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言の葉贈答記

誰かに贈りものをする、誰かから何かを贈られるということは、コミュニケーションのひとつであり、その意思の有無を示すための方法でもあるのだと、大学の先生が言っていた。

そう考えてみたとき、私にとっていつでも惜しみなく誰かに手渡せるものというのは、形ある何かではなく、言葉なのだと気がついた。

考えてみれば、私は言葉を惜しまない少女だった。何も言わないで後悔するより、全て伝えて(あるいは伝えすぎて)後悔することをなんの躊躇いもなく選択し続けてきた。

もちろんそのせいで誰かを傷つけたこともあるし、それによって自分が傷ついたこともある。私にとって、たとえ意図的ではなくとも言葉で他者を傷つけるということは、その言葉をわざわざ選んで用いた自分をも傷つけることと同義なのだ。

言うなれば、相手の胸元に突き立てた短剣を自分の心臓にも突き立てるような。

けれど、それでも私は言葉を贈ることを選択し続けてきた。どんなときでも言葉を惜しまないことは、私のポリシーのひとつだった。

だから言いたいことを伝えなくて後悔しているひとや、さまざまな理由で自分の言葉をためらっているひとを見ると、むずむずして仕方がなかった。

伝えられずに朽ちていく想いや、胸の中で殺されてしまう言葉があることは、幼い私にとって何よりも許しがたく、耐えがたかった。

***

言葉をやたら豊かに用いることのよくないところは、話が大袈裟になったり、語りすぎてかえって陳腐になってしまうことじゃないかと思う。

言葉をどんなに愛していて、たとえなにもおそれずに言葉を放つことができるひとでも、言葉を信頼しすぎるのはよくない。

どんなにたくさんの言葉を知っていても、それで言い表せることは知れているのだし、頭の中にあることを完璧に言語化できたらみんな苦労しない。

それに私たちは言葉で語ることだけではなく、沈黙をも選ぶことができる。沈黙の方が言葉より雄弁なことがあると誰かが言っていたけど、それは真実だと思う。

だって、私たちは言葉ではないものを用いてコミュニケーションをとることもできるのだ。

人間は言葉を話すけど、言葉では伝わりきらないものは視線や態度をつかって、より胸に迫るかたちで伝えられる。そうやって意思疎通を図ること、それが可能な相手がいることって、とても素晴らしいことだ。

けれど私は私が愛するひとびとに、「私はあなたのことがだいすきです」ということを、わりと躊躇なく言葉で伝えてきた。もちろん言葉以外のやり方と合わせてだけど、はっきり口で示してきた方だと思う。

そしてそういうことを他者に伝えてしまうのは、私がそのひとに惜しみなく贈ることのできるものが言葉しかないからだ。

現在進行形にせよ、過去のことにせよ、私とかかわってくれている誰かのことをnoteで語ってしまうのは、言葉で表現するほかに、そのひとに愛を伝える方法を知らないからだ。たとえ伝わらなくても。私が語っているそのひとには、永遠に読まれない文章だとしても。 

そして私は、だいすきな誰かにもらって何よりうれしいものが言葉なのだ。

どんな言葉も、一度放たれたら二度と戻らない。言葉そのものは、おそらく信用しすぎてはいけないものだ。欺くために用いることもできるし、思っていたのと違う形で相手に働きかけてしまうこともある。

しかし恋人が私にくちづけを落とすのと同じように、私は誰かに愛を示すやりかたのひとつとして、言葉を用いる。私にはそれしかできないからだ。

私はおそらくこれからの人生においても、わりとストレートに言葉で愛を表現してしまうだろう。それが結果としてよい方に働いても、たとえわるく働くことになっても。

そして私のそんなやり方に耐えうるひと、そういったやり方を好むひとが、これからも私の周囲でそれを受け取り続けてくれるはずだ。

そして彼らは私の贈った言葉に対して、やはり言葉を返してくれるだろう。

誰かにもらった言葉に、私は今まで何度も打ちのめされてきた。しかしその一方で、圧倒的に言葉というものに救われてきた。それも、本人はまったく私を救っているつもりがないであろう言葉たちに、だ。

だから私はこれからも、沈黙を尊ぶのと同じくらい言葉を尊ぶし、愛をもって言葉を用い、そうやって用いた言葉を愛し続けるだろう。

まだまだ未熟で、ときどき間違えて誰かを傷つけてしまうけど、もしかしたらもうだいすきなひとびとをたくさん傷つけているかもしれないけど。

それでもどうか、どうかこれからも、そのときの精一杯の私の言葉を受け取ってください。

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