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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 悪 (第29章 前半)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

「悪」とみなしているものに私たちが直面するとき、それは自我の自衛本能に対する脅威となる。私たちはこの脅威に直面して、自分の存在を守ることに忙しく、その対象をはっきりと見ることができない。
-チョギャム・トゥルンパ

 時々、Q&Aセッションやインターネット上のコメントの中で、「人間のダークサイド」を私が無視しているとして非難されることがあります。その言葉を紐解いてみようと思います。人間のダークサイドとは何なのでしょうか?それは、「時々、人はかなりひどいことをする」以上の意味を持つのは確かです。もしそれが誰かのせいでもなく危害を加えるつもり意図もなかったとしたら、当然それはあまりダークではないからです。また、私の著作を読んだことのある人であれば誰でも、私たち人間が互いに、そして地球に対してしてきたひどいことについて私がしっかりと認識していることを知っているでしょう。そういうことではなく、人間の性質のダークサイドについて私たちが語るとき、私たちは気質論的な主張をしているのです。私たちが悪いことをするのは、私たちの中に悪いものがあるからなのですと。私たちは、悪、敵意、利己主義、強欲、残忍さ、残酷さ、暴力、憎しみ、非情さを内に秘めていますと。


 一方では、これらがすべて人間としての体験の一部だということは明らかに真実です。状況がそれらを引き出すのだとしても、それらが引き出されるためにはそこに存在していなければなりません。しかし、それだけだとしたら、状況主義者の応答は満足いくものとなります。悪を引き出している状況を変えようではないですかというものです。それは簡単なことではありません。この「状況」には、「分離と上昇」という文明の神話の基礎となる神話に至るまで、私たちの文明の構造全体が含まれています。それでもなお、もっと美しい世界は原理的には実現可能なのです。


 私が知る限り、批判者たちはそれ以上の何かを言っています。「悪は私たちの制度の産物であるというだけではないのですよ。確かに、貨幣制度のような多くの制度が悪を引き出し、悪に報いていますが。悪はそのいずれよりも先に存在していました。実際、邪悪な制度は邪悪な人々によってつくられ、私たちに押し付けられたのです。それだけでなく、そのような悪人たちは今日でもまだ存在しています。彼らはあなたが制度を変えようとすることを許さないでしょう。チャールズ、世界には悪が存在するのですよ、根源的な悪が。それがどのように癒されるかについてのファンタジーで自分を慰めても、悪は簡単にあなたに付け入るでしょう。悪には立ち向かい、打ち勝たなければならないのです。」と。


 このような批判を投げかけてくる人たちの中には、世界を秘密裏に支配するイルミナティの悪の秘密結社という形で悪を外在化する人たちもいれば、悪を自分自身の中にも位置付ける、よりニュアンスのある立場を示す人たちもいます。いずれにせよ、彼らは本質主義の提唱者のレンズを通して悪を見ています。


 この批判に返答する前に、私がこの世界で起こった、そして今でも起こっている最悪の事態を知らないわけではないということを立証する必要があると感じます。組織的、個人的な悪について人々が言及するとき、私は彼らが何について話しているのかをわかっています。世界の債権者が、子供たちが飢えに苦しんでいる国々から利払いを抜き取っているのは悪の他に何であるというのでしょうか?コンゴの女性たちが銃剣でレイプされているときに他に何であるというのでしょうか?幼児が絞首台に送られているときにそれは何なのでしょうか?電動工具やペンチを使って人々が拷問されているときにそれは何なのでしょうか?児童ポルノのリアルタイムカメラで赤ん坊たちがレイプされている場合にそれは何なのでしょうか?労働に関するアクティビズムに対する罰として、子どもたちが親の目の前で殺されるときにそれは何なのでしょうか?ネイティブアメリカンの子どもたちに母語を失わせ、多くの場合命を失わせるために強制的に全寮制の学校に送られるときにそれは何なのでしょうか?利益のために原生林が切り倒されるときにそれは何なのでしょうか?有機廃棄物が陥没孔に投棄されているときにそれは何なのでしょうか?実質デモンストレーションの目的のために原子爆弾で都市を壊滅させているときにそれは何なのでしょうか?この惑星上の残忍さと偽善には際限がありません。人間が他の人間にすることで想像できる最悪の物事が行われてきたのです。もし悪が原因でないとすれば、どういうものなのでしょうか?


 こうした現実を認めていない世界観は、楽観主義、信仰、勇気の源としては、いずれ私たちを失望させるでしょう。これらの出来事が起こる世界に生まれ、私たちは皆、それらの痕跡を携えているのです。それを自覚しておいた方がいいのです。私の場合は、時には今起こっている大量虐殺について読み、タールサンド採掘の写真を眺め、森林の世界規模での減少についてを読み、戦争や刑務所産業などの影響を受けた人たちの個々の物語に触れることが大切なのです。最悪の事態を目の当たりにしたその時にはじめて、私の楽観主義は真正なものになります。私の心を強くとらえるのは、大抵の場合、小さな個人的な事例です。例えば、カリフォルニアで出会った女性は、さらにもう一種の薬が息子さんに処方されるのを拒否しました。なぜなら、新しい薬のたびにさらに具合が悪くなっていたからです。20種類以上の薬を処方され、彼女はもうたくさんだったのです。そうすると、児童保護サービスが息子さんを連れ去ったのです。1ヶ月後に彼は亡くなりました。私はそのストーリーといくつもの同じようなストーリーをどこへ行こうと携えているのです。


 見る目と聞く耳を持っていれば、このようにぞっとする、そしてもっとひどいストーリーに頻繁に行き当たるでしょう。その絶望の奈落の底に落ちることなく、その深い底を覗き込むことができるでしょうか?憎むこと、激怒すること、悪に対して暴言を放つことへの招きを受け入れることなく、それらのストーリーを容赦することができるでしょうか?この招きは、絶望と無関係ではありません。なぜなら、戦争における微積分では、悪は善よりも強いからです。悪には良心の呵責はありません。悪は必要ないかなる手段をも用いるのです。だからこそ、改心の見込みがないほどに邪悪なイルナミティが世界の政府、企業、軍隊、銀行を支配しているという物語の内側には希望がないのです。


 これらのおぞましいストーリーがもたらすまた別の招きについて指摘したいと思います。その招きとは、「このようなことがもう起こらない世界を創るためであれば、私はできる限りのことをします。」と誓うことなのです。このようなストーリーを自分の自覚の中へと統合することで、その内側では物事は基本的にはあるべき姿となっているとされている、いまだ支配的な「世界の物語」対しての予防接種を受けるのです。


 何年も前に、当時私の妻だったパッツィーは、フィリップが一日に1、2時間、他の幼児たちと触れ合える場所を探そうとして(私たちは二人とも託児施設を信じていませんでした)、家庭での保育所を訪れました。そこで彼女は、2人の女性が、電動のベビーシッター、つまりテレビの助けも少し借りて、0歳から4歳までの12人ほどの子供たちのお世話をしている光景に出くわしました。生後9ヶ月くらいの一人の赤ちゃんは、ちょうどハイハイをする年齢でした。でもその子はハイハイができませんでした。というのも、彼は小さなベビーサークル、つまり檻の中にいたからです。その子は泣いているわけでもなく、ただ座っているだけでした。パッツィそんな風に完全に囲いに閉じ込められた男の子をかわいそうに思いました。「どうしてその子は出られないのですか?」とパッツィは尋ねました。責任者だった女性は、「私たちの忙しさを見てください。その子は何にでも首を突っ込むんです。これだけ大勢の子供たちを食べさせ、オムツを変え、見守っている中で、その子を外に出すことはできないんです…。」


「私がその子を見てますよ」パッツィは言いました。その女性はしばらくの間、その赤ちゃんが外に出ることに同意しました。


 それでパッツィは彼をベビーサークルから出してあげました。解放されるや否や、その赤ちゃんの顔は喜びで輝いたのです。ついにハイハイすることができました!あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、他の子供達に混ざったり。その赤ちゃんは天国にいるようでした。15分間そうしていることができたのです。それからすぐ、パッツィがそこを後にしなければならなかったので、赤ちゃんは檻の中に戻されました。その赤ちゃんが得られたのはたった15分間だけだったのです。


 その話を耳にしたときに、誓いが私の中でこみあげてきました。「赤ちゃんが檻の中に入れられない世界をつくるためなら、私はどんなことでもする」という。それは、文明にはびこる恐怖の羅列の中のほんの脚注に過ぎないように見えますが、それは私の癪に触ったのでした。そして、それが今日に起こっていることのすべてとつながっていること、効率化のために人間性が犠牲にされていること、親密さが収益化されていること、生活のあらゆる領域にコントロールによる体制が押しつけられること共に私には見えたのです。私は改めて思案しました。「赤ん坊を檻に入れなければならないほどにひどい貧しい状態で喘ぐようにどうしてなってしまったのだろうか?」と。檻に入れられた赤ちゃんは、私たちの「世界の物語」の全体を創りあげるために、小さくとも必要不可欠な一本の糸なのです。


 赤ちゃんたちが檻に入れられるような世界、その中で赤ちゃんたちが鉈で殺されるような世界は言うまでもなく絶え難い世界です。地獄の適切な定義とは、絶え難いことを耐えるという以外の選択肢がないというものです。私たちの「世界の物語」はそれを止める方法を与えてはくれません。なぜなら、遺伝的利己主義を装ったものであれ、悪魔の力を装ったものであれ、悪はその物語内の宇宙では基本要素的な力の一つだからです。そして、あなたは他者たちで構成される海の中にいる取るに足らない一個人に過ぎないのです。それゆえ、私たちの「世界の物語」は私たちを地獄へと落としているのです。

 子どもたちの世話をしていた女性は明らかに悪ではありません。彼女は悩まされ続け、忙しく、自分がしたことはすべて問題ないという物語の中で生きていました。悪についての問いはこの質問へと帰着するのかもしれません。その女性は、野心過剰な検事や悪徳政治家、そしてサディスティックな拷問者までへと至る連続の線上にいるのでしょうか?それとも、普通の欠陥のある人間と真の悪を分かつ不連続性があるのでしょうか?結論へと急ぐ前に、どのような「状況」が最も凶悪な行為を生み出すのかを理解することに全力を尽くすべきでしょう。


 おそらく、人間の本性の中にある悪として私たちが見ている何かは、その起源があまりにも古く、あまりにどこにでも存在している状況への条件付きの反応であり、それが故に悪とされるものが条件次第のものだとは見えないのでしょう。私たちに危害を加えることを可能にする「他者化」と、その他者化を含む物語は、先住民の間でさえもある程度存在し、現代社会の縦糸と横糸を形成しています。私たちは、「インタービーイングの物語」を具現化している環境の中で、人間の本性がどのようになるかを実際には知らないのです。つながりを肯定し、そのつながりに関連する知覚、感情、思考、信念を育む社会で育つことがどのようなものかを知らないのです。自己否定や自身へのジャッジメントを決して学ぶことがないとしたら、人生の体験がどのようなものになるのかを知らないのです。欠乏ではなく豊かさからなる状況にどう反応するかを知らないのです。私は『聖なる経済学』の中で、「強欲とは欠乏の感覚への反応なのです」と書きました。(もし誰もが豊かで、社会が寛大さに報いるシェアリングエコノミーの中で生きているのならば、強欲は馬鹿げています。)これを拡張させて、「悪は分離の感覚への反応なのです」と言えるかもしれません。

 あるリトリートで、私は参加者たちに分離している自己として歩き回るように求めました。参加者たちは、太陽を単なる水素の核融合反応による球、木々をただのたくさんの木質物質と見なし、鳥たちのさえずりを遺伝的にプログラムされた求愛や縄張りの目印として耳にしました。参加者たちは、お互いを欲深く利己的な自我と見なし、世界を競争の場として見なしました。そして、刻一刻と時が刻まれていっていることを忘れないようにしました。その後の話し合いで、参加者の一人がこう言っていました。「ただ、怒りを感じはじめたんです。誰かを殴りたい、何かを殺したいと思ったんです」と。

 

 参加者たちに取り入れることを求めた分離からの物の見方は、現代社会の一員として私たちが呼吸している空気なのです。私たちの文化の暗黙の信念の一つなのです。私たちが怒っているのも無理はないのです。暴力的になっているのも当然なのです。このような世界に浸って、そうはならない人はいるのでしょうか?


 これらのいずれもが、世の中には非常に多くの危険な人たち、「分離」に非常に深く条件づけられている人たちが存在し、彼らを変えるには奇跡が必要だということを否定するものではありません。そのような奇跡は時に起こりますが、すべての状況で奇跡に頼ろうとすることはお勧めしません。繰り返しになりますが、もし武装した侵入者が私の子どもたちを脅かしていたとしたら、彼の行動が幼少期に経験したトラウマに由来するものだと理解していようといまいと、私はおそらく彼を止めるために力を行使するでしょう。危険な瞬間は、そういったトラウマを癒す時ではないのでしょう。


 その一方で、それは癒しの時なのかもしれません。私は、そして他の人たちも、私が経験した状況よりもはるかに極端な状況の中で、恐怖からではなくワンネスの理解から行動することが、緊迫した状況において驚くべき結果をもたらすことを発見しています。敵意は敵意を生み、信頼は信頼を生むのです。いつもそれが”作用する”とは言えませんが、通常の脚本を一時途絶えさせることが、少なくとも異なった結果の実現を可能にするのです。恐れを持たずに応じることで、「あなたは危険な存在ではないですよ。あなたは良い人なんです。」と相手に伝わるのです。そうすることで、その人たちが足を踏み入れることができる新しい脚本がつくりだされるのです。彼らはその役割を辞退するかもしれませんが、少なくともその役割の可能性がそこに存在するのです。


 ついこの間、10代の息子があるアイテムを75ドルで近所の子に売りました。その子はそのアイテムを受け取りにジミに会いましたが、ジミにお金を払う代わりに、品物をつかんで走り去りました。ジミは彼を追いかけましたが、捕まえることはできませんでした。その光景を見た地元のギャングである別のティーンエージャーが、なぜジミが彼を追いかけているのかをたずねました。ジミが状況を伝えると、その若者は銃を取り出してこう言いました。「この始末を手伝ってやるよ。あいつがどこに住んでいるか知っているんだ」と。ジミは、「後で連絡するよ。」と彼に言いました。その晩、ジミは私にその話をし、「パパ、ぼくはどうするべきなんだと思う?」と私にたずねました。


 少し考えて私はこう言いました。「そうだな、君はここでは強い立場にいるのだから、おそらく力によってお金を取り戻せるだろうね。でも、銃を持った子と一緒に盗人を訪ね、アイテムやお金を取り返しにいけば、どういう展開になるかわかるだろ。その子は、君か、あるいはもっと可能性が高いのは、より弱い誰かに復讐しようとするだろう。暴力の連鎖が続いていくんだ。その代わりに、状況をすっかり変えるのはどうだろう?その銃を持ったギャングにメールを送ればいい。『あのさ、もしあいつがそんなにあのアイテムが欲しいなら、僕からのギフトとして受け取ってくれと伝えてくれよ』ってね。私はさらにこのアプローチはジミがすでに優位に立っていなければうまくいかないものだと彼に説明しました。なぜなら、それが屈服と見られてしまうからです。しかし、このような状況で、そのようなメッセージは普通は考えられないものでした。


 ジミはそれについて考えてみると私に言いました。ジミは私が提案した通りにはしませんでしたが、何が起こったかを伝えさせてください。その週の終わりに、ジミはその盗人と会う約束をしました。友人の武道の達人であるMを伴って会いにいったのです。その盗人は友人2人をを連れて来ていました。盗人は、どうしてもそのアイテムが欲しかったが、代金は払いたくなかったと言いました。彼の友人2人は、その盗人とジミを煽りはじめ、そのアイテムを巡って戦うようにけしかけました。ジミ(身長185センチで武術も習っている)は、「もういい、こんなちっぽけな物のために争うつもりはない。お前が持ってていい。お前の金も欲しくない。」と言ったのです。

  

 盗人は虚を衝かれました。そしてこう言ったのです。「なあ、それではしっくりしないな。あんな風に取るべきじゃなかったよ。金を払うよ。50ドルでどうだい?それしか出せないんだ。」


 敵意のストーリーの中でそれぞれお互いを敵対視していたのに対し、今や人間らしさが存在しています。


 パンチョ・ラモス・シュテーラは、カリフォルニア州オークランドで最悪の地域のひとつとされる、2つのギャングのテリトリーの境界でピースハウスを経営しています。地元の人たちが強盗や殺人の目的でこの家に入ったものの、代わりに平和活動家へと改心させられたことが一度や二度ではなかったと、人々は私に教えてくれました。


 何年も前に、パンチョは宇宙物理学の博士学生として在籍していたカリフォルニア大学バークレー校での抗議活動に参加していました。大学が核兵器開発に関与よしていることに抗議するため、公の場で断食していた学生グループの1人だったのです。9日後、大学側は嫌気が差し、警察を呼び、ハンガーストライキグループを見せしめとしました。警察官たちは、抗議者たちが腕を繋いでつくった人間の鎖を断ち切り、一人の警官は小柄なパンチョを宙に浮かせ、コンクリートへと叩きつけ、情け容赦なく手錠をかけたのです。


 この時点で、私たちのほとんどはおそらく「分離」の物語と習性へと陥るでしょう。私たちは憎悪、皮肉、ジャッジメントで反応するかもしれないのです。警察に打ち勝つ物理的な力がない私たちは、代わりに公で恥をかかせようとするかもしれません。もし私だったら、この世の不公正に対する人生を通じての憤りを、この警察官に投影していただろうと想像できます。ついに、非難し憎むべき相手が現れたのです。私に対する弾圧行為がひどければひどいほど、私は純真な罪なき殉教者になったと私は感じるでしょう。無条件に非人間的な人物を憎むことができるというのは、なんだか気分がいいものに感じられませんか。免罪された気分になるのです。そして、悪を擬人化することで、世界の問題がよりシンプルに見えるのです。ただひどい人たちを取り除けばいいのだと。


 パンチョは異なった対応をしました。(注1)彼は警官の目を見て、愛情を込めて、罪悪感を与えようともせずにこう言ったのです。「兄弟よ、あなたを許そう。この抗議をやっているのは私のためではなく、あなたのためでもない。あなたの子供たち、そしてあなたの子供たちの子供たちのためにこれをやっているんだ。」その警官は一瞬戸惑いました。それから彼のファーストネームを尋ね、こう言ったのです。「兄弟、察するに、あなたはメキシコ料理が好きだろう。」[ぎこちない間] 「ああ。」「そうだ、サンフランシスコに、最高のカルニタスとファヒータとケサディーヤを出す店があるんだ。私がこれを終えて、あなたがこれを終えたら、あなたと同席して断食を終えたいと思っているんだが。どうだい?」
 


 驚くべきことに、その警官はその招待を受け入れたのです。(注2)そうならないわけがなかったのです。彼はパンチョの手錠を緩め、他の抗議者たちの手錠も緩めたのです。パンチョの行動のパワーは、彼が異なる物語の中に立っていたからこそのものであり、そこにしっかりと立つことで、その警官のような他の人たちもその物語へと足を踏み入れることができる空間を守っていたのです。


 老子曰く、「敵を過小評価することほど大きな不幸はありません。敵を過小評価するとは、敵を悪だと考えることなのです。そうすることであなたは自身の3つの宝を破壊し、自分自身が敵となるのです」(69節、ミッチェル訳)。パンチョと私の息子のストーリーはこれを例証しています。敵を”過小評価”することで起き得たかもしれない災難のことを考えて私はぞっとしています。(注3)たとえ警察官が辱めを受けたり罰を受けたとしても、たとえ盗人が屈服させられたとしても、真の”敵”は栄えていたでしょう。憎しみのレベルが、この世の中で減ることはなかったでしょう。


 確実にはっきりさせておきたいのは、パンチョの言葉のように言葉が機能するためには、それらが完全にオーセンティックでなければならないということです。もしあなたが言葉を発してそれが本心でなかったとしたら、もしあなたが、苦しめる側の人をより極悪人に仕立て上げることを目的に、実は自身の非暴力的な慈愛をはねつけて言葉を口にしているのであれば、彼はおそらくその悪事を実行に移すことでそれに応じるでしょう。人々は、特に警察官たちは、自分が巧みに操られているときにそれを判別し、それを嫌います。非暴力的に対応することの目的は、自分がいかに善人であるかを示すことではありません。それは善人であるためですらありません。それはむしろ、真実をシンプルに理解することから生まれるものです。パンチョは本心から言っていたのです。警察官が本当はこんなことを望んでいないと知っていたのです。揺るぎない確信を持って彼を見つめました。「これは本当のあなたではないですね。こんなことをするには、あなたの魂は美しすぎる。」と。


 このような出来事を目にしたり読んだりすることで、「インタービーイングの物語」における自分自身の立ち位置が強化されることに私は気づきました。おそらく、パンチョのストーリーを知っていることで、新しい物語における自分の立ち位置を揺らがせるような状況に陥ったとき、自分もそれをより強固に保つことができるのでしょう。確実に、私は毎日そのような試練に遭遇しています。警察に殴られたことはありませんが、毎日、”他者化”や悪者扱い、罰したり巧みに操る方法を見つけることへと誘い込む、人々がしている何かを目にしています。ときに新聞全体が、まるで読者をそのような考え方に引き込むためにつくられているように思えることがあります。新聞は、理不尽でひどい人たちで成る世界へと私たちを誘い込み、私たちが社会関係においてそのような行動をするように仕向けているのです。

 数週間前にイギリスで、変化しつつある私たちの文化の神話について講演しました。そのシフトの科学的な側面について説明する際に、遺伝子の水平伝播や生態学的相互依存性といったかなり受け入れやすいパラダイムシフトだけでなく、形態場や水の記憶のようなもっと物議を醸すような例も挙げました。聴衆の一人(小さな会場でした)が呆れた顔をして、「勘弁してくれよ」と不満を表していました。彼の抗議の背後にある感情は明白で、私は身構えました。私はどうすべきなのでしょうか?力のメンタリティであれば、私の応答はこの男を打ち負かすというものでしょう。そして正直に告白すれば、私はそうやって始めたのです。20世紀最大の科学者の一人で、水のナノ構造化と微細構造化のメカニズムを解明したこの分野の父として、材料科学者たちから尊敬を集めているルスタム・ロイとの親交について話したのです。私は、ワシントン大学のジェラルド・ポラックの研究や、ジャック・ベンヴェニステに対する人格攻撃キャンペーンなどを引き合いに出しながら、水の記憶に関する科学的なケースを続けようとしたときに、私は挑戦者の不機嫌そうな表情に気づきました。どう見ても、彼が水の記憶を否定するのはイデオロギー的なものであり、知識に基づくものではありませんでした。彼はただ恥をかかされるだけでしょう。私が勝つでしょうが、それが何になるというのでしょう?その男性は考えを変えるでしょうか?おそらく変えないでしょう。私が偏った事例を提示していたと結論づけ、家に帰ってskepdic.com(訳註: 疑似科学といったテーマについてのエッセイを多数収録しているウェブサイト)の水の記憶の項目を読むでしょう。どちらかと言えば、彼の信念は強固になるはずです。

 

 辱めを与える存在になりたくはなかったので、私は別の手段を取りました。私は、この疑いの背後には多くの感情的エネルギーが存在することをその聴衆の方に伝えました。どうしてでしょうか?言うまでもなく、私たちは単なる理論的な相違に直面しているわけではありません、と私は言いました。その感情はどこから来ているのでしょうか?それは、あなたがこの地球を深く憂いていて、空想的な意見を私たちがなすべき実際的な仕事から気を逸らせるものだと考えているからなのかもしれませんね。気候変動のような分野で、科学への無知がもたらした損害を目の当たりにしているからなのかもしれません。私たちは、教育、子育て、宗教、経済、法律などのシステムによって、人間の生活のとても素晴らしい可能性が隅々まで売り渡されている文明の中で生きているからなのかもしれません。それは、大きなパラダイムシフトがもたらす世界観の崩壊を私たちが恐れているからなのかもしれません。


 その男性の怒りは静まりませんでした。間もなくして、彼は立ち上がりそこを後にしました。しかし、後で何人かの人たちが、それが午後の最もパワフルな瞬間だったと私に伝えてくれました。わかりませんが、相対しながら辱めを受けなかったという体験が、この男性の体験目録に羽根の重さほどの愛をひとつ加えたかもしれません。


 孫子曰く、最高の勝利とは、敗者が負けたことに気づかない勝利なのです。古い物語の中では、私たちは悪に打ち勝ち、泣き叫び悔しさで歯ぎしりしている敵を埃の中へと置き去りにしてきました。もうその時ではないのです。誰もが一緒に進んでいくのです。新しい物語の中では、後へと残された誰もが目的地を痩せさせてしまうということを私たちは理解しているのです。私たちは、それぞれの人間を世界に対して独自のレンズを持っている人として見るのです。私たちは知りたいと思うのです。「この男性は彼の視点から、私の視点からは見えないどのような真実を見てきたのだろうか?」と。何かがあるに違いないと私たちは知っているのです。実際には、私たち一人ひとりは、進化し続ける私たちの全体性にユニークな経験をもたらすために、すべての存在から成るマトリックスの中で異なる場所を占有しているのです。


 パンチョと警官との出会いが、その男性の人生を直接変えたかどうかはわかりません。私にわかっているのは、それぞれの愛の体験は、それぞれの憎しみの体験とともに、私たちの内なる状態へと書き込まれていっているということです。愛の体験の一つ一つが、私たちを「インタービーイングの物語」へとそっと動かします。なぜならその体験はその物語のみに合致して、「分離の論理」を受けつけないからです。


 これらのストーリーは、インタービーイングから行動することが、他人に利用されやすい人になったり、受け身であったり、暴力が起こることを許したりすることと同義ではないことを明らかにしていると思います。それは間違いなく、世界で起こっていることを無視することとは同じではないのです。時々、私がナイーブだというのとはまったく逆の、「チャールズ、わからないのか?すべてうまくいっているんだよ。私たちはみんな一つなんだ。これらすべての "悪い "ことは、私たちの成長のために起こっているんだ。恩恵に注意を向け、ネガティブなことは避けようじゃないか。テクノロジー的なことを批判しているようだが、インターネットがあるから、私は中国にいる息子とコミュニケーションをできているんだ。すべては完璧に展開していっているよ。」というような批判を受けることがあります。私はこの見解には同意しません、というより、この見解は形而学の原則の一つの部分的な理解を表しているのだと思います。世界の傷つきや醜さを故意に無視して薔薇色のレンズをかけるのは、有毒廃棄物のゴミ捨て場を舗装して、それが消え去るのを願うようなものです。あるレベルでは、"It's all good"(すべてうまくいっている)というのは真実ですが、その中には、何かがひどく間違っているという私たちの認識も含まれています。その認識と、それが点火させるもっと美しい世界を創りだそうとする私たちの内側の炎が、「すべてうまくいっている」を実現させるのです。展開していることの完璧さは不完全さを包含するのです。”ネガティブ”に抵抗することは、疑いや恐れなどが確かにネガティブであるということを肯定するという点で、それ自体がネガティブの一形態なのです。しかし、他のすべてのものと同じように、疑いや恐れにも重要な役割があるのです。その役割を否定すること、恐れや痛みを否定することは、まさにダークサイドを無視することになります。インタービーイングから行動することは、私たちに差し出された事実や体験を一つも否定するものではありません。しかし、それらの体験への慣例となっている解釈を捨てさる必要はあるのです。それは難しくもなりえます。というのも、そうした解釈は文化的に微細かつ強力な形で強化されているだけでなく、私たちの多くが抱えている「分離」の深い傷をある種覆い隠すようなものでもあるからです。


 もう一度言わせてください。「憎しみと悪の物語」は、「分離」という傷を覆い隠すものなのです。その覆いをはがし、その傷が癒えるようにアテンションを向ける必要があるのです。そうでなければ、私たち自身が「分離」から行動し続けることになり、私たちがなすことを通じて、知らず知らずのうちに、より多くの分離を生み出すことになるのです。繰り返しになりますが、さらに恐ろしい残虐行為が開く深淵を覗き込んで、憎しみに陥らないことができるでしょうか?そのようなストーリーが明らかにする、大きく開いている痛々しい傷に立ち会うことができるのでしょうか?その傷を痛んだままにし、さらに痛みをそのままにし、その痛みを統合して、敵を打ちのめすことをはるかに凌駕する知恵、明晰さ、有効性をもって行動していけることを確信できますか?


 インタービーイングから行動することは、悪への臆病な降伏からは程遠いもので、相当の勇気を必要とするものですと言おうとしました。しかし、そう言ってしまうと、分離の思考形態に陥ってしまうと気づきました。そうしていない人たちが勇気を欠いていて、愛から行動するために勇気を養うべきだということになってしまいます。実際には、何が起きているかというと、私たちが「インタービーイングの物語」の中に浸かることで勇気が生まれてくるのです。


 もちろん、非暴力の手段で十分な状況もあるでしょうが、私たちは悪という概念、力によるパラダイム、他者化の習性に慣れ親しんでいるために、ほとんどすべての状況をこのカテゴリーに分類してしまう傾向にあります。その暴力は非常に捉えがたいもので、例えば「責任を取らせる」といった概念で装われたりしますが、これは通常、辱め、恥をかかせること、報復を意味しています。加害者、恩知らず、愚か者の人間性についての感覚的な理解から行動する想像力、勇気、スキルを私たちが持っていることは稀なのです。恩知らず、愚か者、馬鹿者、嘘つき、変人、言い訳がましい人、帝国主義者、人種差別主義者などという言葉が存在すること自体が、すでに私たちを人間はこういうものだという気質主義的な考え方へと招いています。「分離」は私たちの言語そのものに組み込まれているのです。私たちが着手している人間存在の大変革の深みが今やおわかりいただけるでしょうか?私たちの背景状況が、悪を世界の事実とみなすことを、どれほど強力に私たちを条件づけているのかがわかるでしょうか?

 たとえ読者が、基本的要素として、本質的な悪など存在しないと確信していないとしても、ほとんどの場合、私たちが悪とみなすものは、実際には状況に由来していることは少なくても明白でしょう。たとえ読者が「普通の欠陥のある人間と真の悪とを分ける切れ目」がまだあると考えているとしても、私たちがたびたび前者を後者として分類していることは明らかことなのです。これは非常に大切な点です。なぜなら、悪はより大きな力によってのみ打ち勝つことができるのに対し、それ以外のものは状況、つまり内外の状況の総和を変えることによって変えることができるからです。これらの状況の大部分は、私たちの個人と文化の「自己の物語」にまでに至る幾重にも重なる物語で成り立っているのです。 


 異なった種類の社会を創造していこうというのであれば、私たちが働きかけなければならないのはこのレベルなのです。私たちはあたらしい世界の語り部にならなければならないのです。私たちはその物語を言葉で語るだけでなく、その物語から湧き上がる行動によってもまた物語るのです。そのような一つ一つの行動を目にしたすべての人が、そこに別の世界があること、別の見方や在り方があること、そしてそれが存在すると考えることは決しておかしなことではないということを示すのです。


  1. この出来事の詳細については、雑誌『Parabola』の「反逆者になりたければ、優しくあれ」を参照。

  2. パンチョは、この昼食会が結局実現しなかったことを明らかにするよう私に求めました。

  3. この一節は極めて曖昧であることに触れておきます。多くの翻訳者は “underestimating the enermy”を従来の形で翻訳するを選びます。ミッチェルは、微細で直感的に、そして私に言わせれば正確な意味を理解した上で、「敵を過小評価することは、敵を悪だと思うことだ」と説明する一文を付け加えました。この文章は原文にはありませんが、軍隊が衝突したときには思いやりのある者、あるいは共感的な者が勝つという次の行に暗示されています。

  4. そのため、私たちの言葉から屈辱的なレッテルをすべて撤廃することを提唱する人たちもいます。「ナルシスト」を「ナルシスト傾向のある人」、「依存症患者」を「依存症を持つ人」、「嘘つき」を「不誠実な癖のある人」と置き換えれば、言動と実際の人物を切り離し、言葉の使い方によってすべての人の尊厳を守ることができると彼らは考えるのです。「英雄」でさえ、「英雄的な業績を残した人」に置き換えるべきであり、そうでない人が英雄的でないことを意味しないようにすべきであると彼らは言う。私は、言語的な正しさを求める十字軍、失礼、つまり十字軍的な傾向があると解釈されかねない人々に苛立ってしまう傾向にあります。第一に、それは被害者意識に迎合し、私たちが簡単に気分を害することを助長します。第二に、白痴から知恵遅れへ、それから知的障害者、精神障害者へ、そしてそれから新しい呼称の何かへというその発展に代表されるように、新しい用語はすぐに古い蔑称や軽蔑の意味を帯びるのです。人は、適切な言葉で悪の意図を着飾ることができるのです。より深いレベルでは何もしないまま、私たちは正しいことを言うことができるのです。

 




 
 




 


28章 サイコパシー            第29章 悪(後半)



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