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2022年8月から始めた「新しいこと」にワクワクしてる件。



私の2022年8月から挑戦している新しいこと、それは「演劇鑑賞」。そして鑑賞後の想いを文章に表現することです。


日本に本帰国してまだ1ヵ月も経っていないのに、非常に多くの芸術に触れられることに幸せを感じています。そして、自分にとって新しい芸術に日々刺激をもらっています。その新しい芸術とは「現代演劇」です。


演劇、特に現代劇というのは、私の中で非常に縁遠い「芸術」でありました。なぜ自分が演劇を敬遠していたのか、今更ながら振り返ってみます。

演劇と言うのはその人が目の前で演じます。私はその「人が演じる」いうう行為に立ち会うことに非常に恐怖を感じていたような気がします。人が演じる場に立ち会うこと、そこに演じるという現実があるということに対して私は「自分はそれを見ていていいのだろうか」という恐怖感に襲われるのです。なぜ恐怖を感じていたのかは、自己肯定感の低さかな。。それが私が演劇を敬遠していた理由かな。。(この点はもう少し色々演劇鑑賞したらまた違った分析ができるかもしれません)。


2022年8月、日本に本帰国したので、私は現代演劇を積極的に鑑賞しています。なぜ現代劇に目覚めたか。それは現代演劇を敬遠していた私に「こっちに来てみませんか?」と誘ってくださった素晴らしい俳優さん(今は女優さんって書かない方がいいみたいなので書き直した)がいたからです。

それは佐々木ヤス子さんという俳優さんに出会ったからです。


彼女の演技をシンガポールのひとり芝居で初めて見たとき、私は非常に驚かされました。それはとても芸術的で、そしてそこに存在する彼女はとても象徴的でした。演者であるのに、そこでの演技そのものを現世界から離脱させてくれた感がありました。
つまり私はその場にいる彼女を純粋に演者存在として見ることができたのです。


ちなみに現代演劇鑑賞に慣れていない私ですが、私自身は歌舞伎もパフォーマンスも好きなんですね。つまり、古典や身体系は結構好きなんです。失業夫婦、大好きでした。




私は9年ほど東南アジアに住んでいたので、演じる言葉が日本語以外の言葉である場合も数多く遭遇してきました。この「日本語以外であること」は結果的に私にとってとても都合が良かった気がします。なぜなら私は英語がとても苦手だからです。9年住んでたわけですが、悲しいことに英語力に変化はありませんでした😭。9年という年月を経て私が「聞き取ることを選択することで自分の身を守る」というテクニックを身につけました。
聞き取ることを苦労すると言う事は、同時に聞き取る事を選ぶことができる。つまり聞き取りたくないことを私は聞き取らなくて済むと言うようなシャットダウンすることが出来るようになるのです。

よくよく考えてみたら、この「聞き取ることを選択する」という行為ができないから、現代演劇を敬遠していたのかもしれません。

例えば歌舞伎。歌舞伎は私にとって演じている役者さんを象徴的に感じることができます。それは歌舞伎が古典芸能で、話されてる言葉が古典日本語だから。私はその古典日本語を聞いて、自分で翻訳して理解するというワンクッションがもらえるわけです。
つまり私にとって楽しめる演劇とは「演者がその人そのものから明確に離脱する」「自分の中で消化するために1クッションがある」ことが必要だったのかもしれません。

現代演劇は日本語が母語である私にはその1クッションがありません。その
ダイレクトさに恐怖を感じていたのかもしれません。


これは単なる仮説ですが

「「現代演劇鑑賞が好きな人って電話で話すことが好き」なのでは?」

電話っていきなり来るじゃないですか。いきなりダイレクトにわかる言葉を直球で投げられることに抵抗がない人は現代劇好きな人、多いのではないかな。。(ちなみに私は何語でも電話は嫌い、特にかかってくる電話は大嫌いです😅)


でも、本当に揺さぶる演技を目の前で見ると、それが日本語でも何語でも揺さぶられるんですよね。1クッションを。。って感じる確認すらいらなくなる。その体験を佐々木ヤス子さんの演技で体感できたから、私は現代演劇を見てみようって思えるようになったのだと思います。

現代演劇は現代の言葉で演じられます。映画やドラマと違い生の人間が演じる場を共存します。「場の共存」による感情移入にまだ躊躇してしまう自分の感情の再発見感がすごいです、同時に美術や古典芸能、音楽に関しては感じ方の枠など気にしないのに、なぜ現代演劇だと「こう鑑賞すべき」的な感覚が残るのか、その部分に関して掘り下げるために色々な演劇を鑑賞してみたい!という楽しみにワクワクしています。

8月は「GEAR」と「へそで、嗅ぐ」を鑑賞しました。



いろいろ思うことあったのでぜひ書き残したいと思います。