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大学受験前の初詣「神様なんてくそくらえ」

大学受験直前の、1月。

例年通り、我が家は初詣に行った。例年通り、家族で神社に行き、お賽銭を投げ、鈴を鳴らし、礼をして、心の中で…

受験に合格しますように

とは、言わなかった。代わりに、こう言った。

「合格しますように、なんて言わない。おれは自分の力で受かる。神頼みなんかしない。受かったって、お祈りしたからなんて思われたくないし、そんなので受かっても嬉しくない。そもそも、あなたに願ったからといって受かるならみんな受かるだろう。

落ちても、おれの力不足でいい。間違っても、あなたの力でなぞ受かりたくもない」

これは今思えば、僕なりの「理系として生きる」宣言だったように思う。高校生ながら、おれはこうやって生きるんだと、意地を張ったのだ。

さて、ここで見事、合格していたらカッコよかったのだが、恥ずかしいことに受験は落ちてしまった。第一志望の大学には落ち、後期試験で申し込んでいた地元の大学に入る事になった。

結果としては不合格だったものの、ぼくは後悔などしていなかった。これは自分の力不足のせいだと考えられたから。仕方のないことだった。

むしろ、神頼みしていたらどうだろう。祈り方が足りなかったのかな、神様は自分のことを見ていてくれなかったのだろうか。非生産的な考えが浮かんでは、なぜ落ちたんだろう、と悩んでいたかもしれない。

なぜ落ちんだろう、なんて意味のない疑問があるだろうか。落ちた原因は力不足しかない。もう一度受験出来るとしたら、受かるにはもっと勉強するほかないのに。祈り方や神様の気分なんて、受験の結果に関係はない。

だから、後期試験までの数週間。ぼくはそれまで以上ち勉強した。受かるにはそれしかないと分かっていたから。

その過程はこちらでも書いている。結果としては、後期試験の得点はトップだった。ほら見たことか。やはり神の力などではなかった。受験に受かるには、勉強するしかないのだ。

それからぼくは、何か正体不明のものに自分の人生を委ねる事をやめた。いや、それまでもしてはいなかったが、特に意識して生きる事にした。

縁起の良し悪しに,いちいち気分を左右されてはたまらない。その時間があれば,単語を一つでも覚えたほうが,受験には良いに決まっているのだ。

頑張ったことは、きちんと努力として評価されたいし、失敗したなら力不足でいい。神様のおかげ、なんて正体不明の慰めは要らない。

神様なんてくそくらえ

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