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【小説】黒く塗れ (2/13)

 次の日、僕は仕事中に238120のところに行って聞いてみた。

 「それで、どうだった? 何かわかった?」

 帰宅するなり彼女はそう言って聞きたがった。

 238120は技術を追及するタイプで、それ以外の事にはあまり関心を示さない。だから彼には親しい友人のようなものはいなくて、いつも一人で黙々とやっていた。そして、982731やその仲間たちの事を仲間だとは考えていなくて、同じグループにいる同僚以上のものではないのだった。彼が僕に言ったのももっぱら技術の話ばかりで、それはこんな感じだ。

 塗料の作り方は、会社の規定では5から10パーセントの水で薄める事になっていて、実際にはバケツに塗料の量と水の量を示す線があってそれぞれにその位置まで入れれば良いとなっている。けれども、塗料の状態にはバラつきがあって毎日少しづつ変わる。そして午前中と午後でも変わる。そのやり方でも塗れるけれども、少し塗り難かったり塗った面の仕上がりが違ってきたりしてしまう。水が少なくて粘度が上がれば塗り難くなるしブラシのストロークが短くなって効率が悪い。だから238120はもっと厳密にコントロールしていると言う。指を薄めた塗料の中に1センチ浸してからすっと上げる。そして塗料が初めて指先から落ちるまでに2秒になるようにする。遅い場合はさらに水を足し、早い場合は塗料を少量追加する。ここがきちんとできていないとその後の全てがダメになるから最も注意するべき点だと彼は強調した。混ぜる時間は厳密に1分と20秒でなければならない。それは混ぜすぎると塗料に含まれる顔料が分離してしまって細かい顔料のダマが混じるからだ。彼の経験では1分20秒が最適だそうだ。ブラシに付ける塗料の量はブラシの先端から80パーセント程度に抑える。それ以上だとブラシの柄の部分に塗料が乗ってしまって垂れる可能性が高くなるし、垂れないまでも毛の側に戻って塗りムラの原因になる。逆に80パーセントより少ないと塗料の無い部分が塗装面に当たってこれもムラの原因になる。ムラは品質の上で問題だし、あまりに酷い場合は塗り直ししなければならなくて時間の無駄だ。ブラシは上から下に向かってストロークさせるが、ストロークは重力による自由落下よりも10パーセントほど速いスピードで下ろす。自由落下と同じであるとブラシから搾られた塗料がブラシより先に走る事で塗りムラが発生する。逆にあまり速すぎると擦れが発生するし塗装面が乾き易くなって艶が落ちてしまう。自由落下の感触を知るにはブラシが自然に落ちるのを指で感じる必要があるからあまり強く握っていてはいけない。常に指に伝わるブラシの重さを意識する事だ。

 238120は僕が質問しに行ったのが嬉しかったようで、細かいところまでアドバイスをくれた。僕もこのグループに入って仕事を始めてからずっと一人きりで考えたり悩んでいたので、技術の話を聞けたのも助かったけれど、他人と話ができたのが嬉しかった。

 「そう、それは良かったわね。」

 彼女はさらりと言った。彼女の場合、僕が熱を上げて話せば話すほどに短く切り上げてしまう。言った事がちょっと専門的過ぎて難しかったし、あまり興味の無い内容だったせいかもしれない。でも、それもいつもの事なのだ。

 次の日、僕は238120に教えられたようにやってみた。以前よりは確かに速く塗れるようになった。でも、実際のところ塗った面が1割ほど増えただけだったけれど。もう少し慣れてぎこちなさが無くなればきっともっと速くなるだろうと思った。

 さらにその次の日も僕は一所懸命に練習を重ねた。ちょっとずつ速くなるのが自分でもわかった。僕は早く成績最下位を脱しなければならないのだ。


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