見出し画像

6.2.5 宋代の文化 世界史の教科書を最初から最後まで

唐代(「唐の時代」という意味)を代表する陶磁器(セラミック製品)は、唐三彩(とうさんさい)とよばれる。カラフルで、具体的な人や動物をデザインしたものが主流だった。

画像1

しかし宋代(「宋の時代」という意味)になると、デザインはシンプルなものに変化。

iPadのようなでツルツルで真っ白い材質をもつ陶磁器(白磁(はくじ))が人気を博した。

画像2


河北にある定窯(ていよう)でつくられた白磁がやわらかいトーンで知られるように、地域によってさまざまな特徴がみられるよ。


ほかにも鉄を含んだコーティングをほどこすことで青みがかった風合いを出した青磁(せいじ)も主要な特産品となり、日本、東南アジアはおろか、西アジア方面にも輸出された。

画像3

これら宋代の陶磁器には、ごてごてした装飾が少なく、すっきりと「理知的な美しさ」がみて取れる。


それはいろんな機能や表示の付いた「ガラケー」と、「Apple」の違いのようなもの。
スティーヴ=ジョブズ(1955〜2011年)が東洋の思想に興味を持っていたように、宋代の知識人たちは「この世の真実は、外見によってはわからない。目には見えない奥深いところに、この世の本当の真実は隠されているのだ」という考えを共有していた。



儒学をマスターした人々が科挙を通して皇帝の役人として採用されるようになり、彼らが自分たちの「社会的ステータス」を示すため、「儒教に隠された本質」を、アートや思想をつうじて表現することがブームとなっていたんだよ。

彼らエリート層がこぞって支持したのは、儒教を哲学的に解釈する北宋時代の周敦頤(しゅうとんい、1017〜73年)の学説だ。

『五経』をいくら個別にこまかく字句解釈しても、意味はない。
テキストの裏に隠された、神羅万象、宇宙の全ての本質((リィ;り))にいたるメッセージを読み解くことに意味があるのだ。

とする彼の理念は、南宋時代の朱熹(しゅき、1130〜1200)に受け継がれた。
このようなタイプの儒教を「新儒教」(ネオ=コンフューショニズム)といったり、朱熹(しゅき)先生が大成したことから「朱子(朱 先生)」といったりする。
朱熹は、こう考える。

「宇宙の本質」()をきわめなければ、道理などわからない。
また、理をきわめるには、対象に対する「」をもたなきゃいけない。

よくわからないね(笑) 

彼は幼い頃から「宇宙に果てはあるか」といったテーマについて思索をしていた哲学少年。
仏教の禅に興味をもったものの「出家することなく、世間の中で人間力を高める方法を知りたい」と思い直し、儒学の総合的な理解をはじめる。

人は学べば、だれでも孔子さまのような聖人になることができる。

聖人とは、自分の欲望に従いながらもルールからははみ出ることのない、人間性が完成された人のこと。

そのためには、自分の中にあるごちゃごちゃした質を変化させる修行が必要じゃ。

この「居(きょけいきゅうり)」の姿勢を身につけて初めて、
人生や儒教の経典などあらゆるものごと(物)について徹底的に知り尽くす(至る(格る))長い長い ”学びの旅“ に向かうことができるようになる(格物致知)。

大変そう?

なーに、心配することはない。

誰の「心」にも、もともと「(宇宙の心理)」はインストールされているんじゃから。

」(感情)にまどわされず、自分の「」にそなわる「」に耳を傾けてごらん。

「むかつく」とか「ゆるせない」といった感情から、「親孝行」や「忠誠心」のような当たり前の「理」を失ってやいないじゃろうか? (この考え方を「性即理」という)

さあ、理解したら、ただひたすら儒教の聖人たちの記したテキストをよもう。

五経(ごきょう)とよばれるテキストだけじゃない。

それ以外にも、大事なヒントが隠されているぞ。
とくに『論語』『孟子』『大学』『中庸』が良い。
この四書を使って、これからは積極的に学んでいくべきじゃ!

こうした新しい考えを組み上げていった朱熹は、貧しい農民を救う活動にも従事。
哲学的方法ばかりでなく社会をよくする実践も、積極的におこなった。
64歳で、皇帝の家庭教師(侍講)にまでのぼりつめたけれど、「朱熹の考えはデタラメだ」という烙印をおされて45日でクビに。
批判を浴びる中、70歳でその生涯を閉じた。


しかし彼の「修己知人(しゅうこちじん)」(人の上に立つ人は、道徳的に立派な人であるべきだ)という考えは、死後再評価され、中国では元・明の時代に「国教」となる。

民衆にも教えを広めることで社会のモラルを高めようとした役人たち(士大夫)の政策にもフィット。

さらに「大義名分論」(中国人>野蛮人、皇帝>臣民、父>子の序列を守るべきとする考え)北方民族におされぎみだった宋のプライドを保つ役割を果たしていたことが挙げられる。

やがて朝鮮や日本にも受け継がれ、両国では国民の間に現在にいたるまで「守るべき価値観」として根付いていくよ。


ちなみに日本の多くの小学校に建てられている二宮金次郎が読んでいる本は、四書のひとつ『大学』だ。




このような ”新儒教ブーム“ を背景に、中国では歴史に例をとりながら皇帝の支配にアドバイスする本も書かれた。
士大夫の司馬光(しばこう)の著した『資治通鑑』(しじつがん)だ。

また、儒学の素養のある役人たちは、自分の教養を示すためにこぞって「唐代のスタイルの文章」を書きあらわした。


唐代といえば、中国が宋よりももっと広く、周辺諸国に対する威厳も高かった時代。
Make China Great Again(強い中国をもう一度!)という気持ちが生まれたわけだ。


欧陽脩(オウヤンシウ;おうようしゅう、1007〜72年)や

画像5

蘇軾(スーシー;そしょく、1036〜1101年)のような文章のうまい人々が、その才能をもてはやされた。


そして、知識人たちは文章だけでなく、「アート」の素養も求められた。しかも華美で豪華な絵ではなく、水墨あるいは淡い色の筆づかいで書かれた「文人画」が大流行。さきほどの蘇軾は超一流の文人画アーティストとしても有名な”何でも屋“だ(ちなみに中華料理トンポーローの考案者とも言われる)。


画像4

写真のように現実を切り取った絵よりも、現実そのものを作者の心で解釈し、その心の風景を絵であらわすという、なんとも奥深いスタイルがもてはやされたんだ。
「目では見えない、自然の奥深さ」ーそこに自然の本質があるというわけだ。
一見単に風景を観察しているようで、実は「胸の中にある竹のイメージ」を墨一色で描きあげる文人画は、ルールはシンプルだが、とても奥深い芸術だ。


もちろんそんな高尚(こうしょう)な文化なんて、一般庶民にとってはおもしろくもなんともない。
宋の時代に勃興した商工業者や地主たちの間では、小説や雑劇、それにメロディーに合わせて歌うこともある「(ツー;し)」が大流行するよ。


なお、中国社会に根付いていた道教は、金(きん)の支配する華北で、仏教や儒教などの考えとの調和をはかる「全真教」(ぜんしんきょう)として改革された。開祖は王重陽(1113〜70年)という人。


今でも中国の道教のお寺は、この「全真教」系のグループと、南部に多い「正一教」系のグループに分かれているんだよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊