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ブリーフを捨てトランクスを履いた時に、観察と学習は始まってたんだな

大人になって感じる知識、経験の乏しさ。自分だけが知らないことばかり。
周囲とのズレ、遅れ。それによる自信の喪失。迷い。
どこにでも誰にでもあるような、些細で深刻な問題についての話


前置き(パンツの話)

僕はいつからブリーフを履かなくなったのだろう。
ブリーフは幼児か、おっさんが履くものだ(諸説あり!!)と最初に知った時の衝撃を覚えているだろうか?…というか衝撃なんか最初から別になかったのかも…。
これってまあまあな話である。

今まで常識のように身につけていたものを、突然卒業しなければならなくなる瞬間なのだ。それなのに、その時点より先はもう「着ていたら恥ずかしいこと」という感覚になっている。何の抵抗もなく、悔恨もなく、あの純白の下着とお別れをしたのだ。それが正しいのだと合理的に判断して。
お別れは突然に。特に寂しさもなく。

こういうことにいつから気がつくのだろう。あれ??周りの人、ブリーフ履いていないな?ということに。
確か、覚えているのは、親が教えたのではないということだ。というか家はそんなこと分かっていなかった、知らなかった記憶さえある。僕が自分から「もうこれ、履きたくないよ〜」と言い出したのだ、多分。
となると周囲の子どもたちが次々に、トランクスかボクサーパンツを履き始めたので、おやおや?なんだか周りが変だぞ?一体何を身につけているのだろう、僕のとは違うぞ?と気づくのがきっかけであろう。観察眼と学習の原点。

そうして僕らは周りを見て社会常識を身につけていく。僕が言いたいのはそういうことである。
藪から棒に、しかも「ブリーフ」如きで大袈裟だな、と思うかもしれないがそう、その通り、上述したパンツの話はいわゆる前置きである…。

観察と学び

僕らは周囲の観察から、世の中に存在しているもの、起きている事象を認識する。知識を得ることの前提として、まず概念を知らなければならない。
へぇ〜、そういうのがあるのか、と。
周囲との違いから、新しい世界を知る。この仕組みから逃れられる人がいるだろうか。
今はさまざまな形で情報を手に入れる術があるから、この仕組みはもはや旧世代の考え方かもしれない。さりとて周囲の影響を全く受けずに育つ人もいなかろう。

この仕組みがブリーフを捨てたあの日から、大人になった今の今まで続いてきたのならば?
積極的に人間関係を持つようにしてきたかどうかで、知っていることに差が出るということも言えるのではないか?人と関わろうとするための行動は、結果として色々と経験値にもなるだろうし。
ブリーフを捨てトランクスを履いた時から学びが始まっていた。

そこへいくと僕は、あまり多くのものを知っているとは言えなさそうだった。あまり多くをことを認識できず、社会人としてギリギリの経験値だけでやっていっているような気がする。
人間関係を積極的に切ってきた末路。知識経験の乏しさ。
なんか、あれもこれも知らんな…?と感じることが多い。社会との、他人との擦り合わせで。
料理もできない。運転もできない。服もほとんど持っていない。遊びも。
この前初めてクレカを使った。磁気を読み取るのだと思ってしきりに端末にカードを押し付けたが、僕のクレカは差し込むタイプのものだった。
店員さんのセリフは、『ですよね。』
僕は恥をかいた。
ちょっとだけ、悲しい。その後少し引きずったのだった。

知らないことはその都度調べていくしかないのだろう。パソコンで、スマホで、あるいは雑談で。
それでも僕は知識量、経験値の多くを取りこぼし、次第に周囲と差が付き、それがまた負目に感じていくのでは…、と不安になったのであった。
この先も同じようなものばかりを見て、同じようなことを経験するのでは。そういう思考回路が既に完成してしまっていて、変わることがないのでは。
成長の機会を損失し、新しい自分になることがないのでは。
まとめに入ろう。

ならばどうする?

もう割り切っていくのもアリだなぁと思う。そういう奴だからこそ上手くいったケースもあるだろうし、これまで良かったこともきっとある。今の自分だって別に悪くないしなぁ。欠点も含めて自分で、欠点があるおかげで際立っている長所もある。

周りの人達にしても、知識や経験を増やすことが純粋に利益があるからやっているという感じだ。
便利だから使う。包丁も車も服も、クレジットカードも。
自分を成長させるとか、ましてや自分を肯定するためにやっている感じではない。別に自分を好きになったり肯定するために、出来ることを増やそうとすることも素敵だと思うけれど。それは涙ぐましい努力だと思うけれど。

自分を誇らしいと思うかどうかに関して、知力、能力、経験の有無は特に問題ではない。
何故ならば欠けていることや足りていないことは、間違いではないからだ。いつまでもずっとブリーフを履いていても誰にも迷惑をかけないし(それは本当にそう)、何の間違いも犯していない。
「そういう人もいる」。結局はそういうこと。多様性の時代。
無知は罪だろうか。それでもやはり、自分が今まで間違った人生を歩んできたとは、どう譲歩しても言いたくないのだった。
恥の多い生涯を送って来ました自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。』いやそんなドラマティックな人生じゃないのよね。普通の正しき生き方をしてきた。

僕は正しい道の上を歩いている?
あなたも私も。一切なんの間違いも犯していない。
それはそう。何も間違ったことは言っていない。

それに知っていることもいっぱいある。ある程度色んなことを経験してきたから。
慎ましく、されど堂々と。この調子でやっていこう。現状維持。

結局何も解決されなかった。でも、これから知ることも経験することも気分一つで変わってくるから、気分良くやっていけばいいんじゃないか?という結論は出た。
そっちの方が燃費がいい。心の持ちようだって、あくまでも利便性第一で選択すればいいだけだ。

合理的に判断すれば、胸を張って無知を誇ろうということになるわけだ。
…しょうもないな。

以上