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小説『空生講徒然雲7』

 私は今、『もの思う種の世界』にいた。これは、里帰りのようなものだ。御師の私は一年に一度だけ二つの世界を行き来することができた。
 私の生まれた土地は北関東の山々を見上げるような川の畔にあった。関東平野の北限いっぱいにいくつかの山が折り重なっていた。その稜線を下ったところに里山がへばりつくようにいくつもある。そんな土地のひとつが私の故郷だった。
 北の山を頭に見立てれば、西の肩から東の腰に襷掛けするように川がながれていた。その川はやがて県境を越えて利根川と合流する。
 その川が氾濫して堤防を越えたことがあった。
 半世紀ほど前に襲来した台風だ。この内陸に広がる平野の北隅にべったり張り付いた町にも大風と大雨による大水があった。水難者は五十を超えた。
 その日は祭りだった。
いつの頃からあった祭りなのか。正確には、誰もしらない。どんな賑やかで雅やか祭りでも、その源流を辿れば、その土地の風土の悲しみに行き着く。  祭りは悲しみを和らげて慰めてくれる。それが祭りというものだ。
 何度目かの浅間山の噴火。それがこの土地の祭りのきっかけだろうか。いくつもの山を越えて(飛来して)きた大岩が、名もない草はらにめり込んだものをよく見かける。散歩途中にとつぜん現れたしめ縄が巻かれた大岩に、この土地の者たちの心情がくみ取れた。
 こうした度重なる浅間山の噴火による噴石と濁流が、五穀豊穣の祭りを生んだのだろう。
 台風が立ち去ったあと、川いちめんに大風で飛ばされた『面』がぷかぷかういていたそうだ。出店で売られていたらしいその面が、まるで「身代わり」になったように、この土地の水難者は少なかった。こうしてこの土地の川沿いは整備されて散歩道がひらかれた。それを、『もの思う種の小径』という。私以外誰も知らない『小径』の名だ。いつものことだ。
 それに合わせるように、水難者の魂を鎮めるための秋の祭りも生まれた。それが『面祭り』だ。五穀豊穣の祭りが『面祭り』に姿を変えたわけではない。とってつけたように自由に二つの祭は混淆したのだ。我々日本人はどさくさに紛れて拘りをいとも容易くあらっぽく変える癖がある。それが良い方にでた。と思う。
 五穀豊穣の神懸かりの踊りと面の相性は言うまでも無い。抜群だった。偶然にしては合点のゆくことだらけで、文句の付けようのない祭りになったのだ。浅間の噴火から始まったとされる祭りにそれらしい面を被せれば、図らずも縄文の風をかんじることができた。皆、よくわかっていない。その、よくわからないものの尊さに感じ入っていた。今も昔もかわらない。よくわからないものにでも神を見て手をあわせるのだ。八百万とはそいうことだ。
 白面に朱色で図形や縄文が描かれている面を被った子供たちが駆けっこしている。もう、それは、ただのプラスティックには見えなかった。尊いプラスティックがそこにあった。
 因みに私は、北関東には余り馴染みのない、九州地方の装飾古墳の壁画柄の面を好んで被っていた。色彩ゆたかで格好いいからだ。

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