の教義をめぐる戦争を、特別に「宗教戦争」という)。



◆1650年~1760年のアメリカ

―アメリカ大陸では、一番乗りのスペインと、あとからやってきた組のオランダ、フランス、イギリスとの間で「植民地取り合い合戦」がはじまっている。


「インディアン」(インド人)というレッテルを貼られた先住民族たちは、ヨーロッパの人たちが自分たちの土地を奪おうとしていることに気づくや必死の抵抗をこころみるものの、持ち込まれた病気によって容赦なく命を落としていった。

武器などの点でも差は圧倒的で、抵抗の多くは悲惨な結果に終わったけど、なかにはヨーロッパから持ち込まれた馬を駆使した民族や、逃亡した黒人たちと強力してヨーロッパ人に立ち向かおうとした民族もいたんだよ。


やられっぱなしではないわけですね。

―「人さまの家に土足で上がり込みやがって」って当然思うでしょ。

でもインディアンたちにとって面倒だったのは、ヨーロッパの国どうしの「駆け引き」に巻き込まれたことだ。

たとえば、イギリスとフランスは、ライバルどうしの先住民族をそれぞれ応援し、武器を与えて戦わせたからややこしい。もともとインディアンにもさまざまなグループがいて一枚岩ではなかったしね。

悲惨ですね…。アメリカ大陸に進出しようとしたのは他にはなかったんですか?

―赤道に近い熱帯の島々が浮かぶカリブ海には、イギリス、フランスのほかにオランダも進出していった。島が多くハリケーンという熱帯低気圧もたくさん発生するから警備が手薄になりがちな場所で、先に乗り込んでいたスペインもうまく経営することができていない場所だった。というわけで当時は「カリブの海賊」の根城になっていたんだ。

おお、ONE PIECE!

―「偉大なる航路(グランドライン)」を開拓し「ひとつなぎの大 秘宝(ワンピース)」を手に入れ「海賊王になってやる!」っていう能力者がホントにいたかどうかわわからないけど、時代設定は大体この時代だね。

 カリブ海はサトウキビの栽培にもってこいの場所なので、当時ヨーロッパでヒットしていた紅茶に入れるための砂糖の多くが、ここに運び込まれた黒人によって生産されたんだ。


ヨーロッパ人は自分たちの紅茶に入れる砂糖がまさかそんなふうにして作られていたなんて、思いもよらないでしょうねえ。

―まあ現代のわれわれが着ているTシャツがまさかカンボジアやバングラデシュでつくられたものだっていう実感がないのと同じような物よね。

実感の湧かない」ほど遠いところの人に物を作ってもらおうとすると、どうしても人使いは荒くなるものだ。

これからの時代、無関係な人と人とが物のビジネスを通してどんどん地球規模で結びついていく時代になっていくんだよ。

この「黒人奴隷」で「砂糖」をつくるビジネスで大儲けしたのがイギリスだ。イギリスが今後、世界ナンバーワンの先進国としてのし上がっていくきっかけとなったのは、大西洋をまたにかけたこの奴隷貿易のおかげだといわれているよ。


南アメリカはどんな感じですか?

―ブラジルはポルトガルが支配し、その他のエリアはスペインが植民地にしている。各地からは特産品(ブラジルの金(ゴールド)など)がヨーロッパに輸出され、現地の人の気持ちをガン無視した支配が続けられていった。


現地の人たちは一丸となって反乱を起こしたりしなかったんですか?

―もともといた先住民族に「まとまり」はなかったし、軍事力でもかないっこない。でもヨーロッパ人との結婚は世代を追うごとに普通になっていった。さらにそこへアフリカ人が奴隷として流れ込み、人種を超えたカップルも生まれる。「先祖が何されたかわからないけど、あなたはいい人だわ」っていう心境だ。


そうなると、とっても複雑な社会が生まれそうですね。

―そうだね。肌の色や出身によって差別される不平等な社会が新たに作られていったんだ。
この時代には、かつて広い範囲を支配していたインカ帝国という国の支配者の子孫を名乗る者が各地で反乱を起こすようにもなっている。どれも成功はしなかったけどね。

 また、アメリカでスペイン人の両親から生まれた人たちの中には、「アメリカ大陸生まれ、アメリカ大陸育ち」という、「スペイン人とは違うんだ。俺たちはアメリカ大陸の白人(注:クリオーリョ)だ」という意識も生まれていく。

 そういった雰囲気が、次の時代になると「アメリカ大陸の白人」による「ヨーロッパの白人」からの分離独立運動へとつながっていくことになるんだ。


母国を離れ遠いところに移住すると、別の意識が生まれて独立運動が起きるっていうのは、よくある流れですね。

―似たようなことはこれまでもいろんなところであったよね。


◆1650年~1760年のオセアニア

―この時代は、オセアニアに一体どんな人たちがいるのか、ヨーロッパ人についに「バレてしまう」時代だ。

わたしたちにはオセアニアに長い歴史があることがわかりますが、ヨーロッパ人にとっては分かりませんもんね。

―そうだね。この時代にはオランダ人の探検家(注:タスマン)が細かく調査をしたのだけど、報告書を読んだヨーロッパ人の中には「現実とは違った」イメージを持つ人もでてくる。「のんびりしたパラダイス」とか「文明を知らない人たちの素朴な楽園」みたいなね。

南の島の環境は本当はもっと過酷で、彼らの社会も島によっては王様や貴族の君臨する複雑なものだったんだよ。


◆1650年~1760年の中央ユーラシア

―この時代になると、定住民の軍事力が、草原地帯の遊牧民のパワーにいよいよ追いつくようになる。


大砲や銃の力ですね。

―そうだよ。火薬の力が馬の力に勝ったわけだ。
 草原地帯では、モンゴルの血を引く遊牧民のリーダーによる「最後の遊牧帝国」(注:ジュンガル)が勢力をのばすけど、中国の皇帝によって、乾燥地帯に住んでいたトルコ系のウイグル人たちとセットにされて、支配下に置かれることになってしまった。


ウイグル人も中国の支配下に置かれちゃうんですか。

―それが現在でも続いているんだよね。

当時の中国の皇帝は?

―もともと漢字も使えなかった女直(じょちょく)という民族だ。
この時代に領土を拡大させていき、西から領土を拡大したロシア皇帝との間に条約を結んで、国境線を引くまでになるよ(注:ネルチンスク条約)。


ロシアってヨーロッパの国なのに中国のほうまで拡大しているんですね…

―ロシアはかつて長い間モンゴルの支配を受けていたよね。西に進出しようとしてもヨーロッパは強国ぞろい。南に進出しようとしてもトルコ人の帝国がある。そこで東の方に広がるさむ~い森林や平原を東に東に進んでいったんだ(注:ロシアのシベリア進出)。


そんなところにいって何になるんですか?

―ビーバーの毛皮がお金になったんだよ。ヨーロッパの上流階級が競って買い求めたんだ。


でも、そんなところまで遠征する兵隊はどうやって集めたんですか?


―モンゴルの子孫の人たちやトルコ系の遊牧民(注:タタール人)に頼んだんだ。「征服したら、そこに自由に住んでいいよ」っていうことでね。
外国を支配するために外国人を利用したわけだ。そうすれば自分の手は汚さずに済むでしょ。


その頃ユーラシア大陸の遊牧民たちは?

―モンゴル人のリーダーが、自らの権威をチベット人の仏教の最高権威(注:ダライ・ラマ)に求めた。
チベットの高山地帯では、モンゴル人のリーダーがチベット人の仏教のお坊さんを保護し、強い国が建設されていたんだ。

しかし、モンゴル人とチベット人が手を結ぶことを恐れた中国の皇帝(注:清の雍正帝)は、軍隊を出動させてチベットの大部分を占領してしまった。それ以来、チベット人は間接的に中国のコントロール下に置かれることになるよ。


◆1650年~1760年のアジア

―この時期には寒かった気候がいったん持ち直し、各地で「開発」がすすみ、人口が増えていく時代だ。日本でも今まで田んぼのなかったところにさかんに新しく田んぼがつくられるようになっている(注:新田開発)。


技術が発展したっていうことですかね?

―文字の読める人が増え、新技術が広まりやすくなったことも大きいね。東アジアは人口密集地帯が多いから、マンパワー(人の力)に頼ったところが大きいかな。お米は小麦に比べ、狭い面積で育ててもたくさんの人を養えるだけの収穫が見込めるからね。


収穫が増えれば、商業も盛んになりそうですね。

―そうだね。日本各地を結ぶ貿易ルートが整備され、大商人が特産品を仕入れて全国に売り出し「ご当地ヒット商品」も数多くできる。
日本には、沖縄にある琉球(りゅうきゅう)王国を通して、中国や東南アジアの特産物も流れ込んでいたんだよ。


あれ? 日本は「鎖国」(さこく)していたんじゃないんですか?

―実は日本は外国との関係を100%閉ざしていたわけではなく、主に4か所の窓口が開かれていたんだよ。
 青森からは北海道のアイヌ。
 福岡の北にある対馬(つしま)からは朝鮮。
 長崎ではオランダと中国。
 鹿児島を通して、沖縄。
 窓口の所在地には外国の事情に詳しい支配者が置かれ、国の管理下で貿易が行われていたんだ。


日本は「国」というまとまりがちゃんとしていたんですね。

―南アジアや西アジアに比べると、東アジアでは「陸の政権」が「海の交易」をしっかりコントロールしようとする傾向があるね。

中国はというと、当時中国の北にいた女直(じょちょく)という民族が、モンゴル人を味方につけて中国の皇帝(注:清(しん))に即位していたでしょ。この女直に滅ぼされた前の皇帝一族(注:明(みん)の皇室)は、「返り咲き」を夢見て南のほうに逃げていたんだよ。


中国の南の方には港町がたくさんありますから、経済力がありそうですね。

―そういうこと。だから海の商業勢力と結びついて延命しようとしたわけ。
 前の皇帝一族が建てた亡命政権(注:南明(なんみん))の中には、当時東アジアの海でインターナショナルに活躍していた武装民間商人グループ(注:鄭氏)と手を組み、女直を中国から追い出そうとした人もいた。


ダイナミックですねえ。

―そこで女直人の皇帝(注:清の康熙帝(こうきてい))は、この武装民間商人グループのアジトであった台湾(たいわん)を攻撃し、占領することに成功。前の皇帝一族を完全にやっつけることに成功したんだ。海賊グループのリーダー(注:鄭成功)はお母さんが日本人だったから、徳川幕府にSOSを求めたんだけど、既読スルーされてしまった。幕府としては海賊なんてもってのほかだし、清との無難な関係を重んじたわけだ。


そんなことがあったんですか!
でも女直人が、圧倒的多数の中国人を支配するのって大変じゃないんですか?

―その通り。
 だから、甘くするところはそれなりに甘く、でも厳しいところは徹底的に厳しい態度を見せて、批判が出ないようにおさえこむんだ。「女直人に協力すれば有利になるぞ」と、中国各地の有力者たち(注:郷紳(きょうしん))をうまーく取り込んだわけ。
税のとり方をシンプルにしたこと(注:地丁銀制)も好評だったし、この時代に導入されたアメリカ産の野菜(トウモロコシやジャガイモ)の導入によって食料増産が可能になって人口も1億人から3億人にまで増えたことも追い風となった。


えっ、増えたら増えたで大変そう。

―たしかにね。山の方まで開発が広がった結果、土砂災害なども起きやすくなった。国の領土もかなり広がって、現在の中国の領土よりもちょっと広いくらいのエリアまでになったよ。庶民の文化も発展して、小説(注:『こうろうむ』)から人生論まで様々な書物が出回ったんだ。


海外貿易は認められていたんですか?

―皇帝は「海賊」対策のため、貿易ができる場所を4か所に限定した。
 ヨーロッパ人の進出を防ぐ意味でもあったんだよ。


そのころの日本と一緒じゃないですか

―そう。日本の鎖国は同時代の中国、朝鮮もやっていたことだから、珍しいことではなかったんだよ。要するに「出入国管理しますよ」だからね。

これを嫌った中国南部の商人たちは、こぞって東南アジアに移り住んでいった。東南アジアに今でも中国系の人たちがたくさん住んでいるのは、これがルーツなんだ。「仮住まい」という感覚で、故郷との精神的・経済的な結びつきは非常に強かった(注:華僑(かきょう))。


そうなんですか?東南アジアに中国人?

―これは行ってみないと実感としてはわからないかな。東南アジアでは有力な政治家や実業家には中国人が多いんだ。東南アジアでビジネスをやろうと思ったら、英語・現地語だけでなく中国語がわかればなお便利だ。

で、そんなところに食い込んでくるのがヨーロッパ諸国の商人だ。中国との貿易を求めて盛んに来航するようになり、皇帝は中国の南にある広州(こうしゅう)という港限定で、免許を与えられた民間商人組合(注:公行(コホン))を通すなら貿易してもいいってことになった。


中国の貿易は、皇帝に「あいさつ」する形での貿易が基本じゃなかったでしたっけ?

―「朝貢(ちょうこう)貿易」のことだね。伝統的にはそれが基本だったんだけど、特別な場所で貿易が認められるケースは今までもあったんだよ。


◇1650年~1760年のアジア  東南アジア

―東南アジアでは貿易の利益を握った王国が、各地で栄えている。
 そこに先ほど説明したように中国商人が拠点を東南アジアに移していく。中国人は現地の政権に協力し、みずから政権を建てる例すら出てくるよ。

前の時代にはヨーロッパ商人が、高級スパイスを求めて、武装して拠点を奪おうとしていましたよね。

―そうそう。でもスパイスっていったって、時間がたればそりゃ飽きられるし、珍しくもなくなる。この時代には価格が暴落し、もうからなくなったオランダは島の支配に目を向けるようになる。

何するために?

―熱帯の土地柄を生かして、お金になる作物を栽培して稼ごうとしたんだ。
 そのためにオランダは、「新規参入」組であるイギリスを追い出し、現在のインドネシアの島々に支配地域を広げていく。
 貿易から支配への方針転換がはじまったわけだ。
 この地を支配していたイスラーム教徒の王様たち(注:アチェ王国、バンテン王国、マタラム王国)は次第にオランダの言うことを聞かざるをえなくなり、コーヒーやお米を輸出向けに栽培させて利益を上げようとすることになる。

ヨーロッパの支配は東南アジア全体に及んだのですか?

―まあ「支配」といってもこの頃のヨーロッパには、まだまだアジアの国々を支配できるだけの経済力も軍事力もない。特に大陸側の東南アジアでは、ビルマ(注:トゥングー朝)、タイ(注:アユタヤ朝)、ベトナムにあった王国が貿易ブームの恩恵を受けて絶好調のままだ。


◇1650年~1760年のアジア  南アジア

南アジアにはムガル帝国というイスラーム教徒を支配者とする国が領土を広げていましたね。


―そうだね。
貿易が盛んで、ヒット商品だった綿織物はさかんに各地に輸出された。
東アジアの中国や日本に比べると、海の世界の支配にはそんなにこだわりがない。商人と商品に税金をかければそれでよし、という感じだ。

皇帝はイスラーム教徒だったけど、ヒンドゥー教徒に対して手加減をしていたんですよね。

―そうそう、現実的な支配を心がけたんだね。そりゃヒンドゥー教の人たちが圧倒的に多いわけだから手加減しなけりゃ怖いもんね。
 インドの建築様式を取り入れたタージ・マハルという巨大なお墓(皇帝の奥さんの墓)からも、インドの文化を柔軟にとりいれようとした跡が読み取れる。

えっ、これお墓なんですか?

―どう見ても宮殿みたいでしょ(笑)
でも、その後即位した皇帝(注:アウラングゼーブ)が、マジメにイスラーム教の決まりをヒンドゥー教徒の多いインドで実行しようとしたものだから、収拾がつかなくなった。イスラーム教徒ではないヒンドゥー教徒からも税(注:人頭税)を取り立てようとして、ヒンドゥー教徒の反感を買ってしまったんだ。
 これがもとで各地のヒンドゥー教徒が反乱を起こし、帝国はバラバラに。
 その影で、東南アジアの支配をあきらめたイギリスが、インドを支配しようと沿岸の港町をゲットしていっている。同じくフランスも貿易の拠点をつくることに必死だ。


インドではフランス語じゃなくて英語が通じますから、結局はイギリスが買ったわけですよね。

―おっ、歴史的に逆算できているね!
フランスを武力で破ったイギリスは、インドの支配をほぼ独占することになるんだ(注:プラッシーの戦い、カーナティック戦争)。
ただしこの頃のイギリスは、アジアの貿易を民間の貿易会社(注:イギリス東インド会社)に任せていた。「ビジネス独占権」とそのために必要な権限を与えるから、ロンドンの本社の指示に従って動きなさい、っていうスタンスだ。



◆1650年~1760年のアフリカ

―アフリカの国々にはヨーロッパ人の商人が奴隷や象牙、金(ゴールド)目当てに進出している。

ヨーロッパの国々は植民地を作らなかったんですか?

―熱帯特有の病気にかかる心配もあるし、地理的知識も経済的余裕もなかったから本格的な植民地化はまだだ。
だけど、温暖な気候である南アフリカには、オランダ人が植民地(注:ケープ植民地)をつくっているよ。

温暖っていってもわざわざそんな南の果てに作る意味…。

―当時ヨーロッパからアジアに行くにはアフリカの南端を通る必要があったんだよ。アジアに行くには少なくとも一度は陸に上がって、補給や療養、風待ちをする必要があった。南アフリカはその絶好なポイントにあったんだよ。

なるほどー。では、西アフリカはどうですか?

―サハラ砂漠からナイル川に向けた貿易ルートには、ハウサ人という民族がいくつも国をつくっている。各地の王様が貿易の富を独占して栄えたんだ。今でもナイジェリア周辺でハウサ語は、ビジネスにとって欠かせない言葉となっているんだよ。

 海岸近くでは相変わらず奴隷をヨーロッパの商人に売り渡ししていた王国んも栄えているね(注:ベニン王国など)。


アフリカ人がアフリカ人を奴隷として売っていたってことですか。

―アフリカにもさまざまな民族がいるからね。悲劇だよね。
 西アフリカの遊牧民(注:フラニ人)の中には奴隷貿易に反対し、イスラーム教の“正義”の下で広い地域をまとめようとする運動も起きるようになっているよ。


北アフリカはどのような状況ですか? 


―オスマン帝国の影響力がどんどん弱まっている。代わって、地元(注:モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプト)の有力者が各地で勢力を強めている状況だ。


◆1650年~1760年のヨーロッパ


―この時代のヨーロッパは「17世紀の(全般的)危機」ともいわれるとっても「スランプ」にあたるんだ。

どうしてですか?

―気候が寒くなったことが無視できない原因だ。あれだけ盛んだったアジアの貿易も不振となり、「宗教がらみの戦争」(注:宗教戦争)が各地で猛威を振るう。

「宗教」ってキリスト教とイスラーム教の争いですか?

―ううん、キリスト教同士の争いだよ。

ああ、前の時代にキリスト教同士の「内輪もめ」(注:宗教改革)が起きていましたね。まだ続いてるんですか。

―そうそう。ローマのキリスト教会(注:ローマ・カトリック教会)が儀式を重んじる態度に対し、『聖書』や信徒の自主性を重んじるグループが異をとなえ、その流れにローマのキリスト教会からの「口出し」を嫌う各国の支配者が乗っかったんだったね。

どうしてローマのキリスト教会は他国に口出しなんてするんでしょう?

―ローマのキリスト教本部は、国なんて関係なく「全世界」のキリスト教を目指していたんだよ。「人類みな兄弟」ってわけだ。

でもこの時代、各国の支配者は自分の「国」を単位とする意識を強めつつあった。アジアとの貿易においても、「他国の船なら沈めてもいい」っていうスタンスが取られていたよね(注:私掠船)。

具体的にローマのキリスト教会は、各国にとって何か不利益になることをしていたんですか?

―ローマのキリスト教会は、信徒から税(注:十分の一税)を徴収するだけでなく、権力者からの寄付によって広大な土地や財産を持っていたんだ。そういった土地で得られた収入はローマの本部に吸い上げられてしまって、その国の支配者がコントロールすることは難しかった。

なるほど、そんなのおかしいって話になるわけですね。

―領域内の土地・人々を一括支配しようとした当時のヨーロッパの君主たちにとっては、許せなかったわけだね。そういうわけで「自分の国限定」のキリスト教」をバックアップするようになっていたんだ。
 だから、一見「宗教」と「宗教」の争いのようにみえるけど、実のところは「国」と「国」との争いというわけなんだ。

現在の「国」との違いはありますか?

―いちばん大きな違いは、「国民」は「国」の持ち物だっていうことだね。
 「国民」には、国に関する最終決定権(注:主権)なんてないし、支配者を縛るルール(注:憲法)もイギリスを除いて存在しない。
 「国」は一部の王家や貴族が運営するもので、由緒正しい王家がいくつもの国の支配者を掛け持ちしていることだってある。

ややこしいですね。

―「君主には、それにふさわしい血筋の人物がなるべきだ」っていう考えがあったわけだね。
でも、そんなことやってると「後継ぎ争い」も起きるし、どの宗教を採用するかをめぐっての争いも起きる。国民の宗教なんて関係ないわけだからね。


君主の宗教が、そのまま国の宗教になったりするわけですね。

―そう。「俺の宗教はお前の宗教」っていう原則だ。

国民を神社や仏教のメンバーにさせて厳しい宗教統制をやっていた日本とも、合い通じるところがあるでしょ。

フランスのように個人の信仰が認められていた(注:ナントの王令)ところもあったけど、弱小民族にとってはそんな選択権はまだない。
この時代、ドイツ系の名家(注:ハプスブルク家)の支配地である現在のチェコ(注:ベーメン)で、宗教の押し付けの絡む民族運動が起こった。
この案件について周辺各国(注:フランス、デンマーク、スウェーデン、ドイツの諸国など)が自分の国の損得ばかり考えて行動した結果、ヨーロッパ「史上最悪の戦争」(注:30年戦争)へと発展してしまう。戦場となったドイツは破局的な影響を受けた。

あらら…。

―人間って「たくさん人が死んで、それで初めて反省する」んだよね。ようやく「どうしたら平和がつくれるか」ということが意識されるようになったんだ。

時代が移り変わる中で、みんなその変化が理解できなかったんでしょうね。
―どんなルールが構築されたかというと、「人様の国の中で起きているケンカには口出ししない」「ケンカが起きたら、関係各国の国が集まってミーティングをし、取り決めを決める」「普段から国と国との間に外交官を送り合って関係を取り合う」といったものだ。

えっ、それって当たり前ですよね?

―そう、今では当たり前の国際関係が、この時期のヨーロッパで形成されていったわけだ。
ってことは、現在の国際関係のルールは「ヨーロッパ産」っていうこと。ヨーロッパでは成り立つことができても、ほかの地域で成り立つとは限らないよね。

それに時代が変わっても成り立つとは限らないかもですね。

―まさに今、変化に対応しきれない部分が、たくさんの問題となっていると言えるかもね。
 
ただ、一口に「ヨーロッパ」といってもこの頃には地域によって大きな差も出ていることにも注意したい。

 例えば西のほうのヨーロッパでは、王様が大商人の富を利用しつつ、あの手この手で強い国(注:絶対王政)をつくろうとしている。イギリスやフランスが代表例だ。

 東のほうのヨーロッパは、なかなかそういうわけにはいかないね。
西ヨーロッパが工業・商業に特化していくのに対応して、そこに農産物・鉱産物を提供する役回りになっていくんだ。
例えばロシアが西はバルト海沿岸(注:北方戦争でスウェーデンから獲得した)、東はアジア(注:シベリア)のほうまで領土を広げているよ。バルト海はヨーロッパの北にある海で古くから貿易が盛んなエリア。
周辺のスウェーデン、ポーランド、ロシアが支配権をめぐって争った結果、ロシアが勝者となる。

ポーランドってロシアと張り合えるほどの国なんですか?

―今とは比べものにならないほど巨大な国(注:ポーランド・リトアニア)だったんだ。でもこの時期になると、西からはドイツ人、東からはロシア人に挟まれて、しだいに衰えていくことになる。国の大部分が真っ平らな平野だから、外からの侵入を受けやすいことが弱点だったんだ。


東ヨーロッパではドイツ人の力はどうなんでしょうか?

―ドイツ人の国として「プロイセン」と「オーストリア」という新興国が成長している。だけど、「ドイツ」というまとまった国はまだないよ。

どういうことですか?

―「ドイツ語」を話す人の住む地域を「ドイツ」ということにすると、その地域をカバーしていたのは神聖ローマ帝国という国だね。でも、当時の神聖ローマ帝国はもはやいくつものドイツ人の国があつまったグループのような存在。皇帝は「名誉会長」のような存在だ。
でも、由緒はあるから威厳はある。ローマの教会と提携してキリスト教徒の世界をまとめるんだという意識高き理想」もある。

 しかし、実際に当時の神聖ローマ帝国の皇帝(=「名誉会長」)を務めていたのはオーストリアの支配者だ。


オーストリアはどんなところを支配していたんですか?

―発祥の地はイタリアの北のアルプス山脈の東部。へんぴなところに城を構える小国だった。それがこの時期、地中海からアラビア半島に付け根のほうにまたがる巨大な国をつくっていたオスマン帝国から、ハンガリーを取り返すことに成功し、じわじわ領土を広げていくんだ。
 オーストリアは、このハンガリーだけでなく、チェコというところの王様の位も兼任し、名実ともに一大勢力になっていく。


じゃあ、その勢いでドイツをまとめちゃえばいいじゃないですか。


―うーん、それだけじゃ他の国がオーストリアのいうことを聞いてくれるとは限らないんだ。ライバルがいるからね。
その代表がプロイセンだ。戦争を2回もおこない、領土を取り合った(注:オーストリア継承戦争、七年戦争)。「どちらが最強のドイツ人の国か」をめぐって争っているんだね。

 でも「どっちもどっち」のところもある。産業は盛んではないし、土地にしばりつけられた農民(注:農奴)もまだまだ多い。


えっ、まだそんな人たちがいるんですか。

―西ヨーロッパ向けの農産物を輸出するのに都合が良かったんだ(注:グーツヘルシャフト)。
ただ、この時期には国をまとめるために、「先進国」のイギリスやフランスの最新思想をとりいれて、支配の方法を改善しようとする支配者も現れるよ(注:啓蒙専制君主)。もちろん「自由」や「平等」のような、支配に都合の悪い考え方までは取り入れないけどね。


イギリスやフランスはそんなに進んでいたんですねえ。

―平和な世の中だったとは限らないけどね。
 イギリスでは政治的に落ち着かない時期が続くけど、この時代に「王様が無条件に偉い!」という考え方は否定され、「王様よりも議会の決定のほうが上!」という慣習が定着した(注:立憲主義)。

フランスはこの時期インドに拠点をもうけ、北アメリカ大陸にも進出するなど、精力的に外に出ている。
国家が主導して貿易会社(注:フランス東インド会社)を振興したり、産業を盛んにしようとする取り組みも実行に移された。
でも、それにともなって海外ではイギリスとフランスの植民地取り合い合戦が100年続き、結果的にフランスは敗北することとなってしまう(注:英仏百年戦争)。


なぜそんなに差がついてしまったんでしょう?

―簡単にいえばイギリスは、国民からきっちり税をとる能力が高かったので他の国からの信用が高く、イギリスにお金を貸してくれるお金持ちは国内外にたくさんいたんだ。「イギリスにお金を貸せば必ず多くなって戻ってくる」という期待も高かった。
 それにこの時代のイギリスではとっても効率よく農業を行うテクノロジー(注:農業革命)が開発されて食料の増産ができるようになり、みんながビジネスに専念できるようになった点も大きいよ。

 国民の稼ぎが増えれば税金も増えるし、税金が増えれば軍隊を強くすることもできる。強くした軍隊でオランダやフランスと戦い、この時期には広大な植民地を世界中に獲得することになるんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊