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2.3.7 漢代の政治 世界史の教科書を最初から最後まで

漢王朝の皇帝に就任した劉邦(りゅうほう;リウバン、諡号(→参照 3.3.1 隋の統一と唐の隆盛)は高祖(こうそ;ガオズー))は、秦(しん、チン)の都であった咸陽(かんよう、シエンヤン)の近くに長安(ちょうあん、チャンアン)という新しい都を建設。
ちょうど現在の西安(せいあん、シーアン)にあたる。


漢王朝は国の組織を編成するにあたって、秦の制度に多く学んだよ。


でも、秦の“しくじり”を教訓にすることも忘れない。

厳しすぎる支配が、各地の反抗を招いたわけだからね。

そこで、中央から地方に一律に役人を派遣して直接支配する郡県制というトップダウンの支配体制を、マイナーチェンジすることにした。

都の近くには直接派遣するけれども、遠くの土地ではその地方の支配層に土地を代々継がせ、支配を任せることにしたんだ。前者を郡「県」制、後者を封建制といい、これをミックスさせた制度を郡「国」制という。いわば折衷案だ。

しかし、皇帝の本音としてはそりゃあすべての土地を直接統治したいところだよね。


のち景帝(けいてい)の治世のとき、景帝が劉氏一族以外の諸侯の土地を没収しようとしたため、呉王などを中心に激しい反乱が勃発した。
前154年の呉楚七国の乱だ。せっかくもらった土地を取り上げるなんて言ったら、怒るに決まってるよね。


結局反乱は鎮圧され、封建制がとられていた地方にも郡県制が導入。実質的には秦の時代の郡県制と変わらない支配体制が確立されることとなったよ(実質郡県制)。

注目すべきは第7代の武帝(ぶてい、ウーディ、在位前141〜前87)という皇帝だ。

漢武帝

彼は戦争によって領土を広げようとし、北方の騎馬遊牧民の匈奴(きょうど;ションヌー)を撃退。
さらに、匈奴のライバルであった同じく騎馬遊牧民の大月氏(だいげっし、ダーユエジ)と同盟を結ぼうとして、張騫(ちょうけん;チャンチェン、?〜前114)を、西のオアシス都市エリアに派遣している。


同盟を結ぶ作戦は失敗したものの、シルクロードのど真ん中タリム盆地一帯の超重要拠点にあるオアシス都市を支配下におさめることに成功。
シルクロードを東西に行き交う商人たちの富をねらったのだ。



また朝鮮半島方面では、漢のいうことを聞こうとしなかった衛氏朝鮮(えいしちょうせん)という中国人のたてた国を滅ぼし、支配のために代わりに楽浪郡(らくろうぐん;ルーラン ヂィン)を設置している(なお、当時「衛氏朝鮮」は単に「朝鮮」と呼ばれており、彼らの自称ではなかった)。


南方では越人による南越という王国を制圧し、ベトナム中部にまで支配エリアを広げたよ。

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「東西南北」の全方位にわたってここまで大規模な軍事行動をすれば、当然財政的には厳しくなるよね。

武帝は、役人の意見を取り入れて、塩・鉄・酒の国以外の販売を禁止(塩鉄酒の専売)。

さらに大商人による利益や流通網を独占していることが、物価上昇の原因になっているとして、物価コントロール策(均輸・平準)を実施した。


しかし、武帝が亡くなると、皇帝の側近の発言権が増大。
たとえば、皇帝に仕えるために去勢手術をした宦官(かんがん、ファングワン)たち、

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それに皇帝の后の一族(外戚、ワイチー)が政治に口出しをするようになったんだ。

結局、外戚の王莽(おうもう;ワンマン、在位8〜23)という男が、占いや陰謀によってたくみに漢の皇帝をとりつぶし、自分が皇帝となって新たな王朝である「」(しん;シン)を建ててしまう。

(注)王莽の「莽」という字の「大」のパーツは、本当は「」。

まんまと新の皇帝となった王莽は、「政治の理想は周の時代にある」として、周の時代の政策を次々に導入した。

史料 王莽の土地国有化の命令
漢朝は田租を軽減し、収穫高の三十分の一を徴収したが、つねに労役の代納税があり、病人といえどもみな人頭税を出した。しかも豪族が農民を圧迫し、農地を分けて小作させ、強制的に小作料(十分の五)を奪い取った。
…父子・夫婦で年中耕作しても、その所得では自活するに足りない。それゆえ富者はその犬・馬にさえ菽(まめ)や穀物を食べ残すほど与え、おごって不正を行い、貧者は糟(かす)や糠(ぬか)さえ飽きるほど食べられず、苦しんで悪事をはたらいた。ともに罪に陥り、刑の執行はやむことがなかった。…いま改めて天下の農地を名付けて「王田」(おうでん)といい、奴婢(奴隷)を「私属」といい、いずれもその売買を禁止する。

班固(小竹武夫・訳)『漢書 下巻』一部改変(実教出版『世界史探究』)

儒教を振興させ、儒教中心の国づくりをしようとした意義を評価する見方もできるけど、当時は大きな反発をもたらした。

結局、赤眉の乱(せきびのらん、18〜27。赤く塗った眉がトレードマーク)に代表される農民反乱が勃発。

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新が倒されると、ふたたび漢の一族であった劉秀(りゅうしゅう;リウシウ)が滅んだ漢を復興。
混乱を避けるため、都は長安から東の洛陽(らくよう;ルオヤン)に移した。

これを漢と区別して、
漢という。

しかしながら、せっかく仕切り直したものの後漢はすぐさまいきづまる。

郷挙里選(きょうきょりせん)という“コネ採用”制度によって中央に進出した中国各地の有力者たち(豪族)が、利権をめぐって皇帝側近の宦官や外戚とするどく対立したんだ。

また、武帝以来「国の学問」としてみとめられていた儒教の学者たちが、自分たちの主張を政治の舞台で実現させようと出しゃばり、彼らが宦官らによって弾圧されるという事件も起きている(党錮の禁)。

2世紀末(今から1800年ほど前)には、貧しい農民のユートピアを建設しようとした太平道(太平道;タイピンダオ)という宗教団体によって、大規模な農民反乱である黄巾の乱(こうきんのらん;ファンジンジールアン)が勃発。
黄巾というのは、彼らが味方のトレードマークにした「黄色い布」のことだ。

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混乱は各地に広がり、後漢の軍隊ではどうにもできなくなると、自衛のための軍事集団が各地に出現。
“空中分解”してしまった後漢は、220年に有力豪族の曹丕(そうひ;ツァオピー)に位を“譲る”形を取らされて、滅んでしまう。

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このように、前漢の時代に人口5000万人の大帝国を築いた中国も、3世紀には後漢になると失速。


ちょうどユーラシア大陸の西側で人口5000万人の大帝国を築いていたローマも、3世紀には軍人皇帝が乱立する混乱時代を迎えていたでしょ。




東と西の歴史が同期しているようで、おもしろいね。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊