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写真との出会い

子供の頃から思い出写真を見るのが好きで、幼少期の頃の自分や、若い頃の両親の姿をよく見ていた。

中学の卒業シーズンになると、思い出を収めるため、女子を中心に「写るんです」が流行り始めていた。

その頃、僕も始めて「写るんです」を買った。


それまでの写真は、業者の写真屋さんがイベントの時だけ撮ってくれるものだったが、それが民主化され自分自身で撮れるようになった事に、どことなく興奮していた。

もちろんフィルム時代だったので、フィルムを現像に出してプリントが上がってくるまでのワクワク感も楽しかった。


その時期から、ゆるーく日常をカメラで記録するのが習慣になった。


旅行に行って、その時に写真を撮らないと、旅行に行った事実は覚えているが、内容やディティールは忘れてしまう。写真に収めることによってタグを残せる。


そして現像出して写真プリントが上がってきた時の楽しみが待っている。
旅行と写真プリントで、二度美味しいのである!

それこそ、今のようにスマホがデフォルトの時代だったら、中学生の自分はカメラを手にしただろうか?
そんなことを考えるくらい、現像に出して戻ってくるまでの「フィルムの時間感覚」が僕にとっては重要な要素だった気がする。


中3の文集の将来の夢に、何故が「写真家」と書いていた。



きっと、映画やドラマの中で出てくる写真家像みたいなものに漠然とした憧れを抱いたのだと思う。なぜかフィクションの世界に出てくる写真家は、自由で誰にも媚びず自分の道を進んでいる感じが、かっこよく見えた。

だけど、きっとそれよりも、写るんですを手にした時に感じた「自由な感覚」が僕の写真人生の始まりだったのではないかと思う。

そして、写真の美しさ云々以前に、写真を撮る事で生まれる「コミュニケーション」に楽しさを感じていたのではないだろうか?


「写真とろーぜ!」



それ以上でも以下でもない、このシンプルな行為が好きだったのである。


上村愛子ファンクラブのメンバーたちと





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