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3.3.1 隋の統一と唐の隆盛 世界史の教科書を最初から最後まで

南北朝に分裂していた中国を、581年(今から1400年ほど前)に再統一したのは、鮮卑(せんぴ;シェンベイ)の国家につかえた、騎馬遊牧民匈奴にルーツを持つ一族(独孤部(どっこ;ドゥーグー))出身の楊堅(ようけん;ヤンジェン)だった。



もともと北朝の「北周」皇帝の外戚(お妃の一族)という立場であった楊堅は、位を譲らせ、隋(ずい;スイ)を建国。
首都は、かつての前漢王朝が首都を置いた長安に定め、これを大興城(だいこうじょう)とする。

隋は589年に南朝の陳を倒して、南北を統一。
南北朝時代のいろんな制度を参考に、土地を国が管理・支給する均田制(きんでんせい)、そここら税を租・調・庸のカテゴリーでとる租調庸制、国が支給した土地の農民から兵隊をとる府兵制を整備した。

また、「コネ」政治の温床となっていた九品中正をやめて、ペーパーテストを導入。儒教の教養がどれだけあるかを科挙(かきょ、当初は「選挙」)という試験で測ることにした。
まあ、依然として良い家柄は残っていたから、それでも「コネ」はなくならなかったんだけどね。

楊堅には、死後に「文帝」(ぶんてい;ウェンディ)という諡(おくりな)が贈られた。


さて、つづいて即位した楊広(ようこう;ヤングァン)が目をつけたのは、経済の発展していた長江下流部(江南(こうなん))だ。
南北朝時代に漢人が移動し、開発がすすめられていたんだったね。

そのため、なんと長江と黄河を直結させる大運河の建設を命令。多数の農民を危険な土木作業に従事させたんだ。

それに加え朝鮮半島方面で勢力を拡大していた高句麗(こうくり;コグリョ)に対する遠征をこころみるけど、3度ともに敗戦。

この高句麗遠征の失敗をきっかけに各地で反乱がおこったため、隋はたったの30年たらずで滅んでしまったんだ。

そんな楊広は、中国で一二を争う暴君とされ、「楊」の木へんが火へんにかえられて「煬」帝という諡(おくりな)が与えられることになった。唐の歴史書の評価は最悪だ。
けれども彼の命じた大運河があったからこそ、中国は南北統一が深まったのだし経済も発展した。誇張された面もあることは、まちがいないだろう。


その後の反乱の中で頭角を現したのが、隋とおなじ騎馬遊牧民匈奴にルーツを持つ一族の李淵(りえん;リーユェン、高祖)だ。

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李淵は618年(今から1400年ほど前)に隋を倒して皇帝に即位し、(とう;タン)を建国。首都は隋と同じ現在の西安市内の長安(ちょうあん;チャンアン)に置かれた。
碁盤の目のように区画された豪華で宋代な王宮都市は、それ自体、そこが「中華」(世界の中心)であることを示すシンボルとなる。


華やかな宮廷生活の裏には、跡継ぎをめぐる熾烈な争いも待っていた。

権力バトルを勝ち抜き、626年に即位した2代目の李世民(りせいみん;リーシーミン、太宗)は中国を統一すると、さらに北方の騎馬遊牧民の世界を束ねていた東突厥(ひがしとっけつ)を、唐に服属させている。

「こりゃまずいことになった」と周辺諸国では非常事態を意識し、権力を集中させるためのクーデターが勃発。その代表例が、日本における乙巳の変(いっしのへん)と、それに続く大化の改新だったのだ。


さらに649年に即位した第3代の李治(りじ;リージー、高宗(ガオヅォン))は、朝鮮半島の百済と高句麗を滅ぼすとともに、西域のオアシス都市を次々に征服。


コラム 皇帝の名前について
以下、中野美代子氏の説明を引用しておこう。

「なお、以上に挙げた唐朝の諸帝には、〔…〕当然のことながら姓と名がある。李世民・李治のように。太宗・高宗とは、崩じてのち宗廟にまつるための廟号であるから、生存中にこう呼ばれることはありえないが、後世の私たちはおおむねこの廟号をつかうのが便利なので、それにしたがう。また廟号とはべつに諡号(おくりな)を追贈するが、太宗の諡号は文皇帝である。さらに、尊号を追贈することも多く、高宗は太宗の死後三十年ちかくたってから父帝に文武聖皇帝という尊号を追贈したほか、約百年後には玄宗もまた太宗に文武大聖大広孝皇帝という尊号を追贈した。」

出典:中野美代子『乾隆帝―その政治の図像学』文藝春秋、2007年、16頁。太字は筆者による。



こうして唐は短期間のうちに、一気に領土をひろげていった。

でも「征服」といえども直接支配下に置いたわけではない。
軍事拠点として都護府(とごふ)を置くのみで、もともとの支配者を倒したわけじゃないんだ。

例えば、オアシス都市の支配は、あくまでオアシス都市の支配者にまかせた。
同様に、遊牧民の支配は、あくまで遊牧民の支配者にまかせる。

まるで家畜を縄で逃げないように縛っておくような、この統治方式を「羈縻せいさく」(きびせいさく)という。
支配コストのかからない賢いやり方だね。

代表的な6つの都護府のことは、六都護府というよ。


タリム盆地を超え、アム川上流域にまで支配領域を広げた唐。
あとちょっとでイラン高原に到達する勢いであったその領域には、当然のことながらさまざまな民族の人々が暮らしているよね。
それがどんな影響を与えることになるか、次に見ていくことにしよう。





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