見出し画像

6.2.4 宋代の社会と経済 世界史の教科書を最初から最後まで

宋は、これまでの中国の王朝(漢や隋や唐)と違って、タリム盆地方面の領土を持っていなかった。

そこで貿易の重心は「海ルート」に移り、長江下流部から南の港町が急速に発達した。


インドや東南アジア、それにさらに西からはイスラーム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒の商人もさかんに来航し、さまざまな文物が流れ込んだ。
ジャンク船という帆船が大型化していったのも、宋代のことだ。
遠洋航海のために、方位を知るためのコンパス(羅針盤(らしんばん))が発達。

火薬の実用化技術とともに、インド洋をわたってイスラーム世界に伝わり、やがてヨーロッパにまで伝わることになるよ。なお、羅針盤と火薬、活字の印刷は、あわせて「中国三大発明」ということがある。



宋が金(きん)の攻撃を受けて南に首都をうつすと、長江下流域(江南(こうなん))の開発がすすみ、奴隷や小作人として働く佃戸(でんこ)を労働力として稲作エリアが拡大。
これまで泥や水でグチャグチャだった長江下流域は、大規模な干拓(かんたく)によって囲田(いでん)や圩田(うでん)と呼ばれる耕地に変えられていったんだ。

画像2



ベトナムのチャンパーから伝わった、ひでりに強い早稲種のチャンパー米(占城稲(せんじょうとう))が導入され、収穫も安定化。



収穫量が増えれば、陶磁器・茶・絹などの特産品を集中的に生産する商工業者も現れる。無意味な競争をおさえるため、同業者どうしの組合もつくられた。
商人の組合は(こう)、手工業者の組合は(さく)と呼ばれる。


多種多様な商品は、陸路や水路でさまざまな地域に運ばれた。
特に、長江から黄河につながる大運河には、多数の船が行き交った。



北宋は、その首都を黄河と大運河の交わる開封(かいほう)に置いた。五代の後梁が都に置いたのがはじまり。ここに物資を集めることで、北方の民族たちとの戦いや平和な交易に備えたのだ。

画像1


宋の時代の都市は、首都の開封に代表されるように、軍事的・政治的な目的でつくられたというよりは、商工業がさかんになって建てられたところが多い。
唐の時代の都市といえば城壁の中に “建設される” のが普通だったけれど、宋の時代の都市(草市(そうし)・(ちん))は城壁の外や、人通りの多い地点に自然発生的に“ 発生する” ことが増えていった。

お金による取引が増加すると、これまで使われていた銅銭(どうせん)だけでは足りなくなり、金・銀を地金(じがね)で使用されていた。

そうすると交子(こうし)・会子(かいし)といった紙幣として使われるようになった。これは世界最古級の紙幣だよ。

画像3


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊