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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 物語 (第30章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

ある日、孔子が弟子たちと歩いていると、二人の少年が言い争っているところに出くわしました。孔子はその少年たちにその争いが何なのかを尋ねました。二人は夜明けに太陽が近くて昼に遠いのか、夜明けに遠くて昼に近いのかどうかを言い争っていたのだと言いました。少年の一人は、太陽は夜明けに大きく、正午に小さく見えるから、夜明けに近くて、正午には遠いはずと主張しました。もう一人の少年は、明け方は涼しく、正午は暑いので、太陽は明け方に遠く、正午に近いはずと主張しました。孔子はどちらが正しいのか判断に迷いました。少年たちは 「誰があなたの頭がそんなにいいなんて言ったんですか?」と彼を嘲笑しました。

 この物語は、トーマス・クリアリーが『活力、エネルギー、スピリット: 道教資料集』の中で翻訳した『列子』として知られる古代の道教の寓話集からのものです。クリアリーは次のように説明しています。「(この物語は)弁証法的な推論の限界を説明するもので、よってより包括的な意識の状態を間接的に示唆しています。孔子を揶揄したジョークとして描かれたこの寓話は、それ自身の仮定の範囲内では筋が通っていても、より広い文脈の中では無効であったり、不正確であったりすることを物語っています。」


 私たちが現実、真実、実現可能であるとみなしていることのかなり多くが、いかに私たちを深く留めている物語の結果であるかをすでに見てきました。「分離」の論理がいかに絶望へと不可避的に導いていくかを見てきました。悪がいかに分離の認識の結果であるかを見てきました。文明の体系全体がいかに神話の上に成り立っているのかを見てきました。文明がいかに”己の仮定”に囚われているのか、コントロールの失敗を是正するためにコントロールを強化するというイデオロギーに囚われているかを見てきました。世界を変えようとする私たちの努力の大半がいかに分離の習性を体現しており、いかに同様のことを延々と繰り返すことを避けることができずにどうすることもできなくなってしまっているのかということを見てきました。


 クリアリーが示唆しているのよう、この罠から抜け出すためには、より大きな文脈、より包括的な意識の様式から変化を生み出さなければなりません。これは新しい物語に身を置くだけではなく、その物語の意識の中で活動していくことをもまた意味しています。なんといっても、私たちの文明が神話の上に成り立っているとするのならば、文明を変えるためには神話を変えなければならないのです。


 もうお分かりいただけるかと思いますが、これは無為無策や単なる口先だけのレシピではありません。象徴的な解釈が可能ないかなる行動は、物語が語られていくことの一部となるのです。そして、それはすべての行動のことなのです。私たち人間は意味をつくる動物であり、常に世界の意味を理解しようとしています。パンチョ・ラモス・スティエルが暴力を振るう警官に敬意をもって話しかけたとき、彼はその警官の世界の物語に亀裂を入れたのです。


 逆説的ですが、象徴的なものとなるよう企図された行動は、本気でなされた行動よりも、物語を破壊するパワーが弱まったものとなるのが普通です。私はエクアドルのシュアール族について読み続けています。彼らは銅や金を探し求める鉱山会社による熱帯雨林の破壊に、力強く抵抗することを誓っています。シュアール族の族長のひとり、ドミンゴ・アンクアッシュは言いました。「森はいつも私たちに必要のものすべてを与えてくれた。私たちの先祖がそうであったように、槍の力で森を守ろうと考えている。金を手に入れるためには、まず私たちを一人残らず殺さなければならない。」と。 


 この言葉の効力を考察してみましょう。計算されたPRの方策ではありません。すでにシュアール族は、いくつかの暫定の場所から採掘業者を立ち退かせています。この猛々しい部族は明らかに、自分たちの土地を守るためならば死をもいといません。彼らの言葉は徹頭徹尾真実なのです。


 一方で、もしシュアール族がうまくやったとしても、それは彼らの槍が戦車や機関銃、ヘリコプター、枯葉剤、ブルドーザーに打ち勝つからではありません。武力で産業文明に打ち勝つことなど不可能です。結局のところ、産業文明とは武力による支配者であり、物質世界に力を及ぼすために貯蔵されたエネルギーのありとあらゆる資源を利用しているのです。力こそが私たちの文明とテクノロジーの本質なのです。シュアール人は、そのゲームでは産業文明には勝てないでしょう。しかし、シュアール人は勝利を収めようとしているのです。その理由がなぜかを理解していきましょう。彼らはどんなゲームをプレイしているのでしょう?チェンジメーカーを目指す私たちがそれを理解できれば、おそらく私たちも勝てるはずなのです。


 彼らがどのようなゲームをプレイしているにせよ、先に私が物語ったストーリーでダイアン・ウィルソンがプレイしていたゲームと同じであること、パンチョがプレイしていたゲームと同じであること、そしておそらく、カナダ西部の先住民たちが、自分たちの土地の破壊を食い止めるための「アイドル・ノー・モア(訳註:もはや座視はすまじ)」運動でプレイしているゲームと同じであることに気づくかもしれません。ある意味、この人たちは皆ナイーブです。このようなムーブメントが常に勝利するとは限りません。それとも、私たちには見えない形で勝利しているのでしょうか?もはや存在しない生態系を守るために死に、絶滅させられた部族はどうなのでしょうか?彼らの奮闘は無駄だったのでしょうか?もっと美しい世界を創るためのあなたの奮闘は無駄となるのでしょうか?


 私がシュアール族について気づいた最初のことは、彼らの献身が土地、森、部族、そして彼らが神聖視するものに捧げられているということです。それは脅威に対する恐怖に基づいた反応ではありません。実際、彼らは「進歩へと突き進む行進」に抵抗することで、それに従うよりもはるかに大きな個人としてのリスクに直面しています。


 私が気づいた二つ目の点は、彼らは何かに対抗して戦っているのではなく、何かのために戦っているということです。彼らは自分たちの土地のあるべき姿についてのビジョンを持っています。彼らには、自分たちよりも大きなコミットできる何かがあるのです。彼らが抵抗への関与を深めるにつれ、自分たちが奉仕するものについてのビジョンも育っていくのではないかと思います。これとは対照的に、今日のアクティビストの多くは、これを止めよう、あれを止めようということに心が奪われ、自分たちが創っていきたいこと、彼らが仕えるもっと大きなものという観点から自分たちのビジョンを描くことがほとんどないのです。この不足の兆候の一つが”サステナビリティ”という目標です。私たちはいったい何を持続させたいのでしょうか?生命の目的は単に生き残ることなのでしょうか?人類のユニークな創造する力は、展開していく自然の秩序の中で目的を持たないのでしょうか?コミットできる実現可能なビジョンを見ることができるようになることが私たちには必要なのです。


 第三に、たとえシュアール人たちが象徴的な意図を持って彼らの抵抗運動を思いついたわけではないとしても、彼らは強力な意味の運び手なのです。彼らは、アマゾンから鉱物を採掘することはまったく問題ないというストーリーを維持することをかなり難しくしています。鉱山会社はそのストーリーを構築するためにベストを尽くしています。木々は植え替えられ、廃棄鉱滓は安全な封じ込めプールに保管されると。さらに、シュアール族は狩猟で野生動物を殺し、子どもたちは学校に通えていないと。こうした不条理にもう一つ、シュアール族は自分たちにとって何が良いことなのかをわかっていない良識のない野蛮人であることを付け加えることを、シュアール族が自分たちの命を投げ出すこともいとわないと強烈に信じている以上、このストーリーは耐えきれないでしょう。


 
 シュアール族が故郷を守ることに成功したとしても、彼らの槍が文明の機関銃に打ち勝ったからではないはずです。それは、彼らを殺し、鉱物を奪うことを正当化するストーリーが、彼らの挑戦に耐えるには十分強くなかったからなのでしょう。それは、要職にある十分な数の人たちが、銃や爆弾やブルドーザーを手に取ることを拒否するからなのでしょう。それは、私たちの産業化された世界が、自由に使える武力を使うことを控えたからなのでしょう。強力なストーリーは、金塊を手に入れるために必要なあらゆることを正当化し、合理的に見せることができます。半世紀前には、進歩の道からインディアンたちを排除することは残念ながら必要なことだと躊躇する人はほとんどいませんでした。つい最近まで、私たちは「最後の一人まで」殺すことに良心のとがめはなかったのです。しかし今日、私たちの物語は衰弱していっています。


 物語が若く丈夫であるときには、認知的不協和からその保持者を守る免疫システムのようなものが備わっています。その物語にそぐわない新しいデータは簡単に廃棄できるのです。常識はずれのように思えるからです。免疫システムは様々な方法で反応します。それは混乱を起こさせる情報の持ち主を「あの男の資格を証明するものは何だ?」と攻撃することもできます。それは表面上説得力のある反証をいくつか寄せ集め、混乱を引き起こした者はそのようなデータを考慮してみたことはないと偽りの主張をし、何の反応も示さないこともあります。「しかし、テクノロジーによって人間の寿命は飛躍的に延ばされたのだから、わたしたちは鉱物をどこかから得る必要があるのだ」と。それは暗黙の前提にあるシステムの正しさに訴えかけることもあります。「確かなことは、科学者やエンジニアたちがこれは最も生態系を破壊しない方法だと判断したのだ」と。あるいは、不愉快な情報を「異常」と書かれたゴミ箱に捨てたり、単に記憶の穴の中へと放り込むこともあります。


 物語が歳をとると、これらの免疫反応がどれもがうまく機能しなくなります。矛盾するデータは、たとえ捨て去られたとしても、疑念の余韻を残していくのです。老化していく身体や出産間近の子宮のように、その物語はだんだんと心地の良さを失っていきます。だからこそ、シュアール族のような人たちは、何千年もの間、彼らと似た他の人たちが失敗してきた立場で成功するかもしれないのです。彼らの抵抗は、略奪を可能にする物語から私たちを移動させるかもしれないのです。


 シュアール族は平和的な民族ではなく、武力での脅しで試掘隊や機械を立ち退かせたこともあります。しかし、敵を倒すために力を尽くすという意味で戦争をしているわけではありません。対照的に、私たちの大衆文化や戦争に対する考え方のほとんどは、勝利とは悪である加害者を力によって参らせることだと考えています。例えば、シュアール族の状況に酷似した映画『アバター』では、架空のナヴィ族が人間の侵略者の宇宙船や迫撃砲を、槍や弓矢、大型の動物によって打ち勝ちます。人間の総大将の大佐が殺されると、勝利が達成されるのです。他の道はないのです。彼は救いようのない存在として描かれているのですから。幸い、シュアール族は”悪”のイデオロギーのウイルスには感染していないようです。彼らは鉱山会社と戦っているのではありません。彼らは採掘と戦っているのです。


 私は『アバター』の違った結末を観てみたかったです。惑星の世界樹を破壊したときに、惑星が人間たちの神経系に入り込み、彼ら自身がその痛みを感じ、惑星を単なる資源の供給源とみなすことを可能にしていた「我々と彼ら」という分断を消し去っていくところを観たかったのです。それこそがまさに、私たちの文明が経験する必要がある認識の変化なのです。なぜならシュアール族が槍で私たちを打ち負かすとは思えないからです。


 しかし、彼らは槍や言葉、その他の行動によって、私たちの物語に打ち勝つかもしれません。その中で、わたしたち皆が彼らに加わり、彼らから学ぶことができるのでしょう。シュアール族が用いているような象徴的で強力な力と、ありふれた暴力やテロリズムとの違いは何なのでしょうか?結局は、シュアール族が従事している必然的に非対称的な闘いから、今日の人々がテロリズムと呼ぶものへはわずかな距離なのです。エクアドル政府が近いうちにシュアール族に対してそのような蔑称を突きつけても、私は驚きません。


 ここで私は、テロリズムと非対称的な戦争との区別や、それぞれの正当性の可能性について、藪の中に分け入るようなことはしません。ただ、具体的なもの(ブルドーザーがここでこれらの木々を伐採するのを阻止する)から抽象的なもの(敵に一撃を加える、あるいは大義のために象徴的な一撃を加える)へと移行するにつれて、私たちは危険な領域へと足を踏み入れることになるということだけは言っておきます。


 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉を借りれば、憎む者を殺すことができても、憎しみは殺すことはできないのです。しかも現在の世界においては、権力者たちはあなたを簡単に殺すことができるのですから、あなたは失敗する運命にあります。


 「悪を制圧する」という分離の習性がどれほど深く根付いているかを知るには、私たちが社会や政治を変えようとするあらゆる試みを、いかに首尾一貫して「戦い」「闘争」「キャンペーン」というフレームに入れているかを見てみればいいでしょう。すべて軍事的な比喩なのです。敵対勢力に”降伏”を”強いる”ために、政治的な”圧力”を行使するため”味方を動員する”と私たちは語っています。


 繰り返しになりますが、私は決して戦うべきときがないと言っているわけではありませんし、非暴力をめぐる長期のニュアンスのある論争にここで決着をつけるつもりはありません。十分に広く解釈すれば、他人の境界線を”侵害する”暴力は避けられないものです。交通渋滞を引き起こす市民の抗議活動は、低所得の郊外から片道一時間かけて通勤する貧困層の人たちには暴力的に感じられます。新しい世界への移行において、旧世界での混乱は避けられないのです。しかし、その暴力が憎悪や他者を悪魔視することから来ているものである場合、それは非真実の上に成り立っています。より強力な変革のプロセスが存在しているときに自分たちを騙して馴染みがあって容易な武力による戦術や比喩を使うようにはしないようにしましょう。


 シュアール族の反抗の態度が私たちの心を動かすのは、彼らの大義のために進んで人を殺しているからなのではありません。それは彼らが大義のために死をもいとわないからなのです。純粋な形で言えば、これは自分たちよりも偉大な何かのための奉仕なのです。私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界を共創するためには、これを熱心に見習わなければなりません。それはまた、分離した自己を超越するための道なのです。なぜなら、奉仕へと頭を垂れることは、より偉大な何かと融合することであり、その何かの変化を引き起こす力は私たちの因果関係の理解を超えて広がっていきます。その結果、予期せぬこと、ありえもしないこと、奇跡的なことが起こりうるのです。


 より大きな「自己の物語」、「インタービーイングの物語」にしっかりと立てば立つほど、古い「分離の物語」を一時不通にする私たちの力はよりパワフルになっていきます。暴力と非暴力、倫理と原則、善と悪といった論点は、私たちを概念の迷路へと導くのだと思います。ほら、太陽は正午に距離が近いですよね。いいえ、夜明けの方です。この地球上でこれまで成されてきたあらゆる悪行や卑怯な沈黙は、原理、つまり物語の論理によって正当化されてきました。長い間「分離の物語」の中で酔っていた私たちの酔いが醒めれば、「より包括的な意識様式」、すなわち物語の意識へと入っていくチャンスを手にすることができます。その中で、私たちは自らに問いかけるのです。「どのような物語の中に私は立とうか?」と。



第29章 悪(後半)               第31章 中断


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