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陰鬱なる土曜日

土曜日じゃないのに土曜日とタイトルをつけた。そして夏じゃないのに、夏に撮った写真を使うことにした。そうでもしないと、やってられない気分なのだ。冬のつめたい風に負けてしまいそうなのだ。

たとえば非常階段の3階に立ち、爆音で音楽を聴きながら雨交じりの風に吹かれても、この気持ちはどうにもならない。胸の中へ押し込むことも、逆に追い出すこともできない。だったら、書くしかないではないか。

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とびきり晴れた日に暗い曲を聴きたくなると言うと、たいていの人は「どうして?」と顔をしかめるのだけれども、太陽と青空がまぶしい日に陰鬱な音楽を聴くあの感じ、私はとても好きだ。

暗い曲というのはメロディが憂鬱なものでもいいし、救いようのない歌詞のものでもいい。

光が強いほど影は濃くなるでしょう。あのコントラストがたまらない。夏は特にそれが際立っていい。冬になっちゃったので、何を聴いていてもお天気のせいでぼやぼやしてしまうのが、すこしつまらない。

なんだかあれこれ書いちゃいたいのだけれどどう書いたものかなあと思ったり、思わなかったり。私にしてあげたいことと、他者にしてあげられることとの間にぎゅうっとはさまって、つぶれてしまいそうな日々。

もし私がつぶれたとき、きれいな押し花か何かになれるのならつぶれがいもあるのだけれど。しかしどう考えてみても押し花のようにはなれないだろうから、あらがってしまうのだ。つぶれないままで、つぶされないように。もうとっくにつぶれてしまいそうだとしても。

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22歳にもなって、私ってば自分のことで頭がいっぱいなのかしら。どうもそれってあんまり素敵じゃない気がするな。もっと利他的に生きたほうがいいように思うのになかなかそうはいかない。

最近誰かと話していてもやもやすることが多くて、自分のちっぽけさに嫌気がさしてきてしまう。

みんな話したいことばかり私に話して、私が肯定的な言葉を手渡すとどこかへ行っちゃうのです。私の話は最後まで聞かない。

そういうことが重なると、たとえば久しぶりに会った誰かに「最近どう?」とか聞かれたとしてもそれが社交辞令だってことが見え透いて分かってしまう。それを分かってまで相手に自分の話をしようと思えなくなってしまった。小学生や中学生のころはもっとのびのび話せていたのにな。

そういうの、ときどき自分でもやりきれなくて、胸がぎゅうっとなっちゃう。調子のいいときは自分のことは秘めたままで相手の話をいくらでも聞いてあげちゃうのに、そうでないときはどうしてこんなに苦しいのか。

いつもは上手にできるはずのきれいな笑顔さえつくれなくて、ぎこちなくなる。私が笑っていた方が、楽しそうにしていた方がみんなきっとうれしいはずだって分かっている。私だって私が笑っていた方がうれしいし、大事なひとが笑っているとそれだけで1日が楽しくなる。

けれどそういうことを相手に言うと、だいすきな誰かに明るく元気でいることを強いているみたいになってしまうし。どう言うのが正解なんだろうな。いまだに分からないでもやもやしてしまう。

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結局のところ、きっと、私のことを本当の意味で完璧に理解できるひとなんて世界のどこにもいないのだ。ただ、私のことを理解しようとしてくれるひとはたくさんいる。私を好きでいてくれて、だから言葉を聴きたいと、泣きべそをかいてもいいと、そう思ってくれるひとがいる。

私も「このひとのことを分かりたい」と思えるひとがたくさんいる。そしてそれが私が明日の朝目を覚ます動機になるのだ。

けれど思っちゃうのだ。あなたに私のことなんて、分かりっこないんだ。だって私にだって分からないんだもの。そんなふうに思ってしまう瞬間があることを隠して、ときどき吐露して私たちは生きていくのだ。それでいいのだ。

もしあなたが無理しているなら、あんまり無理しないで。たまには声をあげて泣いたっていいのよって、自分に言ってあげて。そしてあなたのだいすきなひとにもそう伝えてあげてほしい。あなたが用いることのできる言葉と、まなざしで。

冬を行くあなたのそばに、どうかあたたかな灯がありますように。



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