史料でよむ世界史 15.3.2 アフリカ諸国の独立と苦悩
サハラ以北の北アフリカでは、1951年に早くもリビアが敗戦国のイタリアから独立した。
そして1956年にはイギリスとエジプトの支配下にあったスーダン、そしてフランスの支配下にあったモロッコとチュニジアが独立する。
しかし、アルジェリアが独立するには、フランスと厳しい戦争を経る必要があった(アルジェリア独立戦争)。アルジェリアには、植民地化された1830年以降、すでにフランス人の入植者がたくさん暮らしていて、そのことが事態を複雑化させたのだ。
アルジェリアで独立運動を指導した「アルジェリア民族解放戦線」の闘争宣言(1954年)を見てみよう。
泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び、フランス大統領ド=ゴールが第五共和政を成立させることとなった。ド=ゴールは、1962年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込むことになる。
●エヴィアン協定(1962年)
植民地から独立するために、14万人以上のアルジェリア人が犠牲となった。
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独立の波は、さらにサハラ以南のアフリカ(サハラ砂漠より南に位置するアフリカのことを「さはらいなんのあふりか」とか「ブラック・アフリカ」と呼ぶ)にまで波及する。
1949年に設立された会議人民党による独立運動の結果、1957年にンクルマ(エンクルマ、1909~72。在任1960~66) がガーナをイギリスからの独立に導いた。
当時の映像から、その熱気を感じ取ってみよう。
●独立宣言(1957年)
エンクルマが、ガーナの独立を「アフリカ全体の解放」につなげようとする思いを抱いてことがわかる演説だ。
●ガーナの会議人民党の綱領
黄金海岸(ゴールド・コースト)というのは、植民地時代のガーナの呼び名だ。
さらに1958年にはギニアが独立している。
そして、1960年、じつに17カ国が独立を達成。この年は「アフリカの年」と呼ばれる。
しかし、独立は新たな悲劇の始まりでもあった。
1960年にはコンゴ動乱(銅資源の眠るコンゴの独立後、ベルギーが反政府勢力を支援し、内戦となった)が勃発したのだ。
これは独立したコンゴ共和国の南部(カタンガという州)に眠る鉱産資源に目を付けたベルギーが、南部の反政府勢力を支援し、政府をたおしてしまうという、とんでもない事件。
動乱に先立ち、コンゴ共和国の初代首相のパトリス=ルムンバさんが、1960年6月30日の記念式典でおこなった、希望に満ちた演説を見てみよう。
しかし結局ルムンバは逮捕され、殺害。その後、南部カタンガを支援する国軍のトップであるモブツがクーデタを起こし、大統領に就任した。彼の背後にはアメリカ合衆国の支援があった。
▼モブツ
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このように独立後も、天然資源をめぐって先進国が介入する事例は後をたたなかった。アフリカに地下資源が豊富に分布することが貧困の原因であるとする意見もある。
ソ連グループとアメリカ合衆国のグループは、「近代化をしてあげる代わりに、資源をちょうだい」「援助をしてあげるから、いうことを聞いてね」と、アフリカ諸国に擦り寄っていく。
植民地からせっかく独立したのに、結局「上下関係」が温存される形となったのだ。
これに対し、アフリカの独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立し、一致団結して独立をみんなで守ろうとする(本部はエチオピアの首都アディスアベバに置かれた)。
●アフリカ統一機構の憲章の諸原則(1963年)
しかし、足並みはしばしば乱れ、しだいにソ連やアメリカの「冷戦」構造に巻き込まれていくこととなる。
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もちろん、アフリカ諸国の中には、ソ連やアメリカの経済手法をそのまま導入するのではなく、それらを元にしつつ独自路線を歩んだ国々もある。その代表がタンザニアだ。
タンザニアの「建国の父」ニエレレの言葉に耳を傾けよう。
●ニエレレによる『ウジャマー社会主義―アフリカ社会主義の基礎』
しかし、このウジャマー村の試みによって生産がかえって停滞し、1980年代には挫折してしまった。
「近代化」を進めようとしても、いつまでたっても発展しないアフリカ。
なぜ、そうなってしまうのか。
1960年代には、次のような学説が一世を風靡(ふうび)した。
これを従属理論という。
従属理論は、70年代末には歴史社会学者〈ウォーラーステイン〉(1930~2019年)による「世界システム論」に発展。
「北側(中核)が中心になって、南側(周辺)の国々との間に主従関係のような経済のしくみが生まれ、それが世界中に広がった。このしくみにおいては、北側は経済発展するが、南側はいつまでも低開発(underdevelopment)の状態にとどまってしまう」というものだ。
特にアフリカは、植民地時代のモノカルチャー制度が残り、環境が破壊され、産業も未発達のまま。
さらにさかのぼれば、大西洋の奴隷貿易によって、労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも、傷跡として残っていると考えられた。
こうした構造を是正するため、国連が動く。
1964年に南側諸国が主導して国連貿易開発会議(UNCTAD、アンクタッド)が設立され、南北格差を是正するため不平等な国際分業体制を改める動きがはじまった。
なお、1975年には、ポルトガルで独裁政権が終わったことから、モザンビーク、アンゴラ、サントメ=プリンシペ、ギニアビサウがポルトガルから独立している。
アフリカでは、「植民地時代に民族の分布を無視した国境線が引かれたために、民族紛争が起きている」という説明がよくなされる。しかし、複数の民族が分布しているからといって、その国で常に紛争が起きているわけじゃない。
紛争の背景には植民地統治に起因する教育水準の低さ、政権による政策決定の誤り、冷戦対立の構図、資源をめぐる大国の進出による民族同士の分断など、さまざまな要因があるのだ。
ちなみに、エジプトでアスワン=ハイ=ダムが建設された際、水没の危機にさらされた古代エジプトの遺跡を守る活動が呼び水となり、
UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の総会で世界遺産条約が締結され、1978年には初めての世界遺産の認定が行われた。
人類誕生の地 アフリカにいて、人類や地球の生み出す普遍的な価値を地球人の “共有財産”として守っていこうという動きが、始まったのだ。
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