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成人教育は難しい話 ー『1mm』の余裕ー

 研修医の指導をしていると、色々な人がいることに気づきます。挫折を知らずに生きてきたような人もいれば、苦労に苦労を重ねてようやく医者になったような人、はたまた別業界で働いてから一転して医学部に入学して医者になるような人もいます。共通しているのは、みな成人であり、しかし研修医ですから、私たちはこの「成人」を教育せねばならないということです。

 数ヶ月前にローテートしていた研修医で、1年目とは思えないほど優秀なドクターがいました。私はこれでも結構シビアに見ていますから、本当に優秀だったと思います。黙々と仕事をしながら、ただ事務作業として流すのではなくて、ひとつずつ丁寧に考えているんですね。この患者さんの身体に何が起きているのか、診断は何で、どうしてその診断になって、では治療はどうするのがよいか。研修医の1年目は仕事を覚えるのに精一杯で、普通そこまで気が回りません。もちろん完璧にできるわけではありませんが、その荒削りな姿勢の中には、たしかに患者さんという「人間」にしっかり焦点が合っていて、一生懸命考えて、勉強して、たとえ新卒だろうが「自分」がこの診療に関わるんだ、という気概を感じました。

 こういう研修医は確実に成長します。

 気概があってもセンスが乏しいと実際には成長に時間がかかって厳しいものですが、彼には臨床センスもありました。初期臨床研修人気病院ランキングに名を連ねる施設で研修医を指導していた時期もありましたが、そういう場においても20人に1人か2人くらいの稀有な素質と考えます。
 呼吸器内科医にも高い適性があるようにみえましたから、是非一緒に仕事ができるようになるといいなぁと思いながらふんわりと勧誘しています。

 さて、こういう「素質」と「気概」のある研修医ほど、教育は難しい。
 やる気のない研修医や普通の研修医が相手なら、「いわゆる成人教育のセオリー」みたいなものが通用します。褒めて、フィードバックをかけて、自学自習のやる気を促す。わりと簡単です。
 しかし稀に遭遇する「優秀な研修医」相手には、こちらも本気で対峙しなければなりません。油断するとすぐに教育者の側が見限られてしまうのです。

 もう10年ほど経つでしょうか。
 2年ほど担当していた肺がん患者さんに「少しいいかしら」と声をかけられました。入院回数も多くなり、使える薬を使い切ったその人は、折れそうなほど痩せた身体をゆっくり起こして、しかし力強い眼差しを私に向けて言葉を紡ぎます。

「先生、頑張り過ぎてない?」

「後輩に教えなきゃって、思ってるんでしょう」

 驚きました。その人の前では、特に後輩に指導している様子をみせたことはないし、回診を一緒にまわるくらいでしたから、どこからそう感じたのか分かりません。しかし、後輩も少しずつ増えてきて、研修医に比較的近い学年ということもあった私は、確かに頑張って後続を育てようと躍起になっていた時期でした。

「1ミリ。ほんのちょっとでいいから『余裕』を忘れないで。
それが先生の持ち味。あまり気を取られないで、患者さんに集中したらいい。
その姿を見せればいい。自然とついてきてくれる。いい?『1ミリ』よ。」

 それが彼女との最後の会話になりました。

 思えば育てようと躍起になって、自分の余裕なんて考えもしませんでした。多忙な臨床業務の中に「教育」を取り入れるのは容易いことではありません。いつの間にか精神的に追い詰められていた私を、その人は数分の会話で救ってくれました。

 以来、私は軽やかな気持ちで後輩や研修医と関わることができるようになりました。成人教育の基本理論は取り入れつつ、あまり頑張って教えないように肩の力を抜いています。

 「子どもは親の背中をみて育つ」といいますが、仕事もそうだと思います。

 言葉よりも行動が伝わります。上級医として「医師」のなんたるかを自分に問い続け、理想の医師に近づくように働く姿を見せることが、私にできる「教育」です。まだまだ理想には程遠いものの、幸いにして慕ってくれる後輩たちにも恵まれ、仕事を続けることができています。後輩(あるいは部下)は自分を映す「鏡」です。それをみて私は私に気づき、私自身もまた成長していきます。
 これは「共育」でしょうか。

 忙しくなると、彼女の『1ミリ』を思い出します。

 彼女の笑顔と宝物のような言葉は、私の中に生きています。

 今日も私は『1ミリ』の余裕を保ちながら、ただ患者さんに集中します。


 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の心に『1ミリ』の余裕が生まれ、その魅力が益々輝きますように。


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