生い立ち 小学生編
宮城県塩竈市という程よい地方都市で育った。
父親はゴルフ場の管理の仕事をしていて、全国を数年単位で飛び回っている転勤族だった。
母親は地元長崎のゴルフ場で受付の仕事をしている時に父と出会い結婚し、私が生まれ、弟が生まれたタイミングで宮城県に転勤になった。
本来なら、2〜3年でまた転勤になる予定だったみたいだが、宮城県での勤務も長くなり、僕たちも大きく育ってしまった事もあり、私が中学の時に家を購入した。
なので私たち家族は、縁もゆかりもない、宮城県塩竈市が拠点なったのである。
程よい地方都市で近所に森や広い空き地があったので、
森を探検したり、虫を獲ったり、空き地でボール遊びしたりと、外で遊ぶキッズコミュニティだった。
学年が上がってくると、みんなでファミコンやったりして遊ぶようにもなったけど、マリオやドラクエがデフォルトで装備されている時代に、我が家にはファミコンがなかった。
多分、両親の教育方針なのかと思えばそうなのだが、僕ら兄弟もそこまでゲームを欲していたわけでもなかったように思う。
なので友達の家に遊びに行っても、ゲームを観ているだけで、マリオやボンバーマンくらいしか参加できない少年だった。
友達がファミコンしている間は暇なので、友達家からチラシをもらって、カチカチに巻き上げたチラシ剣や巨大な手裏剣を作って、喜んでもらう事が好きだったのを覚えている。
おそらくこの頃に、ファミコン以外の何かで活躍しなければならないという、切実なクリエイティブマインドが育ったのではないだろうか…
ゲームにあまり興味のない少年だったが、漫画やアニメは大好きだった
ドラゴンボールや幽遊白書には多大な影響を受け、毎週水曜日と土曜日は楽しみすぎてヤバかった。
我が家にはTVが一つしかなく、この時に親父に意地悪(教育)されて、野球に変えられ、それを、気をつけの姿勢で「ドラゴンボール見せてください、お願いします!」と毎回言わされたのを覚えている。
高学年になると、少年野球に取り組み始めた。
本当はサッカーを最初にやっていたのだが、年上に意地悪な奴がいたのと、僕もオフサイドの事を全然理解できていない厳しい状況だった時に、タイミングよく友達が野球やらないか?と誘ってくれたので、野球に乗り換えることにした。
だが、野球の方が覚えなきゃいけないルールが多いのに気づいた時には、もう後戻りできないくらい、友達もできて楽しい時間だったように思う。
ただ、野球のTV放送となると、ドラゴンボールの敵仇のイメージが抜けず、
今でもあまりテンションが上がらないのは、きっと親父のせいだろう。
この頃から、TVのロードショー枠がとても楽しみだったのを覚えている。
金曜ロードショーの水野晴郎。
ゴールデン洋画劇場の高島忠夫。
日曜洋画劇場の淀川長治。
そのスクリーンを縦横無尽に動き回る、ハリウッドスター達の虜になっていった。
シュワちゃんの、玄田哲章
スターロンの、ささきいさお
ジャッキーの、石丸博也
この頃のハリウッドスターたちの声は、吹き替え声優たちの声で僕の心に刻まれている。
彼らの声が、いつもワクワクさせてくれた。
また、当時はよく町の公民館に公開から時間の経った映画が格安で見れるシステムがあり、その巡業で回ってきた映画を友達と見にいくのが、相当なイベントだった。今だったら、TWICEの武道館公演に匹敵するくらいの期待度だろう。
その巡業でSMAP主演のサッカー漫画「シュート」映画版を見にいった時に始めて「キムタク」を認識した。
男の子ながらに「マジかっこいい〜」と思ったのを鮮明に覚えている。
このキムタクの降臨は、僕ら世代に計り知れないインパクトインパクトを与えていると思う。
話は逸れたが、そんな小学生時代を送り、エスカレーター式に学区内の塩竈市立玉川中学校に進学するのである。
追伸
ちなみに、初めて買ったCDは、
ひとつ屋根の下のOP、チューリップの「サボテンの花」
二枚目がスラムダンクのED、大黒摩季の「あなただけ見つめてる」
三枚目が福山雅治の「Hello」である!
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