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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 中断 (第31章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

ある人が論理的に考えずに信じた事から、論理的にそこから出るよう説得しようとしても無駄である。
-ジョナサン・スウィフト

 私たちが知っている世界は、物語の上に成り立っています。チェンジエージェントになるということは、第一に既存の「世界の物語」を途絶えさせ、第二に新しい「世界の物語」を語ることであり、そうすることで物語と物語の間に入り込んでいく人たちは行き場を得るのです。大抵、この二つの機能は一つに混ざり合っています。新しい物語を語るために私たちがとる行動は、古い物語にとっては破壊的なものでもあるからです。



 これが、私の働きや、アクティビストの働き、あるレベルではアーティストやヒーラーの働きについての私の見立てです。本書で私がお伝えしてきたストーリーの多くは、古い物語を機能不全にするものの例示です。パンチョの警察官とのやりとりが例えばそうです。まもなくもっと多くの例を紹介するつもりですが、多くの人たちにとって最大の絶望の源となっている部類の人たちについて考察することからはじめましょう。それは”まさにわかることができない人たち”という部類です。

 私が公の場で話すと、大抵このような内容の質問を受けます。「もっと美しい世界をつくるためには、価値観や信念を大きく変える必要がありますが、私にはそれが起こるようには思えないんです。人々はあまりにも行動できなくなっていて、あまりにも無知です。彼らは決して変わらないでしょう。権力者も、保守的な私の義理の弟も。人々を解き放つために、私たちに何ができるのでしょうか?」


 大抵いつもうまくいかないことの一つは、論理と証拠の力で相手の意見を打ち負かそうとすることです。そもそも人が証拠や理性に基づいて自分の信念を形成しているわけではないということを考えれば、これは驚くべきことではありません。むしろ私たちは、感情の傾向、古傷、人間関係のパターン、人生観を含むあり方の基礎をなす状態に見合うストーリーになるよう証拠を並べ替えるために理性を使っているのです。このストーリーは他のストーリーと組み合わさり、究極的には私たちの人生を定義づける目に見えない深い個人の神話と連動しています。その結果、これらの個人の神話は、私たちの文化の神話、つまり文明そのものと同様の深みにある合意された現実に織り込まれているのです。思考体系は通常、自分のアイデンティティや価値体系を含む、より大きな物語の一部であるため、それらに対する挑戦はしばしば攻撃と受け取られ、その大きな物語を守るための様々な防衛規制が誘発されます。ヒッピー、左翼、狂った自然保護活動家、夢想家と決めつけられ、あるいは手近にある都合のいい反論で誤っているとされたり、無視されるのです。おそらく、あなたの標的は、些細な点、言い間違い、文法の誤り、個人的な軽視へと話をそらし、あなたが言うことすべてを無価値とするのです。

 そのような人たちはあなたとは違いますよね。彼らと違って、あなたは証拠と理性に基づいて信念を選んでいるのでしょう。共和党!リベラル派!ティーパーティー!宗教原理主義者!軽々しく信じやすいニューエイジの信奉者たち!医学界の権力層!とは異なるのですよね!その通りです!あなたは証拠をオープンな心で検討し、自分の意見にたどり着きました。一方、あなたに同意しない人たちは、無知、偏見、そして古びた愚かさにまみれているのですよね。


 自分たち自身に正直になりましょう。自分たちの人生を振り返り、心を開いていると信じながら、私が説明したようなやり方で挑戦を払いのけ、ほとんどの期間私たちもまた真実に対して心を閉ざしていたということを否定できる人はいるでしょうか?信念を形成し維持するための根本的なやり方において、今の自分は少しでも違っているとなぜ思えるのでしょうか?


 理性と証拠に基づいて私たちは信念を持つという考え方、あるいは少なくともそうすることを理想とする考え方は、西洋哲学とそこから生まれた世界観に深く根ざしています。数学の公理的方法、「第一原理」を確立し、そこから上へ上へと推論していく哲学的プログラム、そして自分自身の外側にある現実についての仮説を公平に検証することで真理を見出すことができると述べる科学の客観主義に呼応しています。それは、どんな議論も明確な用語の定義からはじめなければならないという考え方に反映されています。そうですね、共和党の義弟、反ワクチン派の叔母、親ワクチン派のいとこ(あなたの好きな方を選んでください)とのあらゆる議論は、このアプローチが機能しないことを確認させるはずです。事実が何を意味するかはおろか、事実が何であるかについて同意することさえ不可能であることがすぐに明らかになります。

 
 それはさらにひどいものです。2005年と2006年にミシガン大学で行われた一連の研究によれば、人は自分の信念に沿わない事実を日常的に否定しているだけでなく、おそらく認知的不協和を避けるために、矛盾する事実を提示されると、実は自身の信念を硬化させてしまうことがわかったのです。さらに、最も誤った情報を持っている人が最も強固な意見を持っており、最も政治的に洗練された思想家ほど反対情報に対してオープンではありませんでした。(注1)


 私たちがその中で活動しているストーリーの歪曲的なレンズによってすでに前処理された状態で、事実は私たちの脳に届いています。気候変動をめぐる議論は、このことを見事に例証しています。それを掘り下げていくと、実際のデータが何であるかを確かめることは不可能であることがわかります。確かに多くの研究やレポートがありますが、それらのレポートの中には、矛盾するデータの除外、偏見、杜撰さ、そして公然の不正直さに対する非難もまたあるのです。究極的には、人が受け入れる証拠とは、権威に対する信頼やその欠如によって強く左右されるものであり、それは個人の歴史や、おそらくは父親との関係などにもよって左右されるのです。例えば、“気候変動科学者のほぼ全員一致”という主張について考えてみましょう。(本当に全会一致に近いのでしょうか?その発表を受け入れるかどうかは、それを述べる情報源の権威を信頼するかどうかにかかっています。それを掲載しているニューヨーク・タイムズ紙を信用しますか?それとも、自身の職を追われた破天荒な科学者を信用しますか?)さらに、科学者の間でほぼ一致していることをアピールすることは、科学という制度の基本的な誠実さを呼び起こそうとするものです。そして、科学はより大きく、目に見えにくい物語群の中に存在しているのです。


 私のここでの要点は、気候変動を疑うことではなく、証拠が信念の基礎となるというよりも、物語の整合性を保つために、いかに証拠が信念のフィルターにかけられているかを明らかにすることです。優れたストーリーテラーは、事実や研究などをストーリーの要素として使いながら、このことを理解し意図的にそうしています。気候変動に関する議論では、どちらの側もそうしています。知的で理性的な人(あなたのような)なら、公平な方法で証拠を見さえすれば、地球温暖化を否定することはないだろうと思うかもしれません。しかし、どうでしょう。あなたと敵対する人も、自分たちの立場について同じことを考えているのです。私たちの集合的な愚かさの理由は、単に頭の良い人たちが物事をコントロールできていないからなのでしょうか?それとも、その規範を世界に必然的に刷り込んでいる物語に私たちがとらわれているからなのでしょうか?

 
 最近、本当に頭の良い女性に会いました。彼女はネスレ社の副社長でした。私はある大学生が、ネスレの社会的・環境的方針についての彼女の熱を込めた説明に疑問を投げかけているのをふと耳にしたのです。その学生は、ネスレの主要な飲料カテゴリーであるペットボトル入り飲料水について、勇敢にも副社長に質問していました。「そのようなものが本当に私たちに必要なのでしょうか?」と。そして、「ペットボトル1本あたりのプラスチック使用量を40%削減しているそうですが、プラスチックをまったく使用しないほうがいいのではないでしょうか?」と彼女は質問しました。


 それぞれの質問に対して、その副社長は用意周到で理路整然とした答えを持っていました。ペットボトル入り飲料水は、移動の多い社会において真のニーズに応えています。ペットボトルの原料の一つが、石油からガソリンをつくる際の副産物であることをご存知ですか?もしそれがペットボトルに使わなければ、他のプラスチック製品になるか、直接環境に投棄されることになります。ガラスは製造により多くのエネルギーを使っています。そして、水道水はもはやきれいではないのですよ。


 私は、彼女の明らかな誠実さだけでなく、その忍耐強さ、注意深く耳を傾ける姿勢、そしてたびたびやって来るであろう非難に対しても敵意がない態度にも感銘を受けました。ネスレは、何といってもアクティビストの間では悪徳企業として悪名高く、貧困層の母親たちへの粉ミルクの販売をめぐっては数十年にわたるボイコットの対象になっています。鉱泉の過剰汲み上げ、ビルマの軍事政権との協力、コロンビアでの労働組合つぶし、児童労働を行なっている農園からのカカオ購入などで非難されています。このような世評とネスレ副社長の熱意と心のこもったネスレの環境保護の美徳の説明は真反対で、数人の左寄りの人たちは客席から退出せざるを得なかったほどでした。


 この差異をどのように説明できるでしょうか?三つの理論を試してみましょう。


1. この女性は、会社の主張を作るために高給をもらっている、口が達者な嘘つきなのです。彼女は自分の嘘によって不鮮明になっている真実に皮肉にも気づいているか、あるいは利己的な深い否認に陥っているのです。いずれにせよ、彼女は環境に対するポジティブな行為を(「ネスレはオラウータンを保護しています!」)いくつか選び取り、会社のPR部門がまとめた偏向した証拠の数々から、会社の慣習に疑問を持ついかなる人をもナイーブであるように思わせるのです。


2. その女性が言っていることは真実です。同社は失敗から学び、社会的・環境的責任に関してのリーダーになったのです。ネスレをいまだ非難する悪意のない人たちがまだたくさんいますが、それは彼らが真のストーリーを知らないからなのです。ネスレはサステナビリティに向けての先頭に立っているだけでなく、業界全体がその慣習を改善していっているのです。課題はまだありますが、すべては正しい方向に進んでいます。業界の人たちは、皆さんと同じように環境に心を配っています。今や彼らは理解し、あなたの助けによって進歩を継続していくことでしょう。


 ネスレ副社長の視点について、第二の理論の中で正当に評価できたであろうことを願います。のちに彼女と会話しましたが、彼女は非常に人間的で、知的で、内省することを厭わない人だと感じました。私の印象では、彼女は自分の会社と仕事を深く心から信じています。そこで3つ目の説明をさせてください。


3. 彼女は自分が言っているすべてを誠実に信じているだけでなく、彼女が基準とする枠の中から見ても反論の余地はないのです。もし私たちが現代社会の終わることのない加速を当然とするならば、安全なペットボトル入りの飲料水の利便性は、そうでなければ砂糖入りの清涼飲料水を飲んでいた人々にとって、まさに恩恵なのです。水道水の継続的な劣化、塩素処理、化学物質での汚染を当たり前のことと考えれば、同様にペットボトル入り飲料水は恩恵なのです。また、現在の石油に基づいた経済を前提として受け止めれば、ペットボトルがさほど害を加えているわけではないのは事実なのです。


 会話の及ぶ範囲を広げない限り、副社長の立場は揺るぎません。「ペースが加速する現代社会の中でペットボトルはどのような役割を果たしているのか、なぜこの加速は起きているのだろうか、それは良いことなのだろうか?」のレベルで私たちは問いを投げかけなければなりません。「私たちの忙しさや便利さへの欲求はどこからきているのだろうか?」「なぜ水道水は飲めなくなっていっているのだろうか?」「なぜ私たちは、他の生物たちが使えない廃棄物を放出しても構わないというシステムを持っているのだろうか?」そして、「ネスレが唱える『持続可能な成長』は、有限な地球で実現可能なのだろうか?」


 この会話はさらに深く掘り下げられなければならないと私は信じています。ネスレの副社長が自分の会社を正当化するためにしたことは、人生、自己、現実の本質について一定の前提を認める限り、文明全体を正当化するために他の人たちが行えることです。例えば、太古の生活は「孤独で、貧しく、汚らしく、残酷で、短命な」ものだったという前提を認めれば、テクノロジーによる総体的な恩恵に対するどのような疑念もレンガの壁に突き当たります。同様に、自然には組織化しようとする固有の性向はなく、生命とは生気のない基礎的な構成要素が、無目的な力によってランダムにぶつかり合っているだけのものなのだという前提を受け入れるのであれば、自然を征服して人間の目的のために向かわせようとすることに良心の呵責を持つ必要がないことは明らかでしょう。そして最後に、もし私たち一人ひとりが、遺伝的な自己利益を最大化しようとする離れ離れの自己であるという前提を受け入れるのであれば、究極的には、その奔放な本性を克服し、社会的な目的に向かわせようとする私たちの社会の広範な法的・経済的な制限の範囲をめぐって議論する必要はないのです。


 ネスレ副社長の見解は、先に説明した枠組み、つまり「テクノロジーを通じて生活を良くする」と「内側と外側の自然を漸進的に克服する」という枠組みの内側では、多かれ少なかれ健全なものです。その枠組みが崩れるまで、彼女の見解は変わらないでしょう。彼女の諸見解は、「上昇の物語」の中ですっかりくつろいでいるのです。


 ある朝、『ダイアン・レーム・ショー』で、エネルギー産業のコンサルタントである頭の良い男性の話を耳にしました。話題の一つは、物議を醸している、アルバータ州のタールサンド・オイルをメキシコ湾岸の製油所まで輸送することを予定しているキーストンXLパイプラインについてでした。そのコンサルタントは次のように指摘しました。「いいですか、パイプラインを建設しなければ、メキシコ湾岸の製油所は他の場所からの重質原油を精製することになり、そのタールサンドは米国ではなくアジアに原油を送ることになるんです。パイプラインを止めても、気候変動や生態系の破壊には何の影響もないんです。どうせ原油は採掘され、精製されるのだから、米国に雇用をもたらすようなやり方で精製したほうが良いのですよ。」


 倫理の哲学者たちであれば、ナチスの強制収容所の遺体の一部を売ることにも当てはまるようこの議論をくつがえすことを楽しむでしょう。売ろうが売るまいが、収容所はまだ運営されているのだから、その体の一部を有効利用したほうがいいですよね?ここでの要点は、キーストンXLパイプラインやペットボトルの正当化の論理的欠陥を暴くことではなく、私たちが当たり前のことだと思っている物事が、いかに私たちの道徳的選択を決定づけているかを示すことです。彼らの住まう現実のバブルの中では、彼らの主張は理にかなっています。タールサンドが採掘されていくことが本当に宇宙の中での変えられない事実であるならば、その事実を軽蔑して拒否することは無駄であり、逆効果です。もし現在の石油をベースとした文化が変更できないものであるならば、ネスレがその廃棄物を有効利用していることを賞賛するべきなのかもしれません。人々の生活がますます忙しくなっていくことを当然と考えるのならば、現代の生活を耐えうるものにしている便利なものを歓迎しなければなりません。どちらの企業でも、その経営パラダイムの内において、この頭の良い人たちは良いことをしているのです。


 自分がそのネスレの副社長のようではないとどうやって知り得るでしょうか?彼女の目の中にあるくもりが、自分の目の中にある丸太のイメージではないとどうしてわかるでしょうか?あなたと彼女におそらく共通しているのは、そして気候変動否定論者と気候変動警鐘論者に共通しているのは、事実と論理は自分の味方であり、自分の立場はそれに基づいているという信念です。しかし当然、事実の掴みどころのなさや、理性を物語のために利用できることの容易さは、信念を変えるためには(そして私たちの信念は変わらなければなりません)、私たちの物語とそれに付随する自己感覚、習慣、世界に対する基本的な認識まですべてに至るより包括的でホリスティックな変化が必要であることを物語っています。私が「世界の物語」と呼ぶものは、こうしたものの総体のことなのです。


 物理学の普遍定数や熱力学の第二法則のような基本的な”事実”でさえ、あるレベルでは、誰を信じるか、何を信じるかという主観的な選択に依拠しています。例えば、ルパート・シェルドレイクは、1930年代から40年代にかけて18年間にわたり、光速について容認されていた値が秒速20kmも変化したことについて述べています。そして1945年、光速は元の1928年以前の値に戻りました。この差異は、測定の誤差をはるかに超えています。シェルドレイクはまた、万有引力定数であるGのばらつきのことも記述しています。事実 [fact]とは、その言葉の語源が示唆するように、"工場 [factory]" でつくられるものなのでしょうか?


 話をあなたの義理の弟さんに戻しましょう。もしあなたが彼を論破できないのであれば、どうやって彼の考え方を変えることができるでしょうか?より広いレベルで、世界を変えようとする人間として、私たちはどのようにして社会の物語を変えることができるのでしょうか?


 状況主義の観点から論理的に考えると、人は自分の人生経験の総体と共鳴する一連の考え方に引き寄せられているのです。人生での体験が考え方の基盤となっていて、その中で私たちが「意見」と呼んでいるものは、最もよく目に見えている表面的な部分にすぎません。意見は在り方の症状なのです。したがって、意見や考え方を変えるには、「状況」という土台を変えなければならないのです。既存のストーリーに適合しない、あるいは新しいストーリーに共鳴するような体験を誰かに与えなければならないのです。組織、社会、政治のレベルで作動している物語を変える場合も同様です。


 古い物語を中断させる一例として、ストライキのような伝統的な労働者による行動があります。労働者が賃金や労働条件の改善を丁重に求めても常に、その「物語」(協定システム、慣例、商慣行、市場の期待、株主の期待など)には、上司がイエスと言う余地がないからです。その物語を作動させないようにする必要があるのです。しかし、真に革命的な変革のためのエージェントであるためには、そうすることで「悪」という深い物語を呼び起こして、結果その物語を強化することにならないように注意しなければなりません。ストライキの声明は、「この会社の強欲は遥か遠くへ行き過ぎている!経営陣が正しいことをしたくなくとも、私たちは力づくで正しいことをさせてやる。」というもっと扇動的なものとは対照的に、「私たちがストライキを行うのは、私たちのニーズと利益、そして私たちの置かれた状況の不公正さを可視化するためなのです。不公正を可視化することによって、私たちはすべての関係者に正しいことをする機会を与えます。」という心証を盛り込むことができます。ストライキ参加者たちは、ジャッジメントのない言葉が当局の対応の暴力性を緩和する期待を抱く必要はありませんが、その言葉は世論に影響を与え得るのです。


 その声明がどのようなものであれ、労働がストップする影響は、私たちが「いつも通り」と呼ぶ物語を一時中断させるものなのです。より大きな規模では、ゼネストも同じことを起こします。すべてがうまくいっているという信念に縛られている人たちが、その信念を持ち続けることができなくなるのです。


 現在表れている最も強力な中断を引き起こす提案の一つが、債務ストライキというアイデアです。労働ストライキのように、単なる象徴主義をはるかに超え、「意識を高める」ことをはるかに超えて、私たちの社会を動かしている合意や物語の核心をつくものです。もし個人や国家のかなりの割合が債務を拒否すれば、現在の金融秩序は崩壊し、今日の政策立案者の頭にも浮かばないような革命的な改革が可能になります。現在、最低限の改革さえ、つまり生物圏の荒廃と数十億人の貧困化を反転させるには到底不十分な改革でさえ、政治的には真剣に検討する価値はないのでしょう。債務ストライキは、代替案がないという幻想に風穴を開けるでしょう。多くの人たちが現在のシステムを容認している限り、その存続に多大な投資をしている人たちは、このシステムが持続可能であるかのように見せかけ続ける方法を見つけるのでしょう。


 ここでもまた、ストライキは私たち対彼らという考え方を強化しないような言葉の枠の範囲内に収めることができます。特に、強欲という観点からこの問題を枠づけることには注意が必要です。企業の強欲さであれ、銀行家の強欲さであれ、強欲は私たちの核心的な問題の原因ではなく、症状なのです。同様のことが不正や汚職についても当てはまります。不道徳な企業や銀行の不正行為に憤慨することは、私たちの憤りを満たし、我は正義の側にあると感じさせますが、結局はより深いシステムの問題から目を逸らさせるのです。そこで、私は次のような内容の負債ストライキの綱領を提案します:「現在の負債に基づく金融システムは、学生、家族、政府を人質に取り、債権者でさえも収益を最大化しようとする執拗な圧力にさらされています。このシステムが終わる時が来たのです。そこで私たちは、社会と地球を破滅に追いやろうとするシステムの不公正さを浮き彫りするために借金の支払いを拒否します。」


 私たちは本当は何を求めているのでしょうか?悪者たちに対して勝利を得て、勝者になることなのでしょうか?それともシステムを根本的に変えることなのでしょうか?あなたはこの二つの目標が矛盾していないと思うかもしれません。私はそれらは矛盾していると思っています。第一に、「悪と戦う」というパターンは、競争と支配によるシステムと同じメンタリティに由来しているからです。第二に、私たちが他者と認識する人たちを悪者扱いすることで、私たちが悪者扱いすることを正当化する行動そのものへと彼らを駆り立てるのです。第三に、私たちはパワーエリートたち自身によるゲームに勝つことはできないでしょう。第四に、私たちがたとえ勝利するとしても、私たちは、彼らよりも彼らになることが上手になってしまうでしょう。第五に、強欲な人たちに勝利するという動機に基づいて味方を得たとしても、その目標を達成すると、たとえより深いシステムに変化がなかったとしても、彼らは私たちを見捨てるであろうからです。これは独裁者が倒されるたびに大抵起こることです。勝利したと考えた人々は家に帰り、ほかの誰かが権力の空白に入り込み、すぐにすべてが多かれ少なかれ以前の状態に戻るのです。


 ストライキ、抗議活動、直接行動、市民的不服従などの伝統的なポピュリズムの戦略は、広く行き渡っている物語を一時中断させる上で重要な役割を担っています。しかし、それらは危険であると同時に、現在の課題に対しては力不足なのです。それらの戦略は、たとえ思いやりやジャッジメントなき場所に由来するものであったとしても、古い憎しみの習性をいとも簡単に引き起こしてしまうので危険なのです。それら戦略の性質は、一方が勝ち、一方が負ける、一方が善人で一方が悪人であるという二つの側があるという認識を生み出します。それらの戦略はまた、広く行き渡っている物語をある一つのレベルでしか中断しないので不十分なのです。私たちが「経済」と呼ぶ物語を混乱させるかもしれませんが、それらは、私たちの文明を定義づけ、経済を包み込んでいる、より深く、目に見えていない神話を手付かずのままにします。この限界は、これらの戦略が有用ではないとか必要ではないということを意味するものではありません。しかし、私たちは他のレベルでも働きかける必要があるのです。そこで、「分離の物語」を中断させるための他の方法、他の種類の方法を見ていきましょう。


 その一例が、偽広告のような悪ふざけから、”全国民不買の日”や”テレビ電源オフ週間”のようなキャンペーンに至るまでの「カルチャー・ジャミング」です。バンクシーのような破壊的で違法なアートもこのカテゴリーに分類され、オフィスビルやビジネス会議にピエロが侵入することもこれに入るのかもしれません。テレビインタビューで企業や政府の役人に扮するイエスメンも、カルチャー・ジャマーなのです。これらはすべて、支配的な物語の不誠実さ、狂気さ、非人間性を露わにするものです。


 一時中断のもう一つの形は、テクノロジー、農業、貨幣、医療、学校教育…などで異なった生き方の生きた手本をつくり、それとの対比によって支配的なシステムの矮小さと機能障害ぶりを明らかにすることです。私はバックミンスター・フラーの格言「既存の現実と闘ってもものごとは変えられない。何かを変えたいなら、新しいモデルを築いて、既存のモデルを時代遅れにすることだ。」に全面的に同意するわけではありません。なぜなら、ときに既存の現実が新しいモデルを上回っているからです。あなたの地域の建築基準法では、コンポストのトイレや草屋根は認められているでしょうか?しかし、それでもこの言葉には真実が含まれているのです。


 では、もう一段階深めていきましょう。結局のところ、私たちの法律、経済、政治のシステムは、目に見えない神話、習慣、信念の土台の上に成り立っています。私たちは、このレベルでも物語に取り組まなければなりません。前述のミシガン大学の研究は、この深いアプローチが何かを示唆しています。研究者たちは、自己肯定の訓練を受けた人たちは、そうではない人たちに比べて、自分の信念に反する情報を考察する能力が高いことを発見しました。おそらく、自己肯定感の高まりが、彼らに脅威をあまり感じなくさせ、結果心を開かせるのでしょう。


 「分離の物語」を根底から揺さぶる最も直接的な方法は、誰かに非分離の経験を与えることです。寛大さ、許し、アテンション、真実、あるいは無条件の受容といった行為は、分離の世界観に対する反例となり、「誰もが自分のために生きている」といった見解に反し、与えたい、創造したい、愛したい、遊びたいという生来の欲求をはっきりと肯定するのです。これらの行為はあくまでも招待であって、分離に基づく信念体系を和らげるように強制することはできません。寛大さは常に、「彼は私から何かを得ようとしている」と解釈される可能性があります。赦しは巧みに操ろうとする試みとみなされることがあります(偽の赦しがそうであるように)。真実は無視されることがあります。しかし、招待状はそこに少なくとも存在しているのです。


 20代に台湾に住んでいたときに、私がWと呼ぶとても素晴らしいミュージシャン兼アーティストと知り合いになりました。私は彼のことを尊敬し、彼のクリエイティビティと自由さに嫉妬し、私にも好意を持ち、感心することを彼に求めていました。それである日、私は彼を会話に引き込み、私が中国語を流暢に話せること、翻訳家として大金を稼いでいることをさりげなく話して彼の気を引こうとしました。自慢しているように思われないように、私は努めて平静を装っていました。彼は注意深く聴いていましたが、何も言いませんでした。突然、Wが感心していないだけではなく、私のことを完全に見抜いていることに気づきました。私の企みはすべてお見通しだったのです。しかし、Wはそれを指摘する代わりに、愛に満ちた目で私を見て、優しく "そうだな、兄弟 "と言って、私の羞恥心が高まっていくことを迂回してくれたのです。


 これらの言葉はどんな非難よりもパワフルでした。まるで何かの奇跡かのように私の心に響きました。私自身恥ずかしく感じていたことに立ち会ってくれた人がここにいて、しかも彼はその私が持つジャッジメントに加わらなかったのです。彼は私を祝福してくれました。私自身が愛することができない場所を愛してくれたのです。それは私の世界に馴染みのない体験でした。それがすぐに私を変えたとは言えませんが、無条件に受け入れられたその体験は私の精神に刻み込まれ、”現実”を少し現実ではなくさせたのです。


 一生に渡る自己否定のトレーニングの後で、無条件に他者に受け入れられることは新たな可能性を私たちに示してくれます。これは私たち全員が携えている変容の力なのです。私たちは皆、「分離」の信念に対する強烈な反論となる体験をお互いに与えることができるのです。


 ダライ・ラマ法王はかつて、「霊的な指導者の最も重要な資質は何ですか?」と尋ねられました。彼の答えは「陽気さ」でした。その陽気さは「ここにいるのは良い気分ですよ。あなたもご一緒にどうですか?」と表現している一種の招待なのです。

 
 物語を機能不全にする一般原則は、力や対立に基づかない種類の行動の有効性を承認し、アクティビズムの範囲を従来の考えをはるかに超えて拡大します。その一例がサイレント・ウィットネス(沈黙の証人)です。アーミッシュの人たちが法廷に詰めかけ、司法行政の平和的な証人となったり、「ウォール街を占拠せよ」の抗議者たちが、唐辛子スプレーを命令した議長がオフィスから立ち去るのを黙って見送ったりするのです。あなた方はどうかわかりませんが、誰かが見守っているとわかっていれば、正しいことをするのが容易に私には感じられます。

 

 先に紹介した黄大権(ファン・デグォン)は、数百年の歴史を持つ村を破壊することになる韓国の米軍新基地建設現場で、彼と何人かの平和主義者仲間たちが最近とった直接行動について話してくれました。彼らは毎日朝と夕方に現場に行き、何時間も「お辞儀瞑想」(完全な平伏を繰り返す)をしていただけだったのです。メディアキャンペーンもありません。プラカードもなく、横断幕もありません。やがて人々は興味を持ちはじめ、まもなくこの問題はメディアを賑わすようになりました。従来の過激派デモ隊が参加するようになるまでは、物事は順調に進んでいたとファンは話していました。彼らは怒りと暴力で押し寄せ、やがてメディアの報道はもっと敵意あるものになりました。抗議活動はもはや、法と秩序、不機嫌な抗議者といった既存のナラティブを拒むものではなくなったのです。


 これらの例には、本書で前述したアクティビズムとスピリチュアリティの融合が見られます。私たちの経済システムや政治システムは、私たちが共有する物語の上に構築されているため、政治的な問題を直接扱わない行動でも、政治的な影響を及ぼします。


 私はよくセミナーの参加者たちに、何が現実で、何が実現可能で、何が「世界の流儀」であるかについての彼らの理解を拡張させたストーリーをシェアしてもらいます。最近、コロラド州出身のクリスという男性が、何年も前に彼が率いた不動産投資セミナーについて話してくれました。160人の不動産投資家が参加する数日のイベントでしたが、彼自身が認めているように、かなり退屈なものでした。

 
 三日目に、何かが彼のもとに降りてきたのです。プレゼンテーションを脇へやると、彼曰く、トニー・ロビンズのワークショップで体験したアクティビティにチャネリングしたのです。彼は聴衆全員に、財布や小銭入れに手を入れてお金を掴むように求めました。「高額紙幣がなければ、近くの人に借りてください。」そして、「さあ、手に持ったお金をくしゃくしゃにしてください。何も考えずに、3つ数えたら何かしてくださいとお願いしますよ。3まで行ったら、そのお金を手にし、叫び声を上げながら空中に放り投げるんです。さあやってください。今です!1、2、3!」。


 部屋中が言われた通りにやり、一度叫んだら叫び声は止まりませんでした。ようやく落ち着くと、彼らにこう言いました。「よし、今から皆さんに選択肢を与えましょう。お金があなたをコントロールしていることを示すためにお金を拾いに行くか、それともあなたがお金の主人であるから、お金を床に置いたままにしておくかです。」その日一日、セミナーは魔法のようでした。部屋の空気が振動しているかのようでした。


 午後の終わりに、イベントが催されていた会場のホテルの講堂を出るときがきました。参加者たちは「このお金はどうするんですか?」と尋ねました。「もし本当に私たちがお金の奴隷ではないのなら、この床の上に置いていくことになります。」とクリスは言いました。「掃除係の人たちへの贈り物になります。」顔をしかめた一人の男性は、お金を拾い上げ、部屋を後にしました。残りの人たちはそのままにしたのです。誰もいなくなった数千ドルが床に散らばった部屋にクリスはしばらく留まっていました。やがてホテルの清掃員たちが5人やってきました。彼らは足を止め、とても驚いた顔をして床を見つめました。どうするのでしょうか?


 もちろん、彼らはスーツを着た男性に尋ねにきました。「セニョール、これはどういうことですか?」と彼らは言うのです。彼らはほとんど英語を話せなかったですし、クリスはまったくスペイン語が話せませんでした。クリスはこれは彼らが受け取っていいものだと説明しようとしましたが、うまくいきませんでした。「あなた方へ、あなた方へ」と彼は言いましたが、まるで彼らには聞こえていないかのようでした。それが真実であることは、彼らの世界ではあり得ないことでした。

 やがて彼らは上司を呼び、クリスはそのお金が清掃員たちのためのものだと説明しました。その上司がついに、これは本当のことなのだと理解すると、彼は感極まり泣き出しました。「これは彼らが一ヶ月で稼いだ金額よりも多いのですよ。」と彼は言いました。「あなた方がここで何をしていたかは存じ上げませんが、いつでもどうぞ私たちのホテルにお戻りください!」


 魔法はセミナーの残り二日間も続きました。クリスは参加者たちに清掃員たちのことを話し、その寛容さの精神は伝播していきました。ランチに行ったカフェでは、後ろに並ぶ人たちの分まで支払う人たちがいました。彼はセミナーのための台本を無視し続け、ある種の直感的な流れで話しました。彼が導いたプロセスはどれも素晴らしいものでした。


 何年もたった今でも、彼はその参加者たちから、その時以来彼らの人生は同じものではなくなったと伝えるメールを受け取っています。「またセミナーをやるときは教えてください。」と彼らは言うのです。「どんなトピックであろうと構いません。」


 その寛大な行為のパワーは、労働者階級の清掃員たちに与えた単なる経済的なインパクトを遥かに超えたものでした。そのパワーは、清掃員たち、その上司、そしてセミナー参加者たちがそれまで知っていた現実の法則を打ち破ったことにあったのです。その日、不可能が起こったのです。このような体験は私たちにこう教えてくれます。「世界はあなたが思っていたようには動いていない。実現可能な領域は、あなたが信じていたよりも遥かに大きいのです。」


(注1)この研究については、2010年7月11日付『Boston Globe』紙のジョー・キオヘインの「How Facts Backfire」を参照のこと。


第30章 物語              第32章 奇跡


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