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宇多田ヒカル『音を言葉に置き換える魔術師』人生を変えるJ-POP[第11回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

『First Love』の楽曲と共に日本の音楽シーンを変えたと言われる宇多田ヒカル。この人の出現は当時、日本の音楽業界にいた人、そしてその後のアーティスト達に大きな影響を与えたと言われています。今回は彼女の出現によって日本の音楽がどのように変わったのかを紐解きながら、彼女の魅力に迫りたいと思います。 

デビューはこんな軽いきっかけでした

宇多田ヒカル(本名光)は、1983年アメリカのニューヨーク州で生まれました。父親は音楽プロデューサーの宇多田照實、母親は歌手の藤圭子という両親の音楽のDNAを受け継ぎ自然と音楽の環境の中で育ちました。

小さい頃の彼女は両親の都合によって東京とニューヨークを頻繁に行き来していたと言います。そのような環境の中では友達関係という横の繋がりよりも自分を見つめる、家族と共に行動するという傾向にならざるを得なかったのかもしれません。

1998年にデビューしたとされる彼女ですが、実は日本デビュー以前、10歳の頃から両親とのユニットでボーカルを担当してロック曲などを歌ったりしていたのです。

“Cubic U”は日本デビュー前の初期の宇多田ヒカルの別名義で、アメリカで1997年にソロシングル『Close To You』、翌年にアルバム『Precious』をリリースしています。

日本で彼女がデビューするきっかけとなったのは、1997年秋、たまたま東京のスタジオでレコーディングしていたときに東芝EMIのディレクター三宅彰の目に留まり、「日本語で歌ってみない?」と声をかけられたことでした。

日本の音楽シーンを揺るがせるほどの彼女の日本デビューがこれほど軽い誘いから始まったというのも、人との出会いがこの世の事象の全てを握っているということなのかもしれません。

1998年12月、彼女は『Automatic/time will tell』でメジャーデビューしました。

発売3か月で65万枚『Automatic/time will tell』

『Automatic/time will tell』は、発売3ヵ月で65万枚を売り上げ、派手なタイアップやセールスモーションもないにもかかわらず、凄まじいヒットに繋がっていました。楽曲の良さが人の口コミによって広がっていったことの表れともいうべき事象だったのです。

さらに1999年3月に発売された1枚目のアルバム『First Love』は累積数767.2万枚を売り上げるという驚くべき数字を叩き出したのです。

それまでのJ-POP界は、小室哲哉率いるglobeによって数々の記録(アルバムとシングルを合わせて1000万枚を1年3ヵ月で売り上げるなど)が打ち立てられていましたが、彼女の登場によって、あっさりと塗り替えられていったのです。

『First Love』の登場に、小室哲哉が「ヒカルちゃんが僕を終わらせた」と言ったことは余りにも有名です。そして、さらにつんく♂に「は? 何これ!?」と絶句させたほどの衝撃を与えたのです。

彼女の出現は、それまでの日本の音楽シーンに幕引きをし、新しい日本の音楽シーンが開かれたと言われるほど、日本の音楽業界全体にとって大きな出来事だったのです。

彼女がデビューした1998年頃の日本の大衆音楽はどのようなものだったのでしょうか。

小室ファミリーが全盛期を迎えていた頃に…

日本では1988年にJ-POPという言葉が生まれました。演歌のジャンルが廃れ、フォークソングやニューミュージックという新しい分野の音楽を経て、J-POPが主流になっていました。

ラップを取り入れたダンスミュージックの世界的ブームが日本にも訪れており、1990年半ばには小室哲哉がプロデュースするtrf や安室奈美恵などの「小室ファミリー」と呼ばれる人達が全盛期を迎えていました。

アーティストに楽曲を提供しプロデュースしていくことによって音楽シーンが作り上げられていた時代とも言えます。

ところが、宇多田ヒカルの出現はそのスタイルを根底から覆すものになったのです。すなわち、作詞、作曲、時にはアレンジまでアーティスト自身が行い、その世界を提示する、というセルフプロデュースの形だったのです。

彼女は並外れたプロデュース力を持ち、僅か15歳という年齢でありながら、完全に彼女の世界が出来上がっていました。

誰かに提供されプロデュースされた音楽を演奏するというスタイルから、自分の感性や考えをそのまま楽曲に反映し、自分自身で作詞作曲をする、さらにはアレンジもするというセルフプロデュースの形は、今では多くのアーティストが用いている1つのスタイルですが、そのスタイルが生まれていくきっかけとなったのが、彼女の出現だったと言えるかもしれません。

彼女はその後も2001年の『traveling』や2002年の『SAKURAドロップス』、また2007年のドラマ『花より男子2(リターンズ)』のイメージソング になった『Flavor Of Life』のヒットなど、順調に音楽活動を継続。

2004年と2009年の全米進出や2010年初頭の北米ツアーなど積極的な活動を行っていましたが、同年8月、突然、「音楽活動を止めて人間活動に専念する」と発表し、2011年から活動を停止します。

彼女が言う人間活動とはどういうことを指したのでしょうか。

「普通の暮らし」のためにロンドンへ

15歳でデビューした彼女は常に事務所の管理下に置かれ、生活の一切を管理されている環境の中で過ごしていました。

「10代から自分で作詞作曲をして、意見もはっきりあって、お金も稼いでいました。独立した人間という見られ方をしていたかもしれないけれど、誰かに飼われているペットみたいな感じで。食べ物も自分ではほとんど買いに行かないし、家も自分で借りていないし、銀行の口座も誰かが開いてくれたのを知っているだけ。電話の契約も、家を借りるのも、引っ越しも、何もかも事務所がやってくれて」と当時の生活について「日本での生活には『普通の暮らし』がなかった」と話しています(「VOGUE」2022年6月7日号のインタビュー)。

「このままでは40、50歳になってもマネージャーがいなかったら何もできない人になってしまうと思った」と言う彼女は、「普通の暮らし」をするためにロンドンに移住するのです。

結婚、離婚、母の死、二度目の結婚、そして出産…

2002年に紀里谷和明氏と結婚、2007年には離婚というものを経験している彼女は、この人間活動の間に母藤圭子の自死と2度目の結婚、出産という大きな出来事を経験しています。

また、母の死を乗り越えられずにいる中での息子の誕生を経験し、彼女自身が母になるという人間的成長が母への諸々の感情を消化させ、6thアルバム『Fantôme』の制作に繋がり、前へ進めることになったと話しています。

彼女は2016年NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌『花束を君に』を発表して活動を再開するのですが、この楽曲は亡くなった母への思いが綴られた内容になっており、人間活動後の彼女の音楽や歌い方にも大きな変化をもたらすことになりました。

活動再開後は、ゲーム『キングダム・ハーツⅢ』やアニメ映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のテーマソングやドラマ『美食探偵明智五郎』『最愛』など多くの楽曲がタイアップしています。これらのテーマソングが収録された8thアルバム『BADモード』をコロナ禍の2022年に発表しています。

独特の感性で歌詞をつくりあげる

作詞、作曲からアレンジなどのプロデュースまでほぼ自身でやってしまう彼女ですが、楽曲の音楽性と共に歌詞の独自性が非常に際立っていると言われています。

シンガーソングライターと呼ばれる人達は、曲から作るタイプと歌詞を先に作るタイプに分かれますが、彼女の場合は、歌詞は一番最後、と言います。

ピアノやギターなどで作った曲を聴きながらイメージを膨らませ、「ここのメロディーは『あ』で終わりたい、ここは小さい『ッ』」。俳句や短歌のように、言葉になる前の細かい“制約”を増やしていくうちに「私が言いたかったのはそれか」と思い至る感じだとのこと。

思い浮かんだ音をメロディーにし、その音に当て嵌まる言葉を探していく。そんな感じとも思われます。

日本デビューをする前やデビュー直後は「ただ感じるままになんとなく作っていた」と言う彼女ですが、経験を重ねるにつれて、作詞作曲に加え、アレンジやプロデュースも自ら手がけるようになり、自分の中にある「無意識にあるもの」をすくい上げることが意識的にできるようになってきたと言います。

2006年の4thアルバム『ULTRA BLUE』に収録されている『日曜の朝』は、彼女自身、この頃の作風を象徴する楽曲として「お祝いだ、お葬式だ ゆっくり過ごす日曜の朝だ」と、家族や社会で求められる役割に左右されない本来の自分の姿を淡々と歌っていて、「すごく『私だなあ』って感じられて、好きです」と話しています。

2011年からの人間活動期を経て、彼女の作風は劇的に変化していきます。活動休止中に作ったアニメ映画のテーマソングの「桜流し」には、「開いたばかりの花が散るのを見ていた木立の遣る瀬無きかな」という歌詞があり、「それまで絶対書かなかった、ちょっと古い感じの表現」を情感豊かに書き上げているのです。

また、その後の母親の死や自身の出産という出来事を体験していく中で、彼女の人間的成長がそのまま作風にも現れていると感じられます。

年齢を重ねて増す透明感のある歌声とブロードウェイ唱法

彼女のクリエイターとしての才能は、日本の音楽シーンに大きな変化をもたらしましたが、歌手としての才能も抜群であると感じます。

元々、彼女の歌声は細めのストレートで透明感のあるものです。

デビュー後から10代の間の彼女の歌声は、まだ声自体が荒削りで、中音域は色艶の濃い少し太めの歌声をしていたりします。これが年齢を重ねるに従って透明感がどんどん増し、細い綺麗な響きの歌声に整えられていくのですが、これも人間活動期以降は、特に日本語の言葉をはっきり意識的に発音して歌うという形に変わっていっています。

元々、彼女はアメリカで生まれ育った環境から、学校生活もインターナショナルスクールを経験していて、日本語というものに触れる機会よりは、外国語、英語というものに触れる機会の方が圧倒的に多かったのではないかと感じます。

15歳のデビュー当時、確かにフレーズによっては音色が変化したりする荒削り感はあっても彼女の発声は見事に完成されています。ミックスボイス、ウィスパーボイスはもちろんのこと、ファルセットやシャウト気味の歌声まで、確実にパンと前に抜けてくる歌声で、これはブロードウェイ唱法と呼ばれるスタイルを身につけていることがわかります。

この唱法は簡単に言えば、声を鼻腔から眉間に響かせて歌う方法ですが、欧米では非常に一般的なのに対し日本人でこの唱法を身につけるには、それなりの訓練と苦労を伴います。

これは、日本語が鼻腔共鳴や口輪筋(口の周囲の筋肉)を使わなくても話せる言語であることが最大の理由です。普段、話している日本語の筋肉の動きとは違う使い方をして歌わなければならないからです。

しかし、彼女のように生まれ育ちが英語圏で、耳に馴染む音声も話す言語も英語であり、鼻腔共鳴に親しんでいる場合、おそらく日本語の発音は外国人と非常に似た感覚なのではないかと想像します。

彼女は、鼻腔共鳴や口輪筋を使って日本語を歌うために、歌声の響きは細くても、非常に明瞭な言葉の発音になり、響き自体も綺麗に中心に集まったものになるのです。

彼女が、「楽曲を作るとき、あー、や、うー、でメロディーが浮かぶ」と話していることから、おそらく鼻腔共鳴を使ったハミングに近い発音でメロディーラインを作り、その後、音のイメージにあった言葉を当て嵌めていく、という作業をしているのだと思います。

そのため、彼女の歌詞には日本語の綺麗な音声が並ぶことで、韻を踏んだり、古い日本語を使ったりという独特の感性によって選ばれた言葉が並ぶのではないでしょうか。

彼女にとって、言葉も音の一種のような感覚なのかもしれません。

VOCALOID音楽や高速リズムの楽曲、さらには言葉数が多い最近の日本の音楽の中で、彼女はやはり独特の感性に裏付けられた異色の存在と言えるでしょう。彼女の指し示す音楽が今後、日本語とどのようにマッチしていくのか、非常に興味深いものがあります。

久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞