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あまくてやさしい

マッシュボブの彼に、好きだと言われた。

去年の水無月に、研究室でぴたっと目があってから話すようになった彼。学部学科もゼミも、取っている教職科目も一緒の彼。去年の秋の終わり、私が熱を出したらお見舞いにりんごジュースをもってきてくれた彼。


その彼に好きだと言われた。ゼミのみんな(もちろん先生が主催)とのはじめて飲み会の帰り道、アパートの前まで送ってくれたマッシュボブの彼に言われたのだ。もちろん夜だからあたりは暗く、私たちはふたりきりだった。

好きだと言われておいてなんだと思われるかもしれないけれど、私は彼の言葉を半分は本当だと思い、もう半分は嘘だろうと思った。

もともとどこか軽やかな雰囲気のある男の子だから、余計にそう思ってしまったのかもしれない。重々しそうな感じはしない。よく言えば軽やか、悪く言えばちゃらく見えてしまう男の子だから。

けれど私は彼に好かれていてもおかしくないと、どこかで思っていたような気がする。

だから思いを打ち明けられてもたいして驚かなかったし、「友達だと思っていたのに」などとショックを受けたりもしなかった。

だって私も彼のことはとても好きだからだ。

私には昔からこういうところがある。自分が相手を好きなんだから、相手もそうに決まっている、と考えてしまうところ。幼くて、愚かな考え方だと分かってはいるのだ。

しかし恋愛とか友情とかそういうくくりをみんな外して考えてみても、私は彼のことをすごく好きだと思うし、実際彼に興味を持っていた。世渡り上手で、誰とでも気兼ねなく話せる彼をひそかに尊敬していた。どんなにぎりぎりになっても課題はちゃんとそれなりのものを作って間に合わせるし、二日酔いで気分が悪くても授業やバイトには出るし。

私には今、出会って5年になる恋人がいて、しかも遠距離恋愛をしている。
とはいえ変わらず恋人のことが大好きなので、マッシュボブの彼と話をするようになると、彼との関係性は自然に友情へと変換された。

けれどもし私が高校時代に今の恋人と出会えておらず、しかも今彼氏がいなかったら、間違いなくマッシュボブの彼を気になっていたと思う。

私は惚れっぽいのだ。最近まで自分を浮気っぽいのかもしれないと思っていたけど、どうやらちがう。たぶん単に惚れっぽいのだ。

だから、どんな種類であれ、好意がなければマッシュボブの彼と最初に目が合った瞬間に知らんぷりしていただろうし(そもそも目さえ合わなかっただろう)、熱が出たときに「なにか差し入れしようか?」と言われても、はっきりと拒んでいたはずだ。

嫌悪感をもっていれば、きっとここまで仲良くなっていない。

そこだけは私は彼に嘘をつけない。

そういうような話も相まっていたけれど、それに関係なく、彼は私に自分の気持ちをそっと手渡してくれた。彼は本当に、たいそう繊細で、儚げに好きだと言った。少年のようなまなざしで。けれど何度もは言わなかったし、その言葉の主張は実に弱かった。好きという事実を、その響きを持つ言葉を純粋に述べただけのような、自分の抱いている感情はその言葉に全く上乗せしていないような、そんな言い方だった。

私は聞くなり、すぐさま「私、彼氏がいるよ」と返した。

恋人がいるのは伝えていたつもりだったけれど、もう一度ちゃんと言っておかなくてはと思ったのだ。しかも、自分でもちょっとどうかと思うけれど、にっこり笑いながら言ったと思う。記憶が正しければ。

だって、私からしたらなにも深刻ではなかったのだから。

今まで好きになってきた男の子は多くいるけれど、恋が実ったことは少ないし、私を好きだと言葉ではっきり示してくれた男の子は何人もいない。大抵いつも私から先に気持ちを打ち明けてしまうし、そうでなくとも恋心をはぐらかされたり、曖昧なままで終わっていったりしたことが多かったのだった。そんな恋ばかり。

だから私のことを好きで、それを目の前で伝えてくれる男の子がいるなんて、たとえそれに応えられないとしてもうれしいに決まっている。

「うん、そうやな。あかんなあ」


彼は私の「彼氏がいるよ」という言葉を聞き、静かに笑った。夜の暗い闇に溶けそうな彼の顔は、なんともいえずかなしそうでもあるし、それとは真逆にちっともかなしそうでないようにも見えて、やっぱりつかみどころがないなあと思った。

「ワンチャンあると思ったの?」と聞いたら、
「いや別に思ってないし」と鼻で笑われた。

それが友だちらしくて、妙によかった。

それにしても、酔っぱらっているときはどうしてそんなことを普通に訊けてしまうのだろう。自分でも驚いた。私はそのまま「ふうん……え、性欲がないの?」と聞き(今思えばとんでもない)、すぐさま「いやあるやろ」と突っ込みを入れられたのが面白くて笑ってしまった。

告白された直後の会話がそれなんて、お互いに真面目なのかふざけているのか分からないと思われるだろうけど、たぶん、私たちのその空気感は、許される中では最大限の真剣なものだったのだ。

これ以上ふざけていたら彼の気持ちを踏みにじってしまうし、真面目すぎては危うくなってしまう。それが本能的に分かった。恋人がいる状態のときに誰かに好きと言われるなんて初めてだったけど、それだけは分かった。

「私とあなたは付き合えないし、最近よく聞くセフレとかいうのも無理だよ。もちろんこのあと部屋にもいれないよ」と言った。セフレなんてことばが勝手に口から飛び出たので自分でも驚いたけど、ちゃんと言っておかなくてはならないと思って必死に言った。

しかしちっとも恥ずかしくなんてなかった。それは私がちゃんと彼を友人のひとりとして数えていて、そういうことを話せる相手だと思ったからだろう。

そうすると、「そんなん、身体より、心の方が大事やから」と言われた。やさしい声だった。このひとはこんな声を出せるのか、と思うほどにやさしい声だった。


ぼんやりした頭なりに、たしかにそのとおりだ、馬鹿なことを言ったかもしれないと思った。

念のために断っておくけれど、私と彼が息を吐くようにこんな会話をできたのは、単に私たちがお酒を飲んでいたからということだけでは決してない。それは私たちが普段、文学を学ぶ中でしょっちゅう「性」というものを扱っているからだ。

文学にとって性は嫌悪を覚えるべきものではない。性的なものを恥ずかしいとか、気持ち悪いとか思っていたら文学なんてできっこない。それは病院の先生が、患者さんの服の裾を持ち上げて聴診器を胸に押し当てるのと似たような感覚なのだ、と私は思う。

その証拠に、私と彼の間にはその日何もなかった。私は彼に抱きしめられもしなかったし、キスもされなかった。ただ髪や頬、指先にそっとやさしく触れられただけだった。

無理に身体を引き寄せられ、唇を奪われるようなことがなかったので私は安堵した。おそらく彼は、今私にしたこと以上のことは何もしないだろうと分かったからだ。

告白したひととされたひとである前に、私たちは友人だった。
私に恋人がいることを彼はきちんと理解していた。

「私知ってる。こういうときはね、何もせず、何もなく家に帰った方が、これからの記憶にずっと印象的に残り続けるんだよ」

そういうようなことを言ったら、マッシュボブの彼はふふっと笑っていた。少なからずそう思うところがあったのかもしれない。

彼は別れ際、前にりんごジュースを持ってきてくれたときみたいに、私がアパートの建物に入ってしまうまで、表で私の姿を見守っていた。私のアパートは入り口のオートロックと自分の部屋、二重に鍵がある構造なのだけど、その一つ目にさえ彼は入ろうとせず、実にあっさり帰っていった。

それがすごく気持ちよかった。

そのあと、私は部屋に入るなり眠気と安堵のあまり布団になだれ込んで眠りこけてしまい、翌朝の電話で恋人にたいそう叱られた。今まで付き合ってきて、彼に叱られたのはそれが初めてだった。

しかも言葉を並べたてて私を責めるのではなく、もっと静かに、言い聞かせるように私を叱るのだ。連絡しないで眠るなんてありえない、と彼は私に言った。さすがの俺でもそんなことをされたら心配になるし、あなたを信じられなくなるよと。

そのとおりだと思う。たしかにあの夜は私がひどく軽率だったので、今もまだ内省は続いている。

恋人は言うことを言ってしまってからはけろっと気分をなおして普通にしているけれども、だからといって私が普通にしているのは違うので、胸の中でずっとそのことを考えている。彼と約束した、これからは飲み会があってどんなに遅くなっても、どんなに眠くても、必ず一言連絡を入れるということを。

恋人に対して、私があまり誠実ではなかったこと。飲み会の後で連絡しなかっただけで、ふたりの関係性が壊れてしまってもおかしくはないこと。

翌日、恋人との電話を終えてそれを思うと身震いがした。私にとっては当然、恋人を失う方が、マッシュボブの彼を失うよりもずっとこわいのだ。

そして言うか言うまいかすこし悩んだけれど、やはり私は恋人に内緒ごとをできないので、マッシュボブの彼とのことをきちんと話した。私の恋人は、私が酔っぱらった状態で男の子に送られたこと、そのまま告白されたことについては怒らなかった。あくまで私が連絡せず眠ったという事実に対してのみ彼は怒り、そしてマッシュボブの彼を「いいやつだ」と言った。

「酔っぱらってる異性の友だち、というか好きな子を、家までちゃんと送り届けて、ちゃんと自分を制御して何もせず帰ってさ。その男の子いいやつじゃん。いいやつだから余計にいやだ」と。

私がこのことをnoteに残しておこうと思ったのは、まず恋人への申し訳なさと、彼からの愛情をひときわ感じたからだ。私は恋人が好きで、恋人も私を好きだということ。

そしてマッシュボブの彼のくれた「好き」という気持ちを、言葉を、それでも忘れず心のどこかに飾っておきたいと思ったからだ。

私は彼がくれたものと同じものを彼に返すことはできない。

それはどうしようもない。私が誰かに想いを告げるときや、告げたあとで感じてきた痛みと同じように彼も痛いのだろうかと想像して、私も同じくらい痛いような気がしているけれど、だからってどうすることもできない。

私は恋人と別れてまで彼と付き合う意思はないし、おそらく告白した本人もそんなことは全く望んでいない。だって私は「付き合って」なんて一言も言われなかったのだ。あくまで「好き」というその気持ちだけ、彼は私に手渡していった。脆くて壊れそうなそのひとことだけを。

彼にもらった「好き」は真珠みたいにすべすべとした耳あたりをしていた。ダイヤモンドやルビーのように、強くきらめくけれど、しかし冷たく無機質な印象を与えるようなものではなく、控えめで、ごく自然に丸く、やさしいかんじ。

それは月の光にかざしたら、いつでも淡い虹色にきらめくだろう。私はそんなふうにきれいな音で、紛れもない彼の声で「好き」をもらった。

彼はきっとこれから、私への気持ちをゆるやかに手放そうと努力するだろう。私はそれを何も言わずに見守るしかない。

大学を卒業するまで、私と彼は週に2回は必ずゼミで顔を合わせることになる。研究室でも、教職の授業でも会うだろう。そして今までのように、顔を合わせたらすぐにおしゃべりをするだろう。授業や課題で分からないことがあれば聞くだろう。

もしかすると彼の胸中は複雑かもしれない。しかし彼は私にそこを決して見せないだろうし、ならば私もあえて見ようとはしないつもりだ。

それが私がマッシュボブの彼に示すことのできる唯一の誠意だと思うからだ。

来週からは互いに教育実習があるから、次に私と彼が顔を合わせるのは1か月後くらいになる。そのとき彼は普通に目を見てしゃべりかけてくれるだろうか。あのアーモンド形の瞳を細めて笑ってくれるだろうか。

たぶん、何もなかったみたいにそうしてくれるんだろうなあ。

でも私はあの清い夜のことを覚えていたいし、あの真珠のような「好き」をなかったことにもしないよ、と思っている。これからも彼に対して思わせぶりなことは絶対にしないけど、彼が許す範囲で、私は今までの友情を貫きたい。これはわがままだろうか。わがままだろうなあ。

だけど好きって言ってくれてありがとう。

いつかこの文章がどうにかして彼のところに届きますように。

大学を卒業したあと、彼がりんごジュースかなにかをみて私のことを思い出し、うっかり微笑んでしまうような、そんなふうに届きそうで届かない、近くて遠かった、お月さまのような女の子に、いつかなれますように。

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