音楽と小説について
好きな音楽の話をしようと試みるとき、どうもことばを連ねるだけでは表現し得ないことがあって記事を書くのをやめた経験が何度もあるけど、それが一体なぜなのかはいつも曖昧なままだった。
好きな小説を紹介するのと同じように音楽についても紹介すればいいのに、それはいつもなんともいえないもやもやによって阻まれてきた。
しかしそれがなぜなのか、最近ようやくわかった。
音楽とは聴覚に依拠するものだからだ。
たとえば小説の内側に音が登場するとき、その音はことばであらわされた記号にすぎない。車のクラクションの音も、休み時間の教室の喧騒も、風が葉をそよめかす音も、物語を彩る音の要素は全て私の頭の中で自由に想像できるものであって、そこに物理的な音として存在しているわけではない。小説というのは緻密なことばによって構築された世界だからだ。
でも音楽はそうではない。
私の聴く音楽のほとんどは、歌詞の形を取った言語と音が組み合わさったものだけれど、音楽の本質は歌詞ではなくて、その楽曲の持つサウンドそのものの方だ。
小説が主に視覚的要素で形づくられているのに対して、音楽は聴覚的要素が主軸となっている。小説は目を、音楽は耳を使役させるけれど、音楽はいつ聴いても常に完成されたサウンドで私の鼓膜を震わせる。小説と音楽の大きなちがいのひとつは、そこに実在の音が存在しているかどうかなのだ。
だからある音楽についてことばで説明をするというのはすごく難しい。ことばだけを用いる文章で音は表現しきれないからだ。その音楽を知らないひとに向けて伝えようとするのはなおさら難しいことだ。
だらだら魅力を書くだけではどこか陳腐に見えてしまう。どの曲のどの歌詞がいいとかいうのも、歌詞をただ詩として見るのと、その楽曲の音と一緒に聴くのではまったく違う。音の重なりやリズムといった複合的な要素でしか表現することができない、そこだけに創造される世界がたしかにあるというのは、音楽のすごいところだと思う。
そのことをごちゃ混ぜにしていたので、私は好きなアーティストや楽曲について文章で書くことにことごとく失敗してきたのだった。
oasisの「Stand By Me」のイントロがいつ聴いても脳が痺れるほどいいとか、YUKIちゃんの「プリズム」を覆っているハーモニーがたまらなく好きだとか、スピッツの「ハヤブサ」のサビがいかに爽快なメロディかということを語ろうとするとき、私はいつもことばの手の届かないことを知る。
もちろん、歌詞を好きな曲もいっぱいある。
私は曲を聴くときに歌詞を重んじる傾向にあるので、この曲のこの歌詞が最高にいいということをnoteで書こうとしたことは何度もある。でも音楽は歌詞だけで語るには、あまりに音の要素が重要すぎる。だから伝えたくても全部伝えられっこない。私はいつももどかしい気持ちで文章を書き、やがて筆を置くのだ。
音楽はどんなにことばを尽くして説明されるより、それそのものを聴いた方がはるかに豊かで、正確で、そしてひとの胸を打つもののように私は思う。ことばで表現しきれないことは多い。私がどれだけことばの力を信じていても、言語の本質は文字ではなく音なのだ。
触れてきたことばがひとを形作るように、聴いた音楽もまたそのひとの一部になっていると思う。そうやって自分の肉体となった音楽は血液のように身体中をめぐり、そのひとをそのひとたらしめる力を持つ。
音楽や小説にはたしかにそういう魔法のような目に見えない力があって、だから私はいずれも自分の生きていくうえで必要不可欠なものだと思っている。そして私がどんなに「これはすごくいい!」と思って紹介した音楽や小説でも、実際それに触れてどう感じるか、どう捉えるかはいつだってそれを受け取る個人にゆだねられているのだ。
同じ小説を読んでも、どの部分が胸を打つのか、どの一文が好きなのか(あるいはどこをその小説の核心ととらえるのか)はひとそれぞれ違っている。音楽にもそういう性質がある。私はそういうのがとてもいいなと思う。
音楽や小説はいつでも孤独な私たちのそばにいる。
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