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黒板消しのあいつ

私にはふたり妹がいる。ひとりは春から大学2年生に、もうひとりは中学1年生になった。

11歳年が離れている下の妹が晴れて中学生になったので、自分が中学生だったころのことを思い返すことが増えた。

中学生だったころ。感覚的にはついこの前のことなんだけど、時間でいえばもう10年も前のことらしく、そのことに驚いてしまう。この調子だと、気づいたときにはもうおばあちゃんになっているんだろうな。

下の妹は人見知りをするたちだし、口数が少なく寡黙で、積極的に誰かに声をかけるタイプではない。

それどころか、クラスメイトの子の新品の絵の具が行方不明になったとき、別の子に濡れ衣を着せられても黙っているようなタイプだ。そして、その事件が起きてから解決するまでの流れを家族にも説明しないような子である。

ありがたいことに仲のよい女の子のお友達が妹をかばってくれたらしいのだけれど、姉としては、やっていないならもう少し積極的に戦ってみたらいいのに、と思ってしまう。

もっとも、そういう飄々としているところもまた彼女の魅力なのだけれど。

その点、私は誰かのことが気になったら自分から話しかけるタイプだし(そのせいで鬱陶しがられることももちろんあった)、やってもいないことで濡れ衣なんて着せられたら、徹底的に相手と戦う少女だった。

そんなふうに正反対の性格をしている妹が中学に入学する直前、一緒にお風呂に入っていると、彼女が不安そうに私に声をかけてきた。

「ねえ、中学校でお友達できるかなあ?青葉ちゃん(彼女は私のことを「お姉ちゃん」と呼ばず名前で呼ぶ)は中学校のときどうだった?」

中学生になったら、隣町の小学校へ行っていた子たちと同じ学校へ通うことになるので人数がぐっと増える。クラスもふたつ(それでもふたつしかないけど)になるから、彼女は心配だったのだろう。

「うーん。中学校のときも、大概変なひとばっかりいた気がする」と私は返事をした。

そしてどんな妙なひとがいたか、思い出せる限りで最も変な出会いはなんだったか考えてみたとき、私が真っ先に思いついたのは、ある男の子のことだった。

その同級生は男の子だったんだけれども、どこか女の子っぽいというか、他の同級生の男子たちとはちょっと違っていた。なよなよしていて女の子たちとつるんでいることが多かったし、喋り方もちょっと女々しい感じ。

運動はあまり得意じゃなくて、色白で絵がうまくて、ものすごく生意気な口の利き方をする男の子だった。

私の生まれ育った場所は過疎地域だから、私たちが中学生1年生になるちょうどその年から、ふたつの中学校が統合されてひとつの中学校になることになっていた。

そしてそれはつまり、小学校のときよりも同級生の数が増えるということで、私はスポーツも習い事もしていなかったから、中学校には知らない子がたくさんいた。

女々しげな彼とは1年生のときのクラスが違ったので、入学直後はあまり話したことがなかったのだけれども、部活動が一緒だったから、放課後は毎日のように顔をあわせていた。

入学してわりとすぐだった記憶があるので、たぶん春ごろだったのだろう。週末の部活の日のお昼休み、私たちは教室でみんなで遊んでいた。私は吹奏楽部に入部していて、土日に部活が1日中あるという日がわりと頻繁にあった。

お弁当を食べ終わってから部活を再開するまでまだ時間があったから、数人の同級生たちと1年生の教室でたむろっていたのだ。

黒板にチョークで絵を描きながらおしゃべりして、わりと和気あいあいと過ごしていた気がする。その中には無論彼もいた。

黒板の前でわちゃわちゃしていると、いきなり誰かに背中を黒板消しではたかれた。なんの前触れもなく、急にだ。自分の目を疑った。反射的に後ろへ振り向いて確認したら、黒板消しを振りかざしていたのは例の女の子っぽい彼だった。

まだほとんど話したことがない同級生に無言でいきなりはたかれて、私の新しい体操服はチョークの粉まみれになった。

一体なぜそんなことをされたのか全くわからなかったけれど、私が振り向いた途端に走って逃げ出した彼を見て、ものすごく頭にきた。だって私は彼に何もしていないのだ。

先にやったのはおまえだからな、と思った。

身を翻した私は、複数ある黒板消しの中から、最もたくさん粉がついている黒板消しを瞬時に選んでつかみ取った。そしてそれを持って、彼を追いかけた。

彼にとっては残念なことだけど、彼より私の方が足が速かったらしく、教室から廊下に出たところですぐに彼に追いつき、左手で彼の体操服の首根っこをぎゅっと強く掴んで捕まえた。

そしてじたばたしている彼の背中に向けて思い切り右手の黒板消しを振り下ろした。

頭を叩くのはかわいそうだと思い、咄嗟に背中にしたのだから褒めてもらいたい。その代わり思いきりやった。だって先に仕掛けてきたのは私じゃなくて彼の方なのだ。

こちらも咳き込みそうなほどチョークの粉たっぷりの黒板消しのせいで、彼の背中は取り返しがつかないくらい真っ白になった。

彼はゴホゴホ咳をしながら何かを訴えようとしていたけれど、私は無言で彼を睨みつけて黙らせ、そのまま彼を廊下に置き去りにしてさっさと教室に戻った。

驚くことに、この一連の事件の間、私と彼は両方一言も口をきいていなかったと思う。周りで見ていた他の友人たちもびっくりするほど一瞬の出来事だったはずだ。

このときのことは私にとってかなり印象的だったらしく、去年もなんとなくこの出来事を思い出して大学の研究室の覚書に書いたら、「赤毛のアンを思い出したよ」とコメントをもらったことがある。

そのコメントを目にして私は、ギルバートに赤毛をからかわれて癇癪を起こしたアンが、ギルバートの頭目がけて思いきり黒板を叩きつける場面を思い出し、たしかに似ているかもしれないと思って笑ってしまった。

しかし、今これを書きながら考えてみてもやはりさっぱり分からない。彼がどうしてあんなことをしたのか、私は結局未だに知らないのだ。

彼が私を黒板消しではたいた理由。

それは中学生になったばかりの男の子の幼い好奇心によるものかもしれないし、単に彼がほぼ初対面の私のことをなめていたからかもしれない。

しかし私はやられっぱなしの女の子ではなかったので、やられた分(もしくはそれ以上)をきっちりやり返し、自分がどんな人間かを新たな友人に示すことに成功した。

この事件のあと、私は彼を以前よりはっきりと認識し、クラスが違うなりにあれこれ話すようになった。部活じゃない日の休み時間にも、廊下で会ったときには声をかけたりかけられたり、ちょっかいをかけたりかけられたりするようになった。

それは結果的に、彼と私が黒板消し事件をきっかけに仲よくなったということだ。

自分で書いていても、本当に全くもって意味のわからない打ち解け方である。しかし私たちはかつて、そういうことが平気で起きてしまう、中学生という未熟でおかしな生きものだったのだ。

彼といえばもうひとつ、印象深いこんな話がある。

私と黒板消しの彼は進学した高校が違っていたのだけど、高校に入ってからもしばらく適当に連絡を取っていた。お互いに特別な感情がないことを分かっていたし、気さくに話せる相手でもあったから、そういうふうにやりとりができたのだろう。

高校に入ったばかりのある日、彼から連絡がきていた。何だろうと見てみたら、今日は国語の授業で、自分の名前であいうえお作文の文章を作ったんだ、というような報告だった。

これも今考えてみれば、中学校ならともかく、高校の国語の授業で自分の名前を使ってあいうえお作文などやるのか、甚だ疑わしいところではある。

しかし、彼の行った高校は進学を目的とする学校というよりもっと実践的な技術や、卒業後すぐに働けるような学びを得られる学校だったし、まだ高校に入学したばかりだったから、自己紹介がてら国語の授業でそういう活動をやったんだろうな、と私はすんなり信じて話を聞いた(第一彼があいうえお作文をやったと言ってるのだ)。

そして彼は「おまえの名前だと、たとえばねえ…」と、私の名前を使って即興でこんな文章を作って送ってきてくれた。

わたしの
たのしみはね
りんごと
ますかっとを
こっそりたべることだよ

これで私の本名がばれちゃってもしょうがないや!と思えるので、思い切って書いてしまった。

だってこれは替えが効かない文章なんだもの。

(個人名は、恋人とか親友とか、〇〇な彼あるいは××な彼女というようにいい感じに別の言い方に置き換えられるけど、この文章は置き換えられないので仕方がない。たとえ置き換えても、元の文章の魅力が死ぬだけだ)

このあいうえお作文は、私が想像していたものよりもはるかにかわいくて、私は「えー、何それ!私、マスカットもりんごもこっそり食べてないし!」と思ったけど、それとは裏腹にかなり気に入ってしまった。

以後思い出すたびに何度もこの文章を口ずさんでみたり、こっそりLINEのステータスメッセージに設定してみたりもしたものだ。

だってりんごとマスカットをこっそり食べることが楽しみなんだなんていうかわいらしい文章を、高校生男子が私の名前で即興で作ってみせるなんて夢にも思ってもみなかったのだ。

しかもわずか3年前に、ほぼ初対面の状態でいきなり黒板消しで私をはたき、私を怒らせた彼がだ。

そもそも私はそれまで、あいうえお作文というものがあんまり好きじゃなかったのだ。頭文字が決まっているせいで、訳のわからないおかしな文章になるか、つまらない無骨な文章になるかのどっちかだったから。

だからたとえその気がなかったとしても、私の好みをばっちりおさえ、私の名前で作文を作ってくれた彼はすごいと思う。なんともよいセンスの持ち主だ。

私はそのとき初めて、あいうえお作文の自由さというものに気づいた。やりようによっては、あんなかわいい文章を自分の名前から作れるのだということを知って、悪くないな、と思った。

そして不思議なことに、何度彼との過去のLINEのトーク履歴を見返しても、このあいうえお作文はどこにも見当たらないのだ。たしかにLINEで会話したはずなのに。iPhoneを新しくするときにはデータをそのまま移行しているから、どこかに必ず残っているはずなのに。

そういうエピソードも含めて、彼はやっぱり不思議なひとだった、と思う。

今はどこで何をしているのだろう。中学生のころみたいに、まだどこかなよなよしているのだろうか。おかしな絵を描いたり、妙なことを言ったりして、誰かとの関係を紡いでいるのだろうか。

ともかく彼がどこかで元気に生きているといいな、と思う。

粉まみれの黒板消しを思いきり叩きつけ合うことのできる相手なんて、私はもうおそらく今後得ることはないだろうし、あんなに気に入るあいうえお作文を他者に贈られることもないだろう。

そんなことを思いながら、中学生になる妹に彼の話をすると、「へんなの」と涼しげに笑っていた。


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