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目上の人を褒めてはいけない

こないだ「ご褒美」についての記事を書きました。

その時に調べた「ご褒美」の意味。

「褒美」の丁寧な言い方。目下の者や自分に、ほめる意味で与える金品や栄養など。
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これを読んだときに、ドキッとしたのです。それについて書こうと思います。


約23年くらい前、まだ肌にシワもシミもなく、洋服のサイズに悩むことなんて想像もできないような若かりし頃のわたしは、「よっこらせ」と自宅のある山を降りてバスに乗り、電車に乗り、新宿の某企業に勤めていました。なんと通勤1時間30分。

今ではとても考えられない。

(今でもそういう人はたくさんいることは知っています。おつかれさまです!)

毎日満員電車に乗り、学んだことがあります。
始発に乗れたからって、座ってはいけない。乗る時間が長い場合。

1時間も電車内で座っていると本も読めるし、雑誌も読めるし、勉強もできるし。

(あれ?スマホがない時代。携帯はかろうじて分厚いのが存在していたけど。今思うと対してやることなかったな。どうやって過ごしていたんだろう。)

そんなふうに思うかもしれない。
それがね、満員電車に1時間。って立ちっぱなしはもちろん、座りっぱなしも辛いのです。

なぜなら、あまりにギッチギチで身動きができない。しかも前に立っている人の膝が当たってくるから痛い。電車が揺れて膝の上に座られたことも。もちろん立っている人も精いっぱい自力でつかまっています。怒ったりしません。

一度ひじを前に出したら、二度と終点まで肩の位置を動かせない。

カバンからモノを出そうと、ちょっと前のめりになったら最後、その姿勢のまま終点まで凍ったままなのです。

目の前に差し迫る新聞の記事を読んでも読んでも、最後まで読ませてもらえない悔しさも。

あるときは「じゃあ、立ってみよう」と始発から立ちっぱなし。もちろんヒールを履いた足元からいつ崩れ落ちるかヒヤヒヤの体力と「どこの吊革をつかむか」という周辺の人々との格闘タイム。

電車は揺れる。そして人が出入りする。たとえベストポジションがとれたとしても、動かないわけにいかない。

まあ、とにかくどっちにしても、「満員」は大変、ということです。

匂い・音・雰囲気、すべてにおいて100%苦手な状況。痴漢にもあったし、なぜか好意をもたれて追いかけられたり。

なのにどうして通ったのだろう。

魔が差した

としか言いようがない。当時の彼が働いていた田町の近くに行きたかった。たまには帰りにデートをしてみたかった。ただそれだけ。

若いって恐ろしい。

思い出した。その後に結婚した後も、今度は職場のあった目黒までたった二駅ということが最大のリサーチ不足。あちこちから集まってきた人たちの目的地に近すぎて、すでに電車は一匹のネズミさえ乗れない状況。いや、それくらいなら乗れるか、足元あたり。

そこに背を向けてお尻で人を押しながら電車に乗り込む。なんて芸がわたしにはとてもできなかった。ということで毎日二駅分、歩くことにした。

(コロナ後の今でもそんな駅が存在するのだろうか。そうでもしないと職場に辿り着けない方々、おつかれさまです!)

今ならどんなご褒美をもらえたって絶対に断る。家を買ってあげると言われたって断る。

あ、ご褒美で思い出しました。今日書きたかった話は電車の話でも、都会の話でも、昔の彼の話でもなかったのだ。


その、(思い出せない方は恐れ入りますがいちばん上からどうぞ)
若かったわたしが通った新宿の会社での出来事。

入ったばかりのわたしは、一人の女性に仕事を教えてもらっていました。その女性は、上記で示したように若かった私よりもさらに年下でした。

それはいいのです。年齢なんて関係ありません。私は素直で優しい子でした。(ほんと)なんでも「はい」と応えて教えてもらったように仕事をこなしていました。

そしてある日。5ヶ月くらいたった頃でしょうか。素直で優しい子だったはずの私が、だんだんと仕事のやる気がなくなってきて(通勤の問題も大きいかも)、教育係の女性と話すのが苦痛になってきました。

というのも、彼女のことばがどうしても引っかかるようになったのです。

彼女が言ったのは、たとえばこんな感じのことです。

「すごいね」
「よくできたね」
「では覚えたかどうかテストするね」
「これはまだできないと思うから、こっちを先にやって」
「うまくできなかったらランチタイム減っちゃうかも」

これ、よーく聞くようなことばです。

母である私が、息子の勉強タイムなどに使うのです。

なぜこれらの言葉を、20代だった私が同じく20代の、だけど年下、に言われるとムカッとくるのでしょう。

言葉だけ見ると、よく褒めてくれるし、きちんと覚えられるように気を遣ってくれているようにも思えるのですが、実際に言われてみると、

あなたに言われたくない」となるのです。

完全にこちらを見下した(当人はそんなつもりはなくても)印象を受け取っていました。

「褒める」という行為は「評価する」ことです。評価は目上の人が目下の人に対して行うのが基本らしいです。ですから、「目上の人を褒める」こと自体が間違いとされているのです。

お互い若いし、仕事を先に覚えた先輩がたまたま年下だったというだけで、「見下してる!」なんて思われてかわいそうな人でしたね。私も相当我慢しましたが、「テストするよ」とか「ランチタイム減らす」なんてマニュアルにもないことを勝手にやろうとするので、いい加減に爆発しました。(あ、したんだ)

今思えば、一生懸命教えてくれていただけなのに、こちらの方が年上だ、なんて逆にひどい「上から目線」は私の方です。私にはすでにそこ以外の3社で役員秘書やアシスタントの仕事をした経験がありました。そんな自分を上に見ていたのは何を隠そう、この私自身です。ひどい偏見です。恥ずかしい話です。

それにしても、あの当時から言葉にうるさかったんだ、と自分だけ納得。

この感情を思い出したのが、先日の「ご褒美」の説明文にあった「目下の・・・」だったのです。

たとえば私の父が包丁できゅうりをサクサクサクサクと切っていて、孫である私の息子がまだ4歳5歳の頃に「おじいちゃん、上手ー」と言うのは許される気がします。

それが夫だったら?夫が「お義父さん、包丁の使い方上手ですねー」なんて言ったら、私ならその場から逃げます。

この感覚は間違っていますか?気にしすぎかもしれません。

アドラー心理学では、モノで釣ったり、おだてて相手を動かそうとしたり、思い通りにさせようとして褒めるやり方、またはテストの結果や一番になれたなどの「結果」のみを褒めるのはよくない。とされているようです。

だからと言って全く褒めないわけではなく、頑張っているプロセス(過程)をよく観察して、悔しいとか情けないなどの感情も含め、そんな気持ちに共感してあげることだそうです。

プロセスに共感する褒め方。

ことばってあらためて、難しくって面白い。

褒めるより感謝、とも言われますね。
私は、自分の誤った思い上がりを、20年以上後に知ることになりました。あの時の年下の先輩のおかげです。ありがたいことです。

その後の人生で、5歳や10歳年下でも、お互いの言葉遣いを気にしない友人になれたり、逆にこちらが頭を下げたくなるほど完全に尊敬に値する人であったり。有り得るということを学びました。



目上の人を褒めてはいけない

とはいえ、多様性に満ちた現代、それは年齢ではない。すべてはお互いの関係性によるのですね。
ことばは生きてる。

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