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リアリティーショーの見かたの流儀、作法がわからない

先日植えた野菜の苗たち、トマトなんかとても元気なのだが、生存が危ぶまれていたベビーリーフは本日ついにその姿を消失。

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消えてしまった。

消えたと言っても手品のようにあとかたもなく消えるというわけではない。いや手品でさえ種がある。消えたと思ったそれは別のどこかにあるのだ。植物の場合、諦めた頃に後から葉が出てくることもあるし、植物としての命をまっとうしたあとは昆虫や微生物に分解され、土の一部になったり別の生物の一部になる。そうやって命はまわっている。とはいえうまく育てることができなかったのは残念だし私の責任でもある。ポットの根を崩しすぎた、直射日光の当たる場所に植えてしまったなどいろいろ思うところはあるけれど、どうもベビーリーフの苗をうまく育てられた試しがないので私が育てるにはデリケートすぎる品種なのかも知れない。小さい葉っぱは、お弁当に入れるのに便利なのだけれど。

昔種から撒いたルッコラはわりとうまく育ったので来年はルッコラを種から育ててみようかな。

命を守るということ

唐突に大袈裟な見出しを付けたが、このところ話題になっている木村花さんという方が亡くなったことが気になっている。リアリティーショーに出演中の彼女はSNSで誹謗中傷をされた事を苦に自殺してしまったというんだが、SNSの規制や番組の在り方への疑問なども噴出しているようだ。社会が彼女の存在を分解し、それを糧に成長しようとしている。

私は彼女の存在を亡くなるまで知らなかったし、テラスハウスは昔ちらっと見たことがある程度で関心もなかったが、SNSや政治やメディアの在り方にまで飛び火する様相を見ていると彼女が背負わされていた問題の重さがうかがえる。きっと大変な思いをしていたんだろう、その命を無駄にしたくないので私も何か書いておこうと思う。

リアリティーショーの見方がわからない

私がこの手の番組と初めて出会ったのは電波少年だったと思う。芸人が番組に勝手にどこかに連れていかれて何かさせられて、その様子を見て笑うみたいなものが名物だったと記憶しているが、猿岩石の感動的な旅が大ブームになった。それが実はやらせでした、というバッシングまでセットのブーム。猿岩石の企画が始まったのは1996年、過酷な旅をする姿で人気者になって、帰国してからは歌を出したりアイドルのような扱いになっていたが、私は途中から見るのをやめてしまっていた。というのも、当時バックパッカーの知人がいたのだけれど、日本にあまり居ることのない彼に「日本で最近こういう番組あるんだよ」と教えてあげたら、「知ってるけどあれ嘘だよ!俺も同じ国行ったけどあんな早く簡単に入国できないし」とかいろいろ、共感を得るどころか逆に怒らせてしまって、私も番組に対してすっかり冷めてしまった。その後やらせだとバッシングされたけど、さもありなんと思う。

それにしてもやらせと知るとなんであんなに冷めるんだろう。次に思い出すのがあいのりのブームだ。猿岩石のやらせ騒動から約十年後ぐらいの話だが、職場に行くたびに昨日のあいのりの話してる人がいたり、女子会でもその話題で盛り上がる時期があってなんだかついていけなかった。一度仲いい人たち相手に「でもやらせじゃん」と言ったことがあるけど、「うーん、わかってるけど…」って感じのリアクション。もしもあれ全部、やらせだったとしたら面白いと思う?と聞いたらそれはー…と言い淀み黙り込む人もいた。

これは私の想像だけど、リアリティショーっていうのはうっすら嘘だと知りながらもそれが現実だと信じ込む、でも嘘だと知るとすっかり冷めてしまうという、とってもあやういものなのではないか。

コントや芝居や映画やドラマと、バラエティやリアリティーショーとの明確な違い

中にはコントやドラマを見て、それを演じている人の人間性と同一視する人もいるけれど、今のご時世そんな人は極めて少ないと思う。それは、エンタメには脚本があって脚本家が存在し、演者は物語を演じているということが認知されているからだ。見ている間はその役者がその役柄の人物そのものだと思ってみていても、見終わったあとに「え、この役者さんはこの役柄本人じゃないの?」と思って冷めることはない。そこまでのめりこんでみることができたなら、それは役者の演技力や脚本や演出がすばらしかったのだ。

けれどもバラエティやリアリティショーはどうなんだろう?ずいぶん前からバラエティ番組でも○○キャラとか台本ありきとか言われるようになってきているけど、私はここにとても気持ちの悪さを感じる。芝居なら幕開けから幕が閉じるまで、映画ならその映画の枠のなかにある物語を生きることが、脚本があって役を演じるということだ。その枠の外でもその役を演じてその役のようにふるまっていたらその役者は相当変な奴ってことになる。学芸会でかぐや姫の役を演じる女の子が、日常生活でもかぐや姫然としてふるまいはじめて、やがて元々の人格が完全に消え去ったらどうか?近所のあの子がかぐや姫としての日常を生き始めているのを見たら、こいつやべえなとクラスの全員が思うはずだ。

バラエティ番組のお笑い芸人のキャラクターやリアリティーショーの出演者、彼らは役者ではないし、視聴者も役者の演技を見るつもりで番組を見ない。演技じゃなく何を見るかというと、その人の人間性しかないんだと思う。

演技を見てそれを消費するエンタメというのはアートの部類だと思うけど、リアリティーショーは人間の生きざまや存在そのものを消費する。それって売春や風俗みたいな部類なんじゃないかと思う。演者がただただ人としての尊厳をすり減らすことによって成り立つような部類の。そういうショーを無自覚に垂れ流すメディアと無自覚に消費する大衆っていう構図は、非常に危険だと思う。よくわからずに出演してしまう演者も。

このままではまた同じようなことが起きそうな気がしてならない。SNSの誹謗中傷は不快ではあっても社会的にはたいして害はないと思う。ブラック企業で働く人間が自殺したとして、迷惑クレーマーみたいな奴がその人にクレームつけていたとして、その死は客のせいだろうか?私は組織のありかたのほうが悪いと思うのだけれど。末端社員に無茶をさせて上前をはねておきながら、問題が起きたら迷惑客のせいにするとは人道的にいかがなものかと思う。


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