大林宣彦監督インタビュー 成城と映画と平和について(第1回)
成城学園は、2017年の学園創立100周年の際に100人の卒業生や関係者からメッセージをお寄せいただきました。2020年に亡くなられた映画監督の大林宣彦さんもその1人です。
1956年に成城大学に入学された大林宣彦監督にメッセージをいただくために取材にお伺いすると、雑誌やテレビで見たままのあの笑顔で迎えてくださいました。そして、大学時代の話や映画にまつわる話、平和に対する思いを熱心にお話しいただきました。
sful取材スタッフが2016年当時に伺った大林宣彦監督のお話を、なるべくそのままにお届けします。
当時の東京は火星?
成城大学といったらやっぱり「武蔵野」ですよ。
僕は広島県の尾道でしょ。海と山には親しんできたんですが、雑木林と川がないんですよ。それは映画の中でしか見ることができなくて、それもヨーロッパ映画ですよね。
大体、尾道から当時は大学に行くといってもせいぜい京大、阪大くらい。尾道から東京に来た人も10人はいなかったでしょうね。
僕は何しろ映画に憧れてましたから、日本ではないところに行きたい。僕らの時代に東京に来るっていうのは、あの当時はロンドンとすると、今で言うともう火星って感じかな。
つまり日常にないんですよ、東京っていうのは。完全な虚構でね。
ラジオを聞いてると、朝に「なっと、なっとー」って売りに来るでしょ、 納豆なんてのは甘納豆しかない里ですから「江戸の人は甘納豆をご飯にかけて食べるのか」、そういうふうに思ってたぐらい。当時は日本でもホントにまだまだ今のように行き来はなくってね。なので、東京というのは全く僕にとっては虚構の、現実感のない日常性のないところだったんです。
あと、福永武彦の『草の花』という小説にすっかり全身で飲み込まれていたので、これも虚構ですけれども、大井町の高台に広いサナトリウムがあるというので、そこを訪ねて。当然あるわきゃないですよね。虚構ですから。
虚構の世界に生きる
何もない、あると信じるところに生きるんだと。信じればあるけれども信じなければないというところで僕は生きようと。つまり虚構ですね。虚実の世界、狭間(はざま)に生きようというふうに決めた。
で、「虚実の狭間」とは僕たちにとっては「自由」という言葉に置き換えるしかないんですよ。
つまり「実」は戦争であり、「虚」は平和であり、当然平和なんてのは「虚」だからあり得ない。「実」は戦争しかない。
そういう時代の子どもですから、「実」の間にあるのが「自由」。
そしたら僕たちが初めて敗戦後の日本で、日本の歴史で初めて戦争のない時代の大人になった世代なんですよね。だから気概は何もないわけ。
映画をやるといっても、黒澤さんも溝口さんも木下さんもみんな戦争中の人たち。だから僕は違うことをやらなきゃいけない。それで黒澤は東宝、小津は松竹、溝口は大映ということだけど、僕はどこにも入らない。しかも当時アマチュアのおもちゃでしかなかった8ミリの機械。これで映画を作る。それも映画の中の虚実ですよね。8ミリなんていうアマチュアのおもちゃで映画作家になろうなんていうことは。
で、お師匠さんはトーマス・エジソンと決めて、エジソンは映画を発明してくれたから僕がいるんだと。
成城学園との出会い
そういうことの中で東京に出て、いとこがいた鷺ノ宮のあたりの下宿に同居をしましてね。当時はみな同居ですよ。アパートといっても近くに下宿屋があって、そこで朝夕はみんなでご飯をいただく。で、そのいとこの6畳の間に潜り込んで、東京生活が始まって最初に自転車を買って。
当時、映画は東京より尾道はまわってくるのが1年遅かったんです。だから東京に来るとフランスやイタリア、ドイツ、イギリスなどヨーロッパ映画やアメリカから来たばっかりの映画が見られるというので自転車に乗って、コッペパン1つ持って、東京中を朝から晩まで3本立ての映画館をまわって過ごしてる内に、ある日「向こうに雑木林が見えるぞ、あれが武蔵野の雑木林かな?」と思って、そっちに向かってどんどんこいで行ったら、雑木林がどっと近づいてきて、それが成城学園。
僕、グラウンドの向こう側の裏から入って来たんですよ。
成城の丘陵が雑木林でしょ。僕の映画にも何度も出てきましたけれども。裏から入って細い川を通り越してね、グラウンドでラグビーをやってる横を自転車押していって、雑木林の坂道を下ってヒュイっと校庭に出たら、雑木林の中に木造の講堂が建っていてね。それで正門から出るわけですね。
出たらヨーロッパの町ですよ、コツコツと靴の音がしてね。しかもパン屋さんの匂いがする。町を歩いててパンの匂いがするなんてのは、もうパリかロンドンかしかなかったですからね。パンもうまかったですよ。それで小田急がフォッフォーなんていう魔法のような音をして走ってね。「ああ、いい町だな。この町に住んでみたいな」ということで、それが成城との出会い。それでこの学校に入ってみようと。
成城も僕の試験に合格した
僕は1年浪人してましたけど、1年後に成城学園の試験を受けまして。慶應の医学部を受けるつもりで出てきたぐらいですから、こんなちっちゃな学校ぐらいはさらりと受かるだろうと思って。しかも英語と国語と面接ぐらいだったかな。確かね。
面接でよく覚えてるのは「日本の俳優さんで誰が好きですか?」と聞かれて「阪東妻三郎に入江たか子」だと言ったら「随分昔の人ですな」って言われた。
当時はシャンソンブームで、実存主義やサルトルがもてやはされていた時代。
僕は、ピチっとしたマンボズボン履いてグリーンのジャケット来て、真っ赤なスカーフを巻いて、ベレーかぶって、ウィスキーの瓶をおしりのポケットに入れて。それで受験に行きましてね。
つまり、その服装だけでこの学校なら受かるという感覚ですよ。分からなきゃ入ってやらない、みたいな。
英語の試験の時にポンっとウィスキー置いてやってましたら、見回りの先生が「よき香りがいたしますね」と言われて「先生も一献いかがですか?」って「あ、頂戴いたしましょう」って。お互いに飲んで、受験したというね。
だから僕の試験にもこの学校は合格したわけで。
東京に出てくるってことはそういうことで、ヨーロッパに行くってことですから。
つまりこちらはヨーロッパ映画の主人公になってるつもりだから、現実感ないですからね。それで受験の結果も見ないで、そのまま学校行ったら受かってたというぐらいのね。
成城大学の日々
講堂がまだ木造だったと思いますが、なぜかトイレがコンクリート造りでね、そばに木が1本生えてて、夏は日陰になる、木陰になるのね。冬は葉っぱがなくなって、いい日差しになるんです。
そのトイレの屋根の上に1日中いる「シャー」という先輩がいたな。本名は西って言いましたよ。東南西北(とんなんしゃーぺい)で、シャー(西)と皆呼んでましたけどね。僕が入った時に彼は4年生でしたけども。その彼は1日中そこにいるわけです。
「アイデンティティー」って言葉はまだ出る前ですが、今で言うアイデンティティー、存在の証明って言うのかな。「シャーはどこにいる?」って言うと、みんなトイレの屋根を見ると、そこにいる。そこにいなかったら彼はこの世から消滅するという感覚ですよね。だから彼は暗い内に学校へ来て、屋根に上ってみんなの部活動までが終わって、みんながいなくなって降りて帰るっていうね。
彼は尿瓶とね、原稿用紙と鉛筆と消しゴムと歯ブラシだけを持って屋根の上に1日いたんですよ。彼が恋愛した時、面白くってね。かわいい女学生と2人並んでちょこんと上に座ってて。そりゃあ短い間だったかなー。すぐ失恋したんだろうと思いますけどね。
そんなことがあったので、僕は僕の居場所を見つけなきゃいけないということで、講堂のグランドピアノの上に僕の愛機の8ミリをポンっと1つ置いて、1日中そこでシャンソンを弾いてる。そうすると女学生たちが聞きにくる。フィルムがもったいないですから1コマずつカチャカチャ撮って、ピアノ弾いてというのが僕の存在証明。
だから授業なんか出てらんないわけですよ。5年間いて18単位しか取らなかった。
先生もアサヌマ先生をはじめとして、授業に行ってても「さあ、お茶にしましょうか」って言って、みんなで出て、当時駅のところにちょっとオシャレな喫茶店があって、そこで映画談義をしたりね。
それから「ハイデルの丘」っていうのがありましてね。ちょうど今の不動坂のあたりなんですね。当時は日本の文化っていうのはドイツですからね。だから成城も「アルト・ハイデルベルヒ」というドイツの青春文学の里をなぞらえてハイデルの丘。そこを散歩して、野川を散策して、お茶を飲んで、映画を語っている。当然これ単位になりませんよね。
「僕と結婚しない?」
私の1年下にうちの大林恭子がいまして。20人ぐらいが1つのゼミで1年から4年まで一緒で。教室から教室行く間に、クヌギの林のトンネルがあったんですよ。ちょうど2人が並んで歩ける広さなのね。たまたま2人で並んで歩き出して、ちょうどクヌギの林から太陽がこう差してきて。瀬戸内海の海に潜って、海から水面に泳いで出る時の雰囲気なんですよ。
もうじき海から海面に出るぞと。海面に出たらもう現実なんですよね。水中にいる時が虚構だから。虚構にふさわしい言葉を何か言わなきゃいかんというので、そうなりゃ映画のセリフと同じでね。「僕と結婚しない?」って言って、答え聞く前に海面に出ちゃったわけですね。で、それで終わり。
ところが翌日ピアノ弾いてたら、明るい校庭の向こうからピョンピョン跳ねながら少女が1人やって来て、誰かと思ったら、恭子さんで「昨日の話ですけど」って言うから「はい」「私も18年間結婚についてはしっかり考えてきましたから、返事は『はい』です」って言うんで、それで一緒になっちゃった。
そういう学校だったの。そういう雰囲気だったの。学校自体がね。日本にいるって感じしないんだから。
第2回に続く。
文=sful取材チーム 写真=本多康司
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