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鴨の生涯 【短編小説】

◆あらすじ◆
 内科医鴨田は自身の恋愛遍歴を振り返り、文章に書き起こすことを決意した。
 異性から依存されやすい体質メンヘラウォーカーの彼が経験した恋愛には、どこか奇妙で狂おしい旋律があった。出逢いと別れを繰り返す中で彼の得たものは何だったのか。傷つけ傷つきながら織り成す恋愛を紐解いた先にあったのは、不気味で歪な愛情だった。度し難い自己矛盾に気付いた鴨田は、ある重大な決断を迫られる。

この作品はフィクションです。
実在の人物や団体、事件などとは一切関係がありません。


 出汁だしの多い生涯を送って来ました。

 鴨田かもだという名に生まれた私は、カモとか鴨ネギとか呼ばれるうちはまだマシなもので、終いには鴨田氏から鴨出汁に変じると出汁が濃いとか薄いとか言われるようになりました。恋愛体質という言葉を聞きますが、あれは自分のことだろうと思います。兎も角、私は身近に異性がいないと落ち着かない性格でした。それで度々トラブルに巻き込まれることもありましたが、だからといって何かを変えようと思ったことはありません。

 人の恋愛話には興味がないもので、自分のことを誰かに話すのも気が憚られます。そもそも過去のことはどうだって構わないから、記録にも記憶にも留めないのが私の流儀です。医者なんて大して儲かる仕事でもないし、私のような勤務医は激務と薄給が結婚したようなものですから、その日暮らしに仕事を流して酒が飲めればそれでいい。ただそれだけのことです。

 若い頃は理想に燃えた時期もありましたが、火は必ず消えるものです。焚き火にも恒星にも寿命があるでしょう。短いか長いか、それは瑣末な違いです。燃えれば消える、生まれれば死ぬ。どこにも不思議はありません。

 外来と病棟の繰り返し。担当患者の急変があれば電話は主治医にかかってきますし、当直やオンコールを含めると、月の残業時間は相当なものになります。それでも大学病院に居た頃に比べれば、随分と楽な仕事になりました。臨床・教育・研究の三本柱だなんて格好好いことを云われますが、其々に求められる資質の乖離が甚だしいものですから、その業務に耐え得る人材はほんの一握りです。

 喩えるなら、最新の研究に取り組む数学者が自動車の整備士と営業職を兼任して、その傍ら中学校から大学までの数学を教えるようなものです。

 数字に見える研究成果が重視された結果が現代日本の医療界です。臨床に没頭して患者に向き合い続けた名医が出世することは稀で、論文を量産することこそ大正義、誰よりもインパクトファクターを貯めた医者が地位と権力を掌握します。それでも研究費以外の収益は臨床業務から生まれるもので、私のような臨床畑りんしょうばたけの医者にも一応の居場所は在りました。不遇なのは教育に注力する面々で、学生や研修医から人気のある先生ほど、雑務を押しつけられて疲弊していく光景を私は幾度となく目の当たりにしました。医者の質が低下していると誰かが嘆く声を聞く度に、教育こそ未来の創造であろうにそれを軽視する社会が自分の首を絞めているだけに過ぎないと思って、しかし叛旗を掲げるようなこともなく、私は口を噤みました。

 競争から脱落した後は爽快な気分よりも空虚な感情が勝り、自分はこれまでいったい何と戦ってきたのだろうかと深く沈みました。


 宴会の席で同僚に「濃い出汁なら恋の話のひとつでも書いたらどうか」と揶揄からかわれました。草臥くたびれたシャツの中年男性の恋愛など、誰が知りたがることでしょう。私は乾いた笑いで話題を躱して、空いたグラスの交換を求めます。くだらない話がビールを溶かして、視界が揺れる頃には何事もどうでもいいような気がしました。酒が飲めればなんでもいいや。私は自分が薄れていくような感覚の中で、ぼんやりと夜風にあたりました。

 悪酔いしたのか、家に帰ると鈍い頭痛がありました。

ーーー恋の話のひとつでも書いたらどうか。

 同僚の言葉が脳内を反芻します。何か大切なことを忘れているような焦燥感が生まれます。重要なアポイントメントがあることを失念して別な予定を入れてしまったときのような、気味の悪い予感がありました。もう少しで思い出せそうな何かを、しかし私の脳は拒絶します。その扉には何重にも鍵が掛けられているようで、誰が何のためにそんなことをしたのか、私には皆目見当がつきませんでした。

ーーー書いたらどうか。

 同僚の言葉が脳髄を巡ります。私を捕らえる無味乾燥な閉塞感に何か出来ることがあるとしたら。

 私は筆を執りました。

 どうせやるなら徹底的にやった方がいい。中途半端な覚悟では、徒労に終わる予感がするのです。
 
 記憶を記録に降ろすように、奥底に仕舞っていた映像の断片に言葉を当て嵌めていきましょう。
 





◆01◆ 刃物


 あ、と言って彼女が隠したのは、紫色の柄をしたカッターナイフだった。枕元に置かれていたソレは、鈍色に光っていた。もう十何年も前ことだ。

 くるくると眩しく変わる表情に惹かれたが、近付いた先にみえたのは、ひどく傷ついて震えている瞳だった。表情よりも激しく変化する心模様は愛情と殺意に満ちていた。

 彼女は診断名を伏せていたが、治療するような疾患ではないという主旨のことを言った。しかし、ならばその薬は何の為に飲んでいるのだろうか。私には彼女のことがよく分からなくなった。ある種のパーソナリティ障害だと彼女は自称した。真偽の程は分からないが、彼女はそれを免罪符のように私に提示した。私は何も言えなかった。

 インターネットで得られる情報よりも、現実はどす黒く繊細で、壊れやすい硝子細工だった。透明感のある黒は何処までも深く続いた。その細工はひどく鋭利に磨かれていて、触れると血が滲む。

 赤。赤。赤。

 抑鬱気分はあるが鬱病ではない。本当に死ぬ気なんてない。彼女は自分の存在を確かめるように、生きていることを確かめるように、柔肌に赤い線を引いた。気を引くための自傷、それはある種の浄化行為のように見えた。その光景を神聖なもののように感じた私も、何処か狂っていたのかもしれない。

 別れを切り出したのは彼女の方だった。あるいは駆け引きのつもりだったのかもしれないが、私はそれに乗っかった。

「わかった。やめにしよう。」

 理由は聞かなかった。これ以上の会話はきっと空虚で、それまでも対話になったことなど一度もなかったから。私たちの関係性に於いて、言葉はあまりに無力だった。約1年半の幕切れは、あっけないものだった。

 彼女を家まで送り、玄関で握手をした。

「さよなら。今までありがとう。」

 閉じた扉の向こう側で、泣き崩れる音がした。

 私は、残酷だろうか。

 人を傷つけると、同じくらい自分も傷ついていく。彼女も私も、互いに傷つき過ぎたのかもしれない。彼女の在り方を肯定し、彼女に幸せであってほしいと願った。しかし自己否定の強い彼女は、新しい生命を育むことに強い嫌悪感を抱いていた。反出生主義の立場を貫く彼女とは、ずっと平行線だった。私が彼女を肯定することは、彼女との未来を否定することと同義だった。

 どこまでも交わることのない、線。

 ほどなく彼女の隣には、黒髪の綺麗な男性がいた。私は安堵した。あとは彼に任せればいいだろう。

 私は、残酷だろうか。




◆02◆ ギプス

 高校1年の初夏だった。

 移動教室の机に座った僕は、その端にあった落書きにぞっとした。楽曲の歌詞が一字一句正確に書かれていたからだ。小さく端正な文字は静かに佇んでいて、それは気品と狂気を放っていた。僕はたった一言、『ギプス』と書き足した。

 誰が書いたかも分からない落書きの歌詞に正しいタイトルを添えることは、ひどく美しいことのように思えた。黒鉛の文字などすぐに消されるだろう。ほんの遊び心だった。

 翌週、同じ授業でその教室に入ると、僕は同じ机を目指した。多少薄れていたものの、歌詞はまだ残っていた。妙に安堵した感覚に包まれた直後、心臓がひとつ揺れた。

 僕の書いたタイトルの下に、歌詞と同じ筆跡で小さな文字が書いてある。

音楽室。

 意味が分からない。返事があったことにも驚いたが、見える罠に僕がかかるとでも思っているのだろうか。ここは音楽室ではない。来い、ということなのだろう。相手は絶対ヤバい奴だ。俄然、興味が湧いてくる。

 その日の放課後、合唱部の練習が終わるのを待って僕は音楽室に赴いた。扉に手をかけると、鍵が開いている。西日の差し込む無音の教室に、ルノワールの絵画を彷彿とさせるような女生徒が佇んでいた。光の演出は作品を観賞しているような錯覚を伴って、僕の目を釘付けにした。黒髪を揺らして此方をみると、彼女は意地悪そうに微笑んだ。

「入部希望?もう時期、過ぎてるけど。」

「いいえ。明日のことは判らないけど、此処に居たくなって。」

 最初の一言で全て決まると思った。それは賭けだった。

「君か。面白いね。」

 彼女はそう言って、今度は楽しそうに笑った。
 そうして椎名林檎がいかに素晴らしいかということを一通り話し合って、日が沈む頃には帰路に着いた。動揺して連絡先を交換することを忘れていた。

 何度か会ううちに、彼女の家庭環境があまり居心地の良いものではないことを知った。彼氏と別れたばかりで精神的に不安定なのだと聞いた。連絡先を交換した後は、毎日メールのやりとりをした。彼女が真夜中に不安な気持ちに襲われると、僕のケータイが鳴った。端末の震えは彼女の不安のようだった。到底無下にはできなかった。
 或る休日にファミレスに行った後、カラオケに行こうということになった。カラオケは好きだったし、彼女の歌に興味があった。流行りの歌から昭和歌謡曲まで色々歌いながら、ドリンクバーのコップの氷が無造作に溶け始める頃、彼女は椎名林檎を歌った。本人かと錯覚するような特徴的な美声だった。

 「ここでキスして。」

 終わると僕のすぐ隣に座って、彼女は歌った曲のタイトルを言った。左耳の下あたりに気配を感じながら固まっていると、「して」と小さく彼女が言った。

 キスでは済まなかった。

 以来、彼女は豹変したように僕を求めた。
 今日は親が帰るのが遅いからと家に誘われたり、怪しいカラオケ店に行ったりした。音楽準備室は妙なスリルがあった。
 一方で、離れているときの彼女は不安の象徴のようだった。あるいは近くにいるときも同様の不安を抱えていたのだろうか。彼女の異常性は加速していった。返信が少し滞ると次々とメールが来るようになった。どちらかが寝落ちるまで通話することを彼女は好んだ。どちらかが、と言ったが、僕が先に寝てしまうと、翌日の彼女は機嫌が悪かった。そういう日、彼女は手首にテープを貼っていた。

 生きている感じがする、と彼女は言った。
 血は、鉄の味がした。

 これではいけないと思ったが、どうやって抜け出せばいいのか分からなかった。困り果てた僕は親友に相談した。何か良い案はないかと問う僕に、親友は大真面目な顔で信じられないことを言い出した。

「ふむ、二次元はどうかね。」

「君は彼女と離れたいが、彼女の納得するような合理的な理由がない。他に女を作れば、其方に危害の及ぶ可能性がある。ならば現実から離れるしか。」

 親友は所謂オタクだった。
 口調もどこかオタク的だった。
 そうして僕の暗黒時代が始まった。
 漫画は色々読んでいたが、その筋のアニメやPCゲームには馴染みがなかった。親友は「なるべくドン引きされそうなヤツを」と言ってオススメを貸してくれた。一緒に専門店に行って、それらしいグッズを揃えた。

 一月半ほど過ぎた頃、僕の容貌はかなり親友に近づいていた。

 誘われたその日、僕はひと呼吸おいてから彼女を見つめ言った。

「ごめん。二次元にしか興味が持てなくなった。」

 彼女は目を見開いて唇を震わせたが、数秒後に小さく、

「わかった。」

と呟いた。そう言わせるだけの説得力が、僕の身の回りのアイテムに輝いていた。

「今までありがとう。三次元でごめんね。」

 謝罪しても仕方のないことを、彼女は謝った。

 胸は痛んだが、睡眠不足による頭痛の方がつらかった。以来、彼女と言葉を交わすことはなかった。学年も部活も違う彼女との生活は、夢のように終わりを告げた。

 彼女が急に声優を目指し始めたとか、そんな噂も聞こえたが、僕には想像もつかない未来だった。




◆03◆ 水瓶座の彼女

 
 眠そうな目。
 二度瞬いて気合いを入れる。
 ぎゅっと瞑って見開いて、私は私を確かめる。
 大丈夫。ほら、笑顔。


 10代の頃は自分が周りからどう見られているのか気になって仕方なかった。くっきりした二重に憧れたり、ストレート過ぎる黒髪に悩んだり、痩せ過ぎと言われる度に小さく傷付いたり。体型が目立たないようにフワッとした服装を好むようになった。レースがついていると可愛い。ピンクも良いけど、やっぱり黒と白だよね。
 
 秋葉原アキバは良い街だった。
 自分の好きなことに素直で、他人ヒトに関心の薄いところが最高だった。喫茶店のバイトは天職に思えたし、みんな私の向こう側にいる理想の何かを見ていたけど、それが心地良かった。

 チェキを撮るとインセンティブが入るからってバイト仲間は喜んでいて、でも私は写真が厭いやだった。変な顔。動かない表情に修正を入れたかった。
 
 鏡に視線を戻す。
 いけない。早く支度を済ませないと。

 ファンデーションはいつもと同じ。眉毛も適当でいいや。あんまり濃いのは似合わないし、主役は私じゃないし。アイシャドウは…いつもはピンクだけど、今日はブルーにしようかな。そういう気分だから。ラインは控えめに、でもちゃんと印象に残るように引いておく。睫毛はしっかりしてるから、マスカラは少しで大丈夫。…顔色悪いなぁ。チークも工夫しないと。

 さぁ、顔ができた。
 仕上げにリップを赤く染めて、もう一度、私は私を確かめる。
 大丈夫。ほら、笑顔。

 私は私に、影ひとつない笑顔を向けた。
 鏡に心は映らない。だからきっと、大丈夫。


 幼馴染の結婚式に呼ばれるのは当然で、しかし片想いを続けていた私にとってはひどく苦しいことだった。それにきっと、そこには元カレも来るのだろう。何も知らない幼馴染は、ごく自然に親友を呼ぶに違いない。元カレが数年前に結婚したことはSNSで知った。女の恋は上書き保存なんていうけど、相手がいなきゃ上書きのしようもない。代わりにV系バンドを追いかけて、手に入らない現実に余計な傷を負った。

 ピアスをつけてみた。もし訊かれたら「物に罪はない」とでも言ってみようか。真珠のブレスレットは、些細な傷痕を隠すのに役立つと思う。

 幼馴染と元カレ。
 一日で二人を祝福しなきゃいけないなんて、神様はなんて意地悪なんだろう。

 幼馴染の結婚相手はグラマーな女性で、幸せの絶頂のような彼女の笑顔は、色気のない私を嘲笑うように見えた。
 披露宴の席は、あろうことか元カレの隣だった。席次表を見た瞬間に帰ろうかと思ったけど、一生後悔する気がして踏み止まった。


 笑え。笑え。笑え。

 とびきりの笑顔を見せてやった。

「結婚、おめでとう。」

 さぁ来るぞ。
 何の悪気もない元カレの、分かっているようで鈍感この上ない男の、

 ほら、笑顔。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「結婚、おめでとう。」

 ありがとう、と返して僕は彼女を観察した。

 彼女は渾身の笑顔で僕を祝福してくれた。複雑な感情があるのだろう。今更僕にどうこうということはないだろうが、やはり幼馴染の結婚はダメージが大きいのかもしれない。

 いつのことだったか、親友に幼馴染と結婚しないのかと訊ねたことがあった。

「俺が??ないない。物心ついたときから家族ぐるみの付き合いだし、兄妹みたいなもんだよ。」

 彼は笑いながら否定した。会場の花嫁を見る限り、それは本心だったのだろう。全人類の女性をどのように分類したとしても、花嫁と幼馴染は同じグループにならないような気がした。タイプじゃないんだろうな。僕は記憶の糸を辿っていた。

 水瓶座の彼女は恋愛の当事者には向いていないように見えて、それは今も昔も同じようだった。話し始めると止まらなくなるくらいお喋りが好きで、僕も彼女と話をするのは楽しかった。会話の8割は彼女が自動的に喋っているのだけれど、それで良かったし、それが良かったのだと思う。

 僕が結婚したことを知っていて、幼馴染と僕との関係性から僕が来ることを予測して、それでこのピアスを付けているということに何か意味があるのだろうか。あるかもしれないし、ないかもしれない。彼女の思考は流水のように自由に動き回るから、そこに理論を求めるのはナンセンスだ。サラッと話題に触れてもいいが、ここはスルーして様子を見るに徹することにしよう。元カレとか元カノとか、そうやって名前をつけてしまうと人間関係に絡まる複雑な個別性が損なわれる気がして嫌だった。藤色のドレスは彼女によく似合っていたし、僕は彼女の目の形が好きだった。それは人工的に造られることのない絶妙な曲線美と、独特な奥二重だった。瞳の色は漆黒で、彼女の黒髪と同じ色だった。


・・・・・

 彼女とは中学が一緒で、彼女はテニス部のエースだった。隣のクラスでは接点も少なく入学時から秋まで特に気になることはなかったが、問題は彼女が髪を切ったことだった。

 その日、下校時間に廊下を歩いていると隣の教室から飛び出した人影とぶつかった。ショートカットの黒髪がこれほど似合う人が他にいるだろうか。その瞬間が脳裏に焼き付いて、僕は彼女から目が離せなくなった。切ったばかりの髪型を気にする仕草は愛らしく、ごめんなさいと漏らした声が可憐に響いた。

 一目惚れだった。

 休みの日、僕は無謀にも彼女を呼び出した。正確には連絡先なんて知らなかったから、彼女の友人に呼び出してもらった。僕は彼女が現れるやいなや、単刀直入に交際を申し込んだ。駆け引きも何もない、中学生男子の暴走である。当時を思い出すと身の悶える心地だが、勇気を振り絞って好意を伝えたという一点においては、自分を褒めようと思う。

「え…?」

 彼女は当惑していた。何が何だか分からないといった表情で、あの、とか、えと、と言葉を探している様子だった。僕は明確に好きだから付き合ってほしいと言った。ろくに話したこともない相手から前触れもなくそんなことを言われたら、恐怖以外の何物でもないだろう。

「あの、ボク鴨田君とあんまり話したことないし」

 恋愛経験ゼロの僕にも、それが振られるときの枕詞だと気付いた。緊張してカラカラになった口の中が熱くて怖くて、それでも逃げ出したい気持ちを必死に堪えた。

「その、友達から、少しずつ………お願いします。」

 予想外の言葉が続いた。

 何が功を奏したのか分からなかったが、それは拒絶の言葉ではなかった。彼女と連絡先を交換して、それぞれの家に帰った。僅か数言交わしただけで、僕は胸の高鳴りを抑えられないでいた。

 彼女の一人称が「ボク」だったことは、僕の性癖を少し歪めた。

 それから毎日メール交換するようになった。他愛のないことを送り合って、件名の「Re: Re: Re: Re: Re…」が勢いよく伸びた。一通や二通で済むはずがない。毎日数十件のメールを交換した。彼女からのメールと着信の時だけ赤色に光るように設定しておいて、そのフォルダにあるメールの件数は全体の7割程を占めた。それが楽しかったし、いつまでも話題が尽きることはなかった。

 彼女との交際は健全なものだった。多くの時間は友人のような付き合いで、少しだけ距離の近い関係性が続いた。一緒に映画を観に行くこともあったし、祭りに行くこともあった。

 繋いだ手の特別な質感は、触れて触れられる信号を神経に刻みながら僕の人生に色彩を与えた。

 その色彩は僕の生存を赦した。
 ただそれだけのことで、明日が約束された。

 別々の高校に進学することが決まって、すれ違うことが増えた。メールの回数が減って、空虚な時間が増えた。環境が変わると其々の生活の差異が際立つように見えて、彼女は部活が忙しくなったし、僕は勉強が忙しかった。僕のそれはただの言い訳だったような気もするけれど、彼女は純粋にテニスをしていたんじゃあないかと思う。

 別れ話をしたかどうか、よく憶えていない。自然消滅のような形だったかもしれないと、僕は他人事のように振り返った。

・・・

 彼女は相変わらずテニスに明け暮れているそうだ。高校在学中に日商簿記2級を取得して、専門学校の卒業後に医療事務職に就いたことも知った。数学は克服したのかと訊ねたら、いつの話だよと笑われた。算数は得意だぜ、と彼女は胸を張った。

 二次会の出し物で踊る花嫁たちを見て、彼女は急に大人しくなった紅蓮のドレスに身を包み扇情的に踊る花嫁を凝視しながら、彼女は静かに細長い溜息をついた。

「…やっぱり色気がないからかなぁ。」

 そう呟いた彼女の横顔には、艶やかな魅力があった。橙色の照明が薄暗い会場の中で揺れて、それは夕暮れのようだった。いつかの放課後に恋した光景が甦り、その横顔に重なった。

「色気あるじゃん。めっちゃ可愛いし。」

 素直な感想を伝えると彼女は目を見開いてから此方を睨んだ。瞬間、会場の喧騒が凪いだ気がした。

「もう!またそーゆー適当なこと言って!」

 弾ける笑顔が眩しくて、もっと見ていたいと思った。解散して駅まで歩く途中、僕達は手を繋いだ。

 繋いだ手の特別な質感は触れて触れられる神経の記憶を呼び覚まし、僕の視界に色彩を与えた。

 その色彩は僕の生存を壊した。
 ただそれだけのことで、駅に着いて別れた。

 後には何も残らなかった。




◆04◆ その後輩、眼鏡につき


 「東洋哲学に興味があるんです。」

 そう言って彼女は微笑んだ。
 部活の忘年会を終えて、解散して二次会の席だった。こういう話は普段あまりしないけれど、と前置きしてから、彼女の瞳は僕を映した。

 ショートカットの黒髪は艶やかに整い、それと同じくらい漆黒の縁の眼鏡は彼女の個性を際立たせていた。仄かに上気した頬を見て、酔っているのだろうと思った。膝が右手に触れるほど近付いて、僕はそのまま左手のグラスを空けた。

 「家で飲み直そうか」と言いそうになって、直感がそれを妨げた。この黒髪は危険だ。きっと引き返せなくなる。どこまでも沈む海溝のように深い闇を、同時に何人も抱えるのは正気の沙汰じゃない。

「義務教育に哲学を取り入れるべきだと思う。」

 僕は努めて哲学の話を振った。道徳の授業への疑問だとか、基本的な思考力の問題だとか、西洋哲学の生きづらさや宗教の不完全さについて話し合ってから、東洋哲学は是非学んでいきたいものだという結論に至った。

 二次会の終わる頃、後輩は「まだ話し足りない」と言った。たしかに彼女との会話は弾んでいたし、近過ぎた吐息はいつの間にか一定の距離を保っていた。

「先輩、ウチで飲み直しません?」

 僕は二つ返事で了承した。哲学研究の前に、道徳は無力だった。それが知的好奇心なのか痴的好奇心なのか、最早どうでもよかった。これだから男は、なんて主語を大きくするつもりはない。これだから僕はダメな奴なんだと自虐しよう。

 彼女の家は会場からそう遠くなかった。コンビニに寄ってから部屋のドアを開けるまで、会話らしい会話はひとつもなかった。ドアを開けると仄甘い香りがして、酔いの所為だけではない動悸を感じた。暗い廊下の突き当たりがリビングなのだろう。

「ちょっとだけ。ん…待っててくださいね、すぐ片付けますから。」

 彼女は眼鏡の曇りを拭いて、コートを脱ぎながらそう言った。僅かに低音で芯のある彼女の声が、暗い部屋に響いた。

 他愛のない世間話から始まって、話題は再び東洋哲学に移った。輪廻転生の解釈や真意について話していると、不意に彼女は眼鏡が当たるほどの距離に詰めてきた。なに、と訊ねると視線を外した彼女は耳元で囁いた。

「私、知性に興奮するんです。先輩は、すごくイイです。」

 もっと話しましょう、と言って彼女は部屋の灯りを消した。凡そロマンスとはかけ離れた話をしながら、彼女は抑えきれない様子で僕の上に乗った。彼女が異常に興奮していることが僕にも分かった。コンビニの袋に手を伸ばそうとした僕を制して、彼女は少しだけ声を荒げた。

「あんなの要らないですよ。私は先輩の遺伝子に興味があるんだから。」

 彼女は危険だという僕の直感は当たっていた。社会通念とか常識というものより、自分の思考と情動に従って生きているのだろう。それは真理の探究と刹那的享楽の境界だった。

 付き合うとか付き合わないとか、彼女はそういう次元には居なかった。時々飲みに出掛けて小難しい話題に花を咲かせては、肌を重ねた。その関係性は僕が卒業する直前まで続いて、それっきり彼女と会うことはなかった。引越しの前、彼女に別れを告げた。巡り合わせが良ければまた会おうと言葉を交わして、しかし二度と会うことのないような予感がした。彼女はそれを予期したのか、屈託のない笑顔をみせてくれた。

「先輩はきっと自分が気に入った言葉とかをメモしておいて、いつか文章を書いてるんじゃないかなーって。ふふ。勝手に思ってます。」

 もう一度、彼女は微笑んだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 彼女の予言したように、私は文章を書いている。日常の気づきや出会った言葉をメモしておいて、渦巻いた思考を文字に降ろしていく。今でも黒縁の眼鏡を見掛けると、後輩のことを思い出す。

 さて、今日の祈りはどこに向かうだろうか。





◆05◆ ブラコン彼女とフェティシズム


「お兄ちゃんのサークルのところに妹が顔を出すのって、変かな?」

 大学の学園祭まで遊びに来ておきながら、彼女は不意に僕に尋ねた。

「別に、普通だと思うけど。」

 わずかな緊張を帯びた不安そうな声も小動物のようで堪らない。そんな感想を抱きながら何でもないことのように僕は応えた。

「鴨田氏が言うなら大丈夫かなぁ…うん。いってみよう。」

 彼女は重度のブラコンで、僕は声フェチだった。おそらく彼女は実兄のことを想いながら、兄属性のある僕に彼の面影を重ねていたのだろう。彼女の瞳が僕の向こう側に実兄を見ていたとしても一向に構わなかった。ただ近くで彼女の声を聴くことができれば、僕の耳は幸せだった。

 同じクラスになった初日、自己紹介で彼女の声を聴いたときの衝撃は忘れない。名前と部活くらいのシンプルなものだったが、わずかに鼻にかかる独特の高音域なアニメ声は僕の心にクリティカルヒットした。

 恩田陸の本がきっかけで会話を交わすようになって、ほどなく彼女の悩み相談を受け始めた。友人関係のこと、進路のこと、兄のこと。やがて交際に発展するのは自然な流れだった。


 お兄さんのところでじゃがバターを買って、木陰のベンチに座って2人で食べた。10月だというのに日差しが強くて季節感が迷子になった。今日も実に可愛い声だね、と言うと、彼女はグッと顔を近づけて悪戯っぽく微笑んだ。

「可愛いのは、声だけ?」

と僕に訊ねた。返事の前にキスを交わして、少し考えるフリをしてから、

「声だけ。」

と応えた。ひどいなぁと言いながら、彼女は嬉しそうに笑った。


 大学に進学すると、次第に彼女とは疎遠になった。愛は距離を越えられない。大学には良い声の持ち主がたくさんいた。彼女の方も大学のサークルで新しい恋人ができたようだった。


 最近になって共通の友人から彼女の近況を聞いた。遠方で結婚して、子どもも生まれたらしい。

 お祝いでも伝えようかと連絡先を開いて、何か違う気がしてすぐに閉じた。思い出は記憶の中に留めておいたほうがいい。収まりのつかない親指をスマホの画面に滑らせて、僕はnoteを開いた。

 今、思い出したことを書いておこう。

 タイトルは、

 『ブラコン彼女とフェティシズム』だ。





◆06◆ カナリアの追憶

 
 昼下がりの生徒会室。
 穏やかな日差しがカーテン越しに室内を照らし、窓の隙間から香る新緑と土の匂いが心地良かった。

 不意に背後から覆い被さるような柔らかい温かさを覚えて、僕は文庫本の頁をめくる手を止めた。

 「ねぇ、カモちゃん。」

 耳元に響いた仄甘い声は、背筋を通って僅かに椅子を振るわせた。

 「なに読んでるの?」

 右頬に触れるほど近付いた彼女の横顔を視界の端に感じて、鼓動が加速するのを隠すように伸びをしてから僕は短く応えた。

 「カフカ。あと近いよ、陽奈ひな。」

 彼女とは小学校が同じでよく一緒に遊び、中学に入ってからも同じ部活に所属して、生徒会に至るまで動向が一致する稀有な存在だった。

 「うえぇ…カフカ?暗いなぁ。私ニガテ。」

 カフカと聞いて苦手と言えるくらいには、彼女もまた読書家だった。僕は生徒会長で、副会長の彼女と過ごす時間は自然と長くなっていた。陽奈は軽やかに身体を離すと近くの椅子に腰掛けて、ぐぐっと腕を伸ばして上体を反らした。
 そんなに反るとヘソが見えるし、制服のスカーフのあたりの膨らみが目立

 「いま見てたでしょ。」

 急に姿勢を戻して屈んだ彼女と目が合った。
 中学生男子の視線制御能力の低さを舐めないでいただきたい。どんな言い訳をしようかと考え始めたところで、彼女の纏う雰囲気が緊張を帯びていることに気付いた。

「ねぇ、私達って付き合ってる?」

 思えば合宿での一件以来、妙に距離が近かった。
 僕は好きだと思えばハグくらいするし、雰囲気が良ければキスもする。それが相手によっては一線を越えていることなのだと、当時の僕はあまりよく分かっていなかった。
 僕は回答に逡巡して、どう思う?と訊ねた。

「えぇっ。…ズルい。」

 関係性に名前をつけるのは苦手だった。
「付き合う」が特定の恋人に使う言葉だとしたら、僕は彼女の他に付き合っている子がいた。その子は彼女の友人だったと思うけれど、何も聞いていないのだろうか。

「付き合ってるって、噂になってるみたいだよ?」

 その噂を流しているのは誰かね。勝手な噂を流されると身動きが取りづらくなるのだけれど。
 そうなんだ、と応えて彼女の目をじっと見てから、手元の文庫本に視線を戻した。そうして何でもないことのように、悪くない噂だね、と言った。

「…カモちゃんのバカ。」

 陽奈は微かに震えた声を残して、生徒会室を立ち去った。
 好きか嫌いかでいったら勿論好きだったし、恋愛感情がなかったわけでもない。ただ、陽奈とそういう関係になるのは、何か少し違う気がしていた。

 その後も生徒会の任期を終えるまでに彼女とはなんやかんやあったけれど、卒業後の進路も異なり、次第に連絡も取らなくなった。

・・・

 以来会うことのなかった彼女と、8年ぶりに会うことになった。それは同窓会という名の奇妙な集まりで、十数名のうち男は2人だけだった。
 彼女の薬指には綺麗な指輪が輝いていて、ひと回り年上の紳士と結婚したと嬉しそうだった。

「ねぇ、美紗みさと付き合ってないの?」

 8年前と変わらないノリで、彼女に声をかけられた。それは当時の話で、紆余曲折あって今は全然違うところで…と説明するのも面倒なことになりそうだったので、付き合ってないよ、とだけ応えた。嘘はついていない。

 彼女は大きく溜息をついて、

「なぁんだ。カモちゃん、美紗のことが好きなのかと思ってたのに。」

と言って笑った。

 一瞬、もの寂しい表情が見えた気がしたけれど、それは僕の方の問題かもしれないと思った。
 その寂しさを恋と呼ぶとしたら、僕はたしかに、あのとき彼女に恋をした。





◆07◆ 雪の降る夜に


「先輩は付き合ってる人がいるからダメだよって、言ってるんですけど。どうしても紹介して欲しいって言ってる子がいて…お話だけでも。」

 話をするくらいなら、無碍に断るのも後味が悪い。
 逆恨みされるのも厄介だから、こういうときには会っておいたほうがいいだろうと僕は思った。講義の後なら時間があると返答して、悪い気のしていない自分の性分に溜息をついた。その名前に聞き覚えはない。学年も学部もサークルも違うというのに、どこかに接点はあっただろうか。

 講義が終わって人気ひとけの少ない講義棟の一画に向かうと、後輩の隣に緊張した面持ちの黒髪ロングの人影が直立していた。艶のある漆黒の髪で、毛量も多い。僕は危険な香りを感じ取った。

「は、はじめまして。白鳥しらとりユキです。一目惚れです!」

 端的が過ぎる。
 一切無駄な情報の含まれない自己紹介と告白は見事だった。冒頭に初対面の挨拶を据えてから堂々と名乗り、流れるように好意と理由が述べられた。

 5秒未満の告白は、私の興味を掻き立てた。

「ありがとう。それで、どうする?」

 彼女は目をぱちくりさせて、唇を開きかけたかと思ったら直ぐに固く結び、少し俯いて赤くなった。先程の勢いは何処かへ消えてしまったようだった。
 食事でもしようかと提案すると、彼女はハイィイ!とキーの外れた返事をした。今日何か予定はあるかと訊ねたら、俯きながら首を激しく振った。艶やかな黒髪が大きく揺れて、夜の海に打ち寄せる波のように見えた。

 外に出ると日は暮れていて、街灯に照らされた吐息が橙色に染まった。
 
 格式高い店は居心地が悪いかもしれない。僕は無難なイタリア料理店に電話をかけた。当日だが席は空いていた。適当なワインと前菜を注文してから、僕は彼女の話を聴き始めた。

 学園祭で見かけたのがきっかけらしい。特に目立つようなことをした覚えはなかったが、サークルの出店を通りかかったとき、ラーメン屋のようなノリで威勢良く接客する僕の姿に電撃が走ったと彼女は言った。やはり普通の感性の持ち主ではない。



 雪が舞っていた。


 卒業を目前に控えた頃、後輩から彼女にもう一度に会ってくれないかと声をかけられた。断る理由はない。了承すると、待ち構えていたように物陰から彼女が現れた。いたのか。

 手渡されたのは小洒落た紙袋だった。開けると、綺麗な植物標本ハーバリウムがあった。手作りだろうか。手作りだろうな。植物を内包するガラス瓶は、両手にズシリと収まった。

 部屋に飾ると、それは妙なオーラを放った。
 特に目立つ紫色の小さな花。それは立浪草タツナミソウだった。 


 


 花言葉は「私の命を捧げます」。





◆08◆ 行方不明


 途中まで書いたところで、ひとつの疑問が脳裏に浮かびました。そもそも恋愛の根底には一体何があるのでしょうか。多様化する性社会の中では、生殖の為とは限らない恋愛が確かに存在しています。

 カッターナイフの彼女は人生を苦しみに満ちたものと理解して、それと同時に増え続ける人類が星を壊そうとするのに耐えかねて、反出生主義を貫きました。鮮烈な自己否定の彼女は、しかし甘くて狂おしい恋愛を渇望していました。それは本能に敗北した自己矛盾というよりも、生物というプログラムに挑戦する反定立だったのかもしれません。

 恋とか愛の、もっと言えば好意の源泉は何処にあるのでしょう。好かれるから好きになるという心理現象はあれども、勘違いから始まる恋ばかりではありません。人を好きになるということと、人を嫌いになるということは、なにか隔絶的な違いがあるような気がします。

 私の初恋はいつのことでしょう。

 フェティシズムを擽る理想的な声と出会ったのは小学4年生の春でした。しかしそれは芸術作品を愛でるような感覚に近いもので、その音を発する人間の方にはあまり興味がありませんでした。

 すると、やはり初恋と称するに相応しいのは水瓶座の彼女かもしれません。あれは中学1年生の秋でしたから、恋の源流を考察するにはそれより過去に遡る必要があるでしょう。

 私は「いい子」であろうとしました。
 そうなったのは何時からだったのか、忘却の彼方の記憶ですが、少なくとも小学1年生の頃には「いい子であろう」とする脅迫的な観念が私を追いかけていました。大人たちの満足する「正解」を探して、模範的な解答を出すように努めました。

 今でも何か書こうとして目の前に白紙があると、どうしていいかわからなくなります。
 小学1年生の夏休みの宿題の「絵日記」で、たった1日分描けば良かった「絵」と「文章」のための空欄を前にしたときに、私の恐怖症は始まりました。

 なにもかけない。

 小学校にあがって様々な「正解」を目指す数ヶ月を経て、私は絵の描き方を忘れてしまったようでした。就学前にはもちろん描いていたはずですが、どうにも何を描いたものか、その真っ白な紙を前に思考が止まります。

 プールに行った時のことを書こうかと鉛筆を握りましたが、最初の一文字が、あるいは絵の描き始めが、とてつもなく高い障壁に感じられました。見えない腕に掴まれているように微動だにしない右手は汗をかいて、鉛筆が手の中で僅かに滑るのを感じました。

 白い紙の前で鉛筆を片手に固まっている私をみかねた父が、押入れから色褪せた絵日記を取り出しました。それは父が小学生の頃につけていた絵日記です。結婚したときの父の荷物は段ボールひとつ分だけだったといいますから、ミニマリストの父が段ボールひとつ分のスペースに保管していた、大切な思い出の品でしょう。

 昔の父の文字や絵は、とても印象的でした。楽しいような、寂しいような、不思議な雰囲気がそこにはありました。こうやって書けば良いのかもしれないと、私の心は幾らか楽になりました。

 勇気を出して再び白紙に向かいます。父の絵日記を思い出しながら、自分の言葉で文を書いていきます。どうにか書けて、次いで絵を描きました。どんな絵を描いたのか、今でも鮮明に憶えています。
 小学1年生には似つかわしくない、小さく描かれた人間と広大なプールのイメージでした。私がどうにか宿題を乗り越えたと少しほっとしていたところに、激怒したのは母親です。

 今振り返っても全く意味が分かりませんが、そのとき私はひどく怒られました。「こんな絵は小学1年生らしくない」だとか、「これを先生にみせるつもりか」とか、終いには「父親アナタが変なものを見せるから、この子が変な絵を描いたんだ!」とか、そんな罵声が響きました。

 私が何よりも悲しかったのは、父の宝物が平然とバカにされたことでした。段ボールひとつ分の人生に大切に仕舞われていた絵日記です。

 どうしてそんなひどいことを言えるのか、私には理解出来ませんでした。続く父と母の激しい口論は、私の心に傷を残すのに十分な出来事でした。
 他にも色々あった気はするけれど、6歳以前の記憶は殆どありません。

 それが「白紙に対する恐怖症」と気づくと、対処法が見えてきます。白紙でなくなれば恐怖も薄れます。脳内に書くものが浮かんでから、ページを開いて直ちに書き始めることで、ある程度は恐怖と対峙できるようになりました。

・・・・・

 青空。
 小学校高学年の頃のことです。

 自分の好きなものよりも親の期待するものを欲しがり、先生から「お願い」されて嫌いなクラスメイトとも仲良くしました。期待の道に沿うように、その道を決して踏み外さないように、慎重に慎重に歩きました。
 そうこうしているうちに、自分が何を好きで、何を嫌いなのか、わからなくなってしまいました。「好き」の行方不明です。

 「今日の夕飯は何を食べたいか」と訊かれても、何の感情も湧きません。母の期待する解答を推定して、たとえば「ハンバーグ」と応えてみます。母が嫌な顔をしたり溜息をつきながら冷蔵庫を開け閉めしたら、私は即座に「あ、やっぱりシチューとか、カレーがいいかも。」など答えてみます。正解したら質問から逃れられます。そのうち料理の名前も思い浮かばなくなって、「分からない」「なんでもいい」と答えることが増えました。

 裕福でなかった少年時代と変わって、父が独立してからは、その収入の多くを私と妹の「習い事」や「教育」に投資してくれたのだと思います。母は必死の形相でした。音楽のひとつでもできないと困るといってピアノを始め、英語ができないと困るといって英会話教室に通わせ、絵が描けなきゃ困るといって絵画教室に、病弱な身体が強くなるようにと水泳教室に私を通わせました。何が困るのかよく分かりませんが、私に「ふつう」より出来ないことがあると、積極的に習い事やら何やらに連れて行きました。

 ピアノは好きだったような気がしたけれど、次回のレッスンまでに練習しなければいけない「ノルマ」がたくさんあって、それができるようになるまでピアノの部屋に外側から鍵をかけられました。それはひどく苦痛な時間でした。

 母が私の気持ちを聞くときは決まって誘導尋問に近く、私は模範解答を出し続けました。当時を思い出すと「そうでしょう、母親である私があなたのことをいちばんよくわかっているのよ」という気持ち悪い笑顔が脳裏に浮かびます。

 齢十かそこらの私はもう何も分からず、ただ毎日のノルマをこなします。自分は何が好きなのか何が嫌いなのか、すっかり分からなくなっていました。

 私は縋るような思いで「好き」を探しました。

 ある日、合理的な理由もないのに習い事を休んで友達と遊びに行ったときのことを鮮明に憶えています。タツヤ君とマコト君は快く私を迎え入れてくれました。小学校の周りで走り回ったり、缶蹴りをしたり、他愛のない話をして笑い合いました。200円を握りしめて駄菓子屋に行って、ビッグカツとラムネと、10円ガムを買いました。

 ブランコに乗って話をしているときに見上げた青空が綺麗で、涙が出ました。

 自分は美しいものが好きだ、と。
 やっとそれだけ見つけました。

 それが本当に嬉しくて、暗くなる前に帰るという母との約束を破って、マコト君が帰った後も自動販売機の灯りの中で、タツヤ君と会話を続けました。

 鬼の形相の母に腕を掴まれて家に帰ることになろうとも、私にとってかけがえのない時間が、そこにありました。

 美しいものが好き。では自分は何を美しく感じるのかということを手掛かりに、私は行方不明になった「好き」を再び集め始めました。希望はいつだって、感情の発露から生まれます。


 思えば私は、そんなことがあってから好きという感情に正直に生きるようになりました。


 もうひとつ、想起した話を書きましょう。




◆09◆ 涙の色


 合鍵を使って部屋に入ると、薄暗い部屋にカーテンの隙間から西日が差していた。奥の部屋に敷かれた布団に、彼女はただ呆然と寝ていた。
 近付いても微動だにせず、焦点の合わない視線を天井に向けて、時々瞬いては涙が頬を伝った。

「ただいま。」

 なんでもないことのように平坦で、しかし優しさを込めた言葉を取り出して彼女に触れた。今日はどうしたの、と聞いてみた。大学の講義を欠席した彼女の回答は、思わぬ方向から返ってきた。

「…トイレに、行きたいの。」

 掠れた声で彼女が言った。

「でも、起き上がって、トイレ、まで歩こうって、そういう気持ちに、なれない。どうしても、やる気、が、でない。かなしく、なって。どうしよう。」

 文節に区切りながら、言葉は慎重に選ばれた。
 彼女は鬱病だった。
 今日は一日中、布団で天井を見ていたらしい。

 原因をひとつに特定することなどできないが、強いていえば幾つかの人間関係のストレスが影響したように見えた。モラルハラスメントで彼女を追い詰めた元彼のことも、気に入らないからという理由で彼女をいじめた同級生たちのことも、僕にはとても赦せそうになかった。彼女の苦悩は鬱病よりも適応障害だったのかもしれないが、病名はなんだって良かった。ただ理不尽に苦しむ彼女を前にすると、僕は居ても立っても居られなかった。

 繊細で美しい彼女の心を、そっと隣にいて護りたいと思った。賢くて優しくて人の為に生きる彼女は、幸せにならなければいけない人だと誓った。

 彼女は、幸せにならなければならない。

 彼女は奨学金とバイトで学費と生活費を捻出していた。働けなくなってからは、貯金を切り崩していたらしい。

 「おかねがない」

 そういって受診を拒んだ彼女を、引き摺るようにして病院に連れていった。薬は少し心を落ち着けたが、多彩な副作用を巻き起こしては却って彼女を苦しめた。

 誰にも言えず、誰にも言わず、僕達は戦った。

 ただの一度も僕は逃げなかった。



 2年の闘病生活を経て、彼女は廃薬に成功した。

 彼女の笑顔をみて、僕は初めて泣いた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 「幸せだなぁ」

 懐かしむように彼女が言った。

 「幸せだねぇ」と僕は返した。

 子ども達の笑い声が、家の中に響いていた。






 記憶の糸を解す作業は存外に疲労するものでした。酔いを覚まそうと冷蔵庫から取り出したレモネードが、壊れた脳に爽やかな酸味を送ります。

 人生は数奇なものです。ほんの僅かなタイミングの差異や小さな選択の積み重ねが、歩む道程を大きく変え得るのでしょう。もしも、なんて酔狂な世界を創造する趣味はありません。

 ただ夜更けの静寂が、耳を恐怖に誘います。

 彼女は、幸せにならなければいけない。

 そう決めた私は、あれからも彼女の隣を歩き続けました。浮き沈みを繰り返しながら進む彼女の隣を、その笑顔が枯れることのないように、ずっと。

 黙ってサンドバッグになれと怒鳴られた夏も、愛情を感じられないと家から閉め出された冬も、私は堪えて生きました。日毎に傷が増えて、それを隠すように絆創膏を貼りました。頭部外傷で入院したときには、隠しきれないと思いましたが、適当なストーリーを述べて事なきを得ました。誰にも言うなと云われたら、私にはこうすることしかできません。

 恋と愛の境界線は、何処にあるのでしょうか。

 恋焦がれた熱量は絶え間ない炎の後に結晶を残して、今静かに鼓動を走らせます。深く深く沈み行く先に見えるものを、愛と呼ぶのかもしれません。然らば私を縛るこの感情は、きっと愛なのでしょう。

 彼女は、幸せにならなければいけない。

 彼女の幸せに、私は必要でしょうか。私の幸せに、私は必要ありません。ただ彼女が幸せでいられたら、私にはそれで十分です。子どもたちのことは心残りですが、彼らはきっと強く生きていくでしょう。私にできる精一杯の愛情を示してきたつもりです。息子にも、娘にも、そして妻にも、一切の責任はありません。これは私が考え抜いた末に出した結論で、私の最後の我儘わがままです。

 手厚い保障がありますから、家族が生活に困ることはないでしょう。失踪してしまうと処理が出来ませんので、分かる形にしないといけませんね。仕事のことはどうとでもなると思います。暇な部署に異動することが叶いましたから、一人くらい欠けても業務が滞るようなことはないでしょう。

 事前に公開するような女々しい真似をするつもりはありません。気を引くための行為の虚しさを、私は散々目の当たりにしてきましたから。予約投稿でもしようかと思いましたが、事件性を疑われると面倒なので止めておきます。

 彼女は、幸せにならなければならない。

 3回も唱えれば十分でしょう。言葉は呪いのように私の身体に浸透していきます。反響する言霊は幾重にも結ばれて、後戻りのできない現実を嗤います。

 心拍数が増えるのを感じます。胸が苦しいような気がします。本当にそれでいいのか。感情の残滓が最後の抵抗を試みます。疾うに狂った理性の尺度は暴走の極地に至り、間違いだらけの演算結果を何度も何度も私に刷り込みます。恐怖も後悔もあるけれど、それはきっと瑣末なことでしょう。

 ただ、痛いのとか苦しいのは厭ですね。眠るように。そう、眠るように幕を引くのが理想です。私にはそれを実行できるだけの知識も技術もありますから、そう難しいことではありません。

 愛情が憎悪に変わる前に、私を壊す世界の狂気が最後の色彩を奪う前に、星に別れを告げましょう。



 拙文に最期までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、貴方の日々が幸せを纏い、その人生が暖かく続きますように。






 遺品整理をしているとき、主人の机に原稿があるのに気が付きました。どうして自分で投稿しなかったのか。私に対して罪悪感のようなものを感じていたのかもしれません。客観的事実がどうであれ、主人の主観的事実が彼自身を苦しめていたことは明白です。

 私は懺悔したいのでしょうか。

 こんなことを書いても仕方ないのは分かっています。ただ、彼の変化に気付かなかった自分が悔しいのです。子どもたちは夫が居なくなったことを、いまだに受け入れ難いようで、毎日彼の帰りを待っています。パパは?と問う無邪気な顔に、私は何と答えたら良いのでしょう。

 どうして。

 そう考えずにはいられません。
 何がいけなかったのか。何かいけなかったのか。混乱する思考の出口は見えませんが、いっそ彼の原稿を此処に公開しようと思います。これは私だけに向けられた文章ではありませんから、そうする方が自然でしょう。もしも何処で誰かの目に触れて、何かの役に立つことがあれば、それは彼の幸せかもしれないと私は思うのです。

 私の声は届かなかったから、せめて僅かな可能性に賭けてもいいでしょう?

 私に霊感はないけれど、何処かで見ていてくれますか。あなたのいない灰色の世界が、本当に幸せに見えますか。

 『幸せにならなければならない』なんて、幸せってそんなに難しく考えることですか。歯を食いしばって眼を見開いて、歪んだ口元から溢れるような、幸せってそんなに苦しいものですか。

 『誰かを幸せにしたいなら、まず自分が幸せになる方法を考えることだ』って、いつも言ってたじゃないですか。『君の幸せが俺の幸せ』だなんて、そんな自己犠牲の先に私の幸せはありません。主観とか客観とか云うのなら、幸せには主観しかないはずでしょう?

 あなたの幸せが、あなたの幸せです。

 後悔してください。やり直せるものなら、今すぐやり直してください。お願い。帰ってきて。

 この手紙に宛名は書きません。

 自分の書く記事はボトルメールのようなものだって、いつかあなたが言ってたから。何処かで誰かの役に立つかもしれないんだって、少年みたいに目をキラキラさせながら、自分の得にならないようなことを一生懸命やってたよね。あなたのそういうところが、私は大好きでした。あなたみたいに上手な文章は書けないけど、どうしても伝えたくて、どうしたらいいか分からなくて、あなたの真似をしながら文章を書いています。似てるかな。変なところがあったら、遠慮しないで直してね。



 ありがとう。ごめんね。




 どうか、あなたに届きますように。



ー了ー


(20530字)



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