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「変わらないこと」へのまなざし《前編》


20年来の親友とかなり久しぶりにゆっくり過ごした。

いつも感じるのは、数ヶ月、1年会わなくてもなんの違和感もなく素の自分で時間を過ごせるありがたみ。

それは親友が自分の状態を受け入れて、誰かのせいにせず、自分をしっかり持っているから、合わせ鏡のように私を映してくれることで得られる時間だとおもう。

目まぐるしく仕事や生活をして色々と変わっているようで、根っこは変わってないんだなぁと確認する。

「変わること」よりも「変わらないこと」の大切さ

現代社会のメディアやビジネス界隈は「変わること」に注目が集まり、変わることに適応すべく取り組むことが正義かのように語られる。

でも変わるんだから取り組んでもすぐまた変わって廃れるよね?といつと疑問に思う。

そんな一瞬の価値に人生の大半の時間やお金を使う意味が私にはよく分からない。(うまく取り入れたり、活用するぐらいのスタンスでいいと思う)

一方、「変わらないこと」を見極め、意味を見直していくことのほうが実は大事なんではないかと思っている。

見極めるには経験や知識、感性が必要になってくるはずだけどなかなか一朝一夕で身につくものでもない。

その点、自分自身が1番その心眼を鍛える訓練になる。

自分との約束(人生の信条)に基づいて、変えなくていいこと、変えていいこと、変えなければいけないことを見極めていく。

それを日々積み重ねることに優る訓練はないと思う。

でも自分との対話だけでは分からなくなる時も多々ある。

そんな時に、まだ世の中を知らず、丸腰だった自分を知ってくれていて、変わらずそばにいてくれる親友との時間は自分の変わった部分と変えなくていい部分、変えるべき部分を確認するありがたい時間。

宗教が持つ「変わらないこと」

そんなこと考えて帰路についていたら、「豊かな信仰を持つということは、ある種同じ作用なんだろう」とふと思った。

世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)は数千年単位で「変わらないこと」の代表。

その宗教を世界を読み取る1つの法則として、理想とされるあり方や思想と今の自分を照らし合わせて、立ち位置を確認する。

そして、利他の心を育てて、よりよい社会の因子となり、自分や周囲や社会が今より心豊かで優しくなることを願って生きる。

このような価値観の醸成は、これだけ孤立化が進んだ社会にこそ必要だと思う。

侮蔑や差別、そして無関心が人を孤立化させ追い込む。

今、苦しんでる人がいたとしたら、その人は明日の自分かもしれない。

でも、自分の「イマココ」にしか意識がいかなければ、「苦しんでいる人がいる社会の上で成り立つ今の自分」に気づくこともない。

気づかないから、スマホのアプリをスワイプしてOFFにするように、今の自分に不要なものとして悪意もなく切り捨てられる。

その意味において、カルトや派閥的宗教ではなく、「心豊かに生きることに繋がる宗教」には大きな社会的価値があると思う。(もちろん強要ではなく本人が望んで選び取ることが大前提)

なぜなら、「心豊かに生きることに繋がる宗教」には「イマココ」しか見えない視界を、一気に広げてくれる作用があると考えているから。

侮蔑対象としての「宗教」

自分だけを信じて生きていけるほど人は賢くも優れてもないと思う。

その証のように自分自身や社会が不安定になると、占いやパワースポットが流行る。

それだけならまだいいけれど、啓発セミナーと称したカルトに近い組織や、個人を教祖のように崇めて多額の献金が集まる動きが後を絶たない。

海外では、信仰の解釈の違いから内紛や戦争が起こり、大義のようにそれぞれの信仰が掲げられ、生活者が理不尽に故郷や生活や命を奪われる。

これらが問題になるのは本人や一部の人間は一見幸せに見えて、本人さえも経済的や社会的に身を滅ぼしたり、周囲を巻き込んで不幸にし、人の幸せになる権利を侵害する点だと思う。

それが残虐な事件を起こし、世の中を震撼させ、カルトと宗教の区別がついていないメディアや個人が宗教を糾弾する。

だから特に日本では「宗教」=disり用語 だ。

政教分離もあり、日本人の多くは世界の人々と比較して宗教に対して教養レベルの知識もなければ、理解もないことが輪をかけて日本の「宗教」への認識は歪つにネジ曲がった形をしているな。と残念に思う。

「心豊かに生きることに繋がる宗教」だから成せる普遍的な「変わらないこと」

それでも、と思う。

本来、宗教が持つ価値は前述したような陳腐で下劣な側面だけではないはず。

霊性とも呼ばれる思想や目に見えない世界、幽玄の時間軸からなる価値観は、経済的生産性がある人だけを評価しない。

経済的に生産性がなかったとしても、人間が定めたコミュニティや評価軸において価値がなかったとしても、生きているということを許されている。

古今東西の世界宗教に共通していることは人間ではない、神や仏やアミニズム的なにかが、「何人も平等に尊い命である」ということを掲げてくれていることだと思う。(残念なことに1部民族宗教の中では階級差別・人種差別が存在するので世界宗教に限定)

これは私が「心豊かに生きることに繋がる宗教」だから成せる普遍的な「変わらないこと」だと思っている。

これだけ時代が混迷かつ複雑化して、15~39歳の各年代の死因の第1位は自死の時代。

同世代として、この時代が生きづらい身として、人ごとではないといつも思う。

その中で、かつて私がそうであったように、信じることで豊かになる信仰や人との出会いは人生において何者にも変え難い暁光になるはず。

自分で自分を信じられなくても、自身に価値があると信じてくれる人や「全ての人の命は尊い」と教えてくれる豊かな思想は生きることを少し楽にしてくれる。

その「変わらないこと」を知り、自分がわからなくなった時や不安になった時に照らし合わせ、自分を取り戻し生きるサイクルは誰にも迷惑をかけない。

それどころか心の豊かさ、利他の精神を育て、世界を少しだけ優しくする。

後編目次

  • 生きるなら優しい世界がいい

  • 「変わらないもの」としてのお寺を支援する



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