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9.1.1 重商主義政策 世界史の教科書を最初から最後まで

さて、16世紀(今から500年ほど前)から「近世」(きんせい、初期近代)という時期に入っていたヨーロッパ。

とくに西ヨーロッパでは、これまでの地域ごとにバラバラの領主が支配する社会から、国王が「ある地方をまるごと統一的に支配しよう」とする時代へと移行していく。



そのための財源は、アジアとの直接貿易やアメリカ大陸との直接貿易・植民地化によって調達された。




しかし17世紀前半から成長スピードは鈍化。半ばには「17世紀の危機」と呼ばれる、不作・災害・疫病・戦乱だらけの時代に突入した。

これから見ていくのは、この17世紀半ば(今から350年ほど前)から18世紀後半(今から250年ほど前)までの「近世の後半」だ。

約100年のあいだ、諸国はその国の「経済」(商品の生産と輸出入)に積極的に介入。

国王はまるで“自分の預金通帳”をながめるかのように経済を気にし、貿易や商業を盛んにすることによって自国の富を増やすことができるかを考えた。

こうした政策を「重商主義」というよ。

具体的な内容は国や時代によってもさまざまだ。


まずは、16世紀のスペインのように「金や銀をたくさん持ってきたもん勝ち!」という素朴な考え方(重金主義(じゅうきんしゅぎ))にはじまる。
その後、「金銀を持ってくるだけじゃやがて価値は下がる。産業を盛んにし、輸出額>輸入額 となるようにすれば国は富む!」と国際収支(国に入ってきた収入ー国から出て行った支出)を改善する考え方(貿易差額主義)に移っていくこととなった。

貿易差額主義をとった代表例がフランス王国だ。
17世紀後半に財務総監コルベールが東インド会社を再建し、アジアの物流ルートを握ろうとした。

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しかし、「単に輸入ばかりしていては富が出て行ってしまう。産業を盛んにするべきだ」と、国王が保護する大工場を建設し、ここで繊維製品などを大規模に生産させた。
これを特権マニュファクチュアという。

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パリに残るゴブラン織の工場の跡

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ゴブラン織



イングランド王国でも、17世紀半ばに商工業者が主体となって政治体制を変革する動き(いわゆる「イギリス革命」)が起きる。



商工業者たちは「外国製品が入ってくると、自分たちの作った物が売れなくなる」と、輸入品を規制する政策を支持。

これを「国内産業の保護政策」という。


しかし、そうは言っても国内のマーケットにも限界があるよね。

そこで、国外のマーケットを獲得するために、しだいに求めるようになったのが海外の植民地だ。

17世紀の後半移行、イングランドやフランスがこぞって海外に植民地を求めるようになっていくのはこのためだ。



すると、これまでなら考えられなかったことだけれど、アジア、北アメリカやカリブ海などを主戦場に、イングランドやフランスが植民地の取り合いのために戦争を繰り返す時代がやって来た。

かつての百年戦争を第一次と見て、この時代の英仏間の戦争は「第二次」英仏百年戦争と呼ぶことがある。





海外にあたらしいマーケットを獲得すれば、新たな利益が生まれる。
また、原料を供給する場所としても利用価値があるよね。

そういうわけで、17世紀に停滞していたヨーロッパ諸国の経済は、18世紀にかけて“V字回復”を達成。
その裏には、ヨーロッパ諸国と海外との密なつながりがあったわけだ。

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しだいに、ヨーロッパ諸国の上層階級の間には、これまでになかった嗜好品(しこうひん)の消費が広がっていった。

コーヒーハウス(フランスでは「カフェ」)で、「砂糖」入り「コーヒー」を「タバコ」をふかしながら飲む習慣も、この頃の生活の大転換(生活革命)の代表例だよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊