意識された現実という幻覚
意識の終わりが来ても恐れることなんてなにもない。
○ 世界を誤って認識することがあるのと同じように、自分自身を誤認してしまうことがある
○ 「私である」という感覚はコンピュータ内部のプログラムに変換できることではない
○ 私たち独自の個人的な内的宇宙である「意識」はほんのひとつの形体でしかない
○ 意識の性質とはどのようなものなのか?
私たちの回りの世界に関する経験と、自分であるという独自の経験という2種類のアプローチがあります。脳は外界の情報を電気信号によってしか得ることができません。だからそこに何があるかを知るという「知覚」は情報に基づく推測の過程にならざるを得ないのです。電気信号による信号によって情報を間接的にしか受けることができない脳は、想像や予想と結びつけて何がその信号を起こしたのか最善の推測をします。たとえば、同じ色の床でさえ、見方によって違う色に推測してしまうのです。
○ 知覚は外の世界から脳に入ってくる信号に頼るだけでなく、それに勝るとも劣らないくらい、反対向きの知覚的な予測にも依存している
私たちが脳で感じていることは、外界での刺激と同じくらい、内側からもつくられているということです。過剰に強い知覚的予測をシュミレーションしてみると、現実がねじまがっているように奇妙に見えます。まるで薬物を常用したときのような。もし、幻覚がある種の制御を外れた知覚だとしたら、今ここにある知覚もまた制御の効いた一種の幻覚であり、実際には今も幻覚を見続けていることになります。幻覚について一同が納得している場合これを「現実」と呼ぶのです。
○ 自分には体があるという経験を脳はどのように形成するのか?
統一体としての自分であると言うことの基本的な背景となる経験は、脳による非常に脆い建造物であり、他のものと同じように説明を要する経験なのです。脳は他のものと全く同じ原理で何が自分の身体の一部で、何がそうでないのか最善の予測を行うのです。ある条件を加えるだけでゴムでできた張りぼての手の人形を、自分のからだの一部だと誤認してしまうのです。何が自分のからだの一部かという経験すら一種の最善の推測でしかないと言うことです。
○ 内部からくる身体の経験は身の回りの世界の経験とは大きく違う
身の回りには多くの物体がありますが、自分の内部(腎臓や肝臓のようなもの)を物体として知覚しません。何か問題がない限り意識もしません。身体の内部についての知覚は、制御と調節に関するものです。生理学的な数値を生存可能な狭い範囲に納めると言うことです(ホメオスタシス)。私たちはその制御がうまくいっているかいっていないかを経験します。これが自分であるという私たちのもっとも基本的な経験、すなわち、肉体をもつという生命体である経験であるのです。そしてこの考えに従うなら、私たちの意識体験の全体像を見ることができます。全ては生きるという基本的な衝動に由来する。予測による知覚という同じメカニズムに依存しているからです。
意識は、生きた身体を通じて生きた身体が故に生じます。
☆哲学的かつ科学的「意識」について
すごく難解に感じました。だけどTEDだったからわかりやすく勉強することができた内容だなと。これもし本だったらたぶん挫折しているだろうな…。知覚している現実は、脳の最善の推測による『幻覚』と言い切ってしまうあたりちょっと怖い。この根拠も並べて、説得力があるので余計に。ただ、ここでたどりついた結論が神経疾患や統合失調症などの難病の治療のきっかけになるかもしれませんね。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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Anil K Sethは、サセックス大学の認知および計算神経科学の英国の教授
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