山田 星太郎

写真家・フォトグラファーとして活動してます。 写真やカメラの事をメインに、展覧会の感想…

山田 星太郎

写真家・フォトグラファーとして活動してます。 写真やカメラの事をメインに、展覧会の感想や映画、音楽についてなど、マイペースに更新します♪

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自己紹介

写真家、フォトグラファーの山田星太郎です。 宮城県塩竈市出身で、若い時はバンドのドラマーとして活動してました。 23歳の時、ワーキングホリデーでオーストラリアに滞在し、帰国後に写真の業界に入りました。 仕事はファッションやポートレートをメインに、商品撮影や動画撮影もさせて頂いております。それと並行して、自身の作品制作も行っています。 このnoteでは、ざっくばらんに自分がたどってきた人生についてや、 写真、カメラについて、 展覧会や音楽、映画について、 その時々、感銘を

    • オーストラリア時代

      最初のバンドメンバーが抜けて、新しいバンドを始めていたが、周りも徐々に社会人としてデビューしていて、自分もそろそろ生涯をかけて取り組む仕事を始めたいと思っていた。 そんな時に、たまたまバイト先に入ってきた女の子が、半年後にワーキングホリデーでオーストラリアに行くと聞き、その子に色々とワーホリの話を聞いているうちに、自分でも行ってみたいと思うようになった。 オーストラリアが気になっていた理由はいくつかあった。 まず、高校時代から「水曜どうでしょう」という、今では国民的スタ

      • バンドマン・サーガ

        高校を卒業してから、内装や建具に関するスキルを学ぶ、インテリアの職業技術訓練校に進学した。 なんとなく内装の仕事が向いてるのではないか?といった漠然とした考えで、合格したので通うことになったが、自分の心の中では、本気でバンドをやりたいと思っていた。 1年コースの学校だったので、卒業と同時にバンドマンいう名のフリーターになり、THE BOOTING FILMSというバンドで活動した。 この時期はよりシンプルなロックンロールやパンクに関心があって、ルースターズやソニックス、

        • 高校時代 男子校とバンド

          同じ中学からの友達も多く、家から徒歩10分と好立地だったので、あまり深く考えずに、塩竈男子高等学校に入学した。 高校になると、また中学とは違った世界観のジャンプが起こった。 当たり前だが、男しかいないのである。 そして隣町から屈強な奴らが集まっていて、落書きのない鈴蘭高校のようだった。 入学して少し経った、5月あたりに体育祭があった。 おそらく親睦を深めるためのイベントなんだと思うが、このイベントが1ミリも盛り上がらない。 なぜか? 「女子がいない」からである。

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          MAXについて

          一生に一度のセンシティブな「童貞時代」 この一番めんどくさい時代に、身近な人ではなく「アイドル」に恋をしてしまった。「この時代だからこそ」とも言えるのかもしれない。 ちょうど中学から高校に上がる春休みのタイミングに、友人のお姉ちゃんが、MAXのコンサートチケット、友達が行けなくなって余ってるからあげるよと言われ、頂き物のチケットでコンサートを見に行った。 その時は、なんとなくMAXの存在は知っている程度で、彼女たちの音楽にはまだ触れていなかった。 そのコンサート時の事を

          ロックンロールとの出会い

          中学生になり、尾崎豊とブルーハーツが学校で流行り始めた。 尾崎はすでに亡くなっていて、ブルーハーツも解散していたが、この2組のアーティストが、本当の意味での最初の音楽体験だったように思う。漠然と何かに抑圧されている感覚と思春期のモヤモヤした感覚にシンクロした。 その時期に友達の中でも、ちらほらギター買ってるヤツが現れたりして、僕もこの衝動には逆らえず、雑誌「バンドやろうぜ!」の後ろに載っていた、「ジャガード、ギター入門セット、29,800円」をお年玉貯金を叩いて購入した。

          ロックンロールとの出会い

          写真との出会い

          子供の頃から思い出写真を見るのが好きで、幼少期の頃の自分や、若い頃の両親の姿をよく見ていた。 中学の卒業シーズンになると、思い出を収めるため、女子を中心に「写るんです」が流行り始めていた。 その頃、僕も始めて「写るんです」を買った。 それまでの写真は、業者の写真屋さんがイベントの時だけ撮ってくれるものだったが、それが民主化され自分自身で撮れるようになった事に、どことなく興奮していた。 もちろんフィルム時代だったので、フィルムを現像に出してプリントが上がってくるまでのワ

          写真との出会い

          生い立ち 中学野球部編

          中学は、少年野球の延長で野球部に入部した。 スラムダンクが全盛の時代、バスケ部に1学年20人ほど入部する異常事態だったが、浮気はせず野球部に入った。 入部早々、校舎で監督の話が終わりグラウンドに戻ると、途中でバックネット裏に無数のオレンジ色の光が点灯しているのが見えた。 そう、野球部が不良の溜まり場になっていて、10人以上の怖い先輩達がタバコを吸っていた。 やばい部活に入部してしまった、思ったと同時に 「これが大人の世界か…」 と、怖さとワクワクが入り混じった、な

          生い立ち 中学野球部編

          生い立ち 小学生編

          宮城県塩竈市という程よい地方都市で育った。 父親はゴルフ場の管理の仕事をしていて、全国を数年単位で飛び回っている転勤族だった。 母親は地元長崎のゴルフ場で受付の仕事をしている時に父と出会い結婚し、私が生まれ、弟が生まれたタイミングで宮城県に転勤になった。 本来なら、2〜3年でまた転勤になる予定だったみたいだが、宮城県での勤務も長くなり、僕たちも大きく育ってしまった事もあり、私が中学の時に家を購入した。 なので私たち家族は、縁もゆかりもない、宮城県塩竈市が拠点なったので

          生い立ち 小学生編