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破天荒な師匠の話

 私に漢方医学の手解きをして下さった老齢の師匠との出会いは、私が小学生の頃の出来事でしたが、老師は齢90を超え隠居しておりますから、ここでは研修医時代から師事している破天荒な師匠の話をいたしましょう。

 初めて師匠せんせいに会ったのは医学生時代の講義でした。漢方医学を取り扱う講義に現れたその人は、作務衣さむえに下駄を履いた無精髭の似合う仙人のような風貌でした。仙人と呼ぶには若く底知れぬ覇気のようなものを感じましたが、兎も角、俗世とは異なる次元に生きているように見えました。

 元より漢方医学を修めようと考えていた私は、この奇妙な風貌の男性が一体どのような講義を始めるのか、固唾を飲んで待ち構えました。

漢方ってのは難しい。
ちょっと授業でやったくらいじゃ分かるようにはならん。
あと漢字が多い。それで難しい。
だからまず読めるようになること。今日はそれだけ。

医学生ポカーン

 彼はそう言うと百数十種類の基本的な処方名について、順番に読み上げていきました。読み終えると、講義の時間は随分余っていましたが、彼は満足そうに私たちを見回すと、「終わり」と言いました。

質問のある奴はここに来てもいい。まだしばらくいるから。特に質問のない学生は、部活でも遊びでも自由にしろ。今しかできないことがあるだろ。以上。

今こんな先生いないと思う

 少し戸惑いながらも学生たちは次々と退席していきます。漢方医学自体がマイナーな分野であることに加えて、奇妙な風貌で不可思議な講義をする変人に近寄る人は少なく、それでも私を含めて10人程が残りました。

 「漢方はなぜ効くのか」とか、「この薬はどういう効果があるのか」とか、そういう質問につまらなそうに答えるその人に、私は意を決して一つだけ質問を投げました。

「先生、漢方医になるには、先ずどうしたらいいですか。」

 彼は私の目をじっと見て、やはりつまらなそうに、

傷寒論しょうかんろんを読め。」

と言いました。私は間髪入れずに「どの・・傷寒論を読むのがいいですか。」と質問を重ねました。

 そこで初めて仙人はニヤリと笑って、

「大塚敬節先生の解説本で良いと思うよ。創元社のやつ。」

と応えてくれました。傷寒論には幾つかのバリエーションがあります。古典の段階で差異がある上に、その翻訳や解説本の数たるや途方もない量です。当然、その中には出来の良いものも悪いものもあります。だから一言「傷寒論を読め」と言われても、どれがいいのか初学者には判断がつきません。

 私が読みます、と言って礼をすると、彼は「分からなかったらメールで質問してもいい」と応えてくれました。


 私は学生のうちに、どうにか傷寒論を読みました。


 研修医向けの漢方勉強会に参加したときのことです。師匠せんせいが講師をすると聞いていたので、私はわくわくしながら始まる時間を待ちました。内容は、漢方医学的な腹部診察の基礎です。講義の後には実技指導もある予定で、それは貴重な学びの機会でした。

 ところが、定刻になっても師匠は現れません。
 受講者たちはざわつき、スタッフが右往左往しています。特に連絡もなかったようです。これでは時間が勿体ない。そう思った私は、教壇に立ちました。

師匠せんせいの到着が遅れているようですので、(本当に)勝手ながら、始めます。」

 見知った顔が多かったから出来た芸当ですが、そのまま私はホワイトボードに図や用語を書きながら腹診の解説を始めました。

 話し始めて4, 5分経った頃に講義室の扉が開いて、師匠が姿を見せました。私が慌てて「すみません!」と言うと、師匠は「いや、大丈夫。そのまま続けて。」と言いました。私の話した内容は、その約一年前に師匠が実習で話していたことの完コピです。一字一句憶えていましたから、板書と併せて忠実に再現することを試みました。

 解説が終わると、師匠は「完璧。」と言いました。それから受講者に「そういうことだから、じゃあ次、実践編ね。」といって勉強会は何事もなかったかのように進みました。

 その夜、師匠は行きつけの焼鳥屋に、私を連れて行ってくれました。

 店主に「お、先生。珍しいね。誰つれてきたの。」と訊ねられた瞬間、私はチャンスだと思って「弟子です!」と自己紹介をしました。師匠は笑いながら「そうか、そうだな」と言いました。

 旨い焼鳥と日本酒を楽しみながら、師匠は私の身の上や漢方医学との関係について耳を傾けてくれました。師匠は「そりゃ、漢方医にならないといけないな。」と頷きました。



 職場の机の真ん中に、師匠の執筆した医学書があります。厚さ7cmを超えるその本をめくると、最初の頁に直筆のメッセージがあります。

日本一の漢方醫になって下さい

 期待とも祈りとも読み取れる言葉を前に、私は思います。

 こんなん書いてる場合じゃねぇ(仕事中)



 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の傷が癒えた頃、大切なものを思い出せますように。





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