小説『空生講徒然雲18』
「行者とペット」が同時にこの世界に入り込むことは初めてのケースだった。恋人同士は、あった。タンデム走行中に、もの思う種の世界で『ない者』になり、もの生む空の世界に二人で入り込んできたのだ。あるいは、脱出してきたのだ。ア・バオア・クウから脱出するように。
凸女と青猫とヤマハSR400は、もの思う種の世界から脱出してきたのだろうか。青猫とヤマハSR400の機嫌は良さそうだった。
虚ろながらも、悠然としたところのある凸女に不安気なようすはない。
「口凸口凹ハね。わかる、ような気がするのよね」。詳しく訊くと、どうやら凸女は幼少期に認知症の祖母と暮らしていたことがあったらしい。
「あの頃のおばあちゃんは、凹からハの間にいたんだな」ひとりごとのように呟いた。凸女は「砂時計の底が抜けた、か。まさにそれだ」と、私には目もくれず青猫を撫で続けている。
その撫でかたは機械的で、ただの追憶と黙考のためのリズムでしかないように私には見えた。青猫もそれを解っている様子で、凸女の沈黙の脳作業が終わるまで撫でられてあげていた。不思議なことに、私にはイニシアチブは撫でられている青猫側に、あるように見えるのだが。主従がないのかも知れない。この2者には。「タンッタタン、タタタン」ヤマハSR400が文句を私に言っているのか。この3者は、なんだというのだ、なにがなんだかわからない。
「このケースは初めてなんだけれど」そう、女に告げると、どうでもいいよう顔で「ふうん」と青猫に口をつけた。というより「はむはむ」していた。その「はむはむ」には愛情があった。凸女の脳作業が終わったのだろう。
「シマです」
「青猫が、ですか?」
「あたしが、です」と、かるくすれちがう御師と行者のやりとりが、もの生む空の世界でのまともな会話の始まりだった。
「ペットみたいなめずらしい名前でしょう。あと古くさいのよ」
青猫の名前を訊くと「みやおう、みやおう、みやおう」と青猫が啼いた。
「タルトっていってるの」
「字余りだった気がするけど」
「3回名乗ったのよ」
「それは、ありがたい。完全に覚えられた」
昔の記憶はまだらに抜け落ちていくように忘れてゆく。けれど、新しい記憶はそれなりに私の口の囲いのなかに留まり、シマという凸女の行者と「空生講」ツーリングを終えるまでは忘れることはないだろう。
「私はこの世界で御師として働いています。3番目の口です。サンクチと呼んでください」
「口がみっつあるのね。サンクチアリ。サンクチュアリ」
サンクチュアリ、聖域。保護区。禁猟区。この世界にぴたりと当てはまるような気がしてきた。
「実をいうと、サンクチには成り立てなんですよ。新米です。500日で一段進むものらしくてね」
私はついこの間までは、2凸だった。
「それでは、ニボコとかニトツだったのね」とシマさんに笑われた。嫌な気分ではなかった。シマさんの笑い声はカラっとしていた。
私は、咄嗟に「ニポディウム」と名乗っていたと嘘をついてみた。
「表彰台?、うそうそ、嘘だわ」
「みやおう、みやおう、みやおう」
「タンッタタン、タタタン」
私の嘘は、3者にばれているようだった。これも嫌な気分ではなかった。3者の笑う「鳴り」が軽やかでカラっとしていたからだろう。
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